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徽宗皇帝のブログ

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西側広告塔に属さないものは無視!
「マスコミに載らない海外記事」から転載。
マララ・ユスフザイが西洋支配層の広告塔だ、という指摘をした人間は少ない。私はその数少ない一人であることが実は自慢だが(笑)、これはこの20年ほどの間に培われた、物事を斜めに見る習慣の賜物で、人間があまりまともでないことの証明でもある。世界に起こる不可解な出来事に理屈が通るように考えたら、どうしてもそこに西洋支配層による操作の実態が浮かび上がってくるはずである。人々がそれに気がつかないとしたら、不可解なことを「自分の頭で」考える習慣が無い、ということだ。
「自分の頭で考える」ということを売り物にしている某ちきりんとやらが市場原理主義者であることを自ら標榜しており、すなわち新自由主義の宣伝塔であるのがまた忌々しいところである。こうしてマスコミやネットはすべて支配層に操作され、人々の頭は混乱させられていく。
西洋支配層、つまり「西側」がいかに政治的宣伝に力を入れているかは、マララ・ユスフザイを見れば一目瞭然であり、それが人道とはまったく無関係であることは、下記記事を見ればこれも明瞭だろう。
アメリカで反中国宣伝行為に従事している盲目の人権活動家とやらも、西側の広告塔である。だが、中国に関しては西側との経済的な結び付きが密接になっているため、彼はいざと言う時に商売相手の足を引っ張るための手ゴマとして持っているにとどまっているわけだ。こういうやり方がユダヤ式の商売方法であり、クラウゼヴィッツの言葉をもじれば、「政治とは商売の延長である」わけだ。かくして、世界は彼らの手の上で踊ってきたわけだが、彼らのやり方に気付いた人間の数は世界的にどんどん増えているはずだ。この先どうなるか、楽しみである。


(以下引用)



2013年11月 5日 (火)



マララとナビラ: 天地の差




マララ・ユスフザイと違い、ナビラ・レマンは、ワシントンDCで大歓迎されなかった。

2013年11月1日 11:15
ムルタザ・フセイン



"印象的な薄茶色の目をした9歳のほっそりした少女ナビラは、証言として、素朴な質問をした。"私のおばあさんが一体どんな悪いことをしたのですか?"とムルタザ・フセインと書いている[ロイター]

2012年10月24日、8歳のナビラ・レマン、兄弟達、そして祖母が家の側の畑で働いていると、北ワジリスタン上空を飛行するプレデター無人機が出現した。来るべきイードの祝日に一家が準備をする為、祖母のモミナ・ビビは、子供達にオクラの摘み方を教えていた。ところが、この日、一家の暮らしの行方を永遠に変えてしまう恐ろしい出来事が起きた。子供達は、空でCIAが運用する無人機が発する独特のブーンという音を聞いた。24時間それにつきまとわれているパキスタンの田舎の村人には聞き慣れた音だが、その後、二度大きなカチッという音がした。無人飛行機は、致命的な爆弾をレマン一家に向けて発射し、この子供達の人生は、瞬時にして、苦痛の悪夢、混乱と恐怖へと変えられてしまった。子供7人が負傷し、ナビラの祖母は彼女の目の前で殺害されたが、この行為に対しては何の謝罪も、説明も、正当化も行われていない。

先週、ナビラと、教師をしている父親と、12歳の兄が、自分達の話を語り、あの日の出来事についての答えを求める為、ワシントンDCにまで旅してきた。しかしながら、遥か彼方の村からアメリカ合州国まで、信じがたいほどの障害を乗り越えてやって来たにもかかわらず、ナビラと家族は露骨に無視された。議会聴聞会での彼らの証言に、出席したのは、430人の議員のうち、わずか5人だった。ナビラの父親は、わずかな出席者達にこう語った。"娘はテロリストの顔をしていませんし、母親も同じです。私には全くわけがわかりません、一体なぜこういうことが起きたのか… 教師として、アメリカ人に、私の子供達がどのようにして負傷したのかを教え、知らしめたいのです。"

通訳は彼らの話を訳しながら感情を抑えきれず泣いたが、政府はこの一家を、あえて鼻であしらい、政府が彼等にもたらした悲劇を無視した。印象的な薄茶色の目をした9歳のほっそりした少女ナビラは、証言として、素朴な質問をした。"私のおばあさんが一体どんな悪いことをしたのですか?" この問いに答えるものは誰もおらず、聞きに行く人々すらまれだった。無視解放してやっているのだと主張する人々を、政府が全く無視している象徴は、レマン一家がその窮状を語っている間、バラク・オバマは同じ頃合いに兵器製造企業ロッキード・マーチン社CEOと会見していたことだ。

都合の良いことだけの記憶

ナビラ・レマンへのアメリカの対応を、パキスタン・タリバンにすんでのところで暗殺されかけた少女、マララ・ユスフザイへの対応と比較するのは有意義だ。マララはその勇敢な行動に、欧米マスコミ有名人、政治家、市民運動指導者から敬意を表されているが、ナビラは、過去十年間のアメリカによる戦争によって、その人生を破壊された何百万人もの無名の顔の見えない人々のもう一人となったに過ぎない。この非常に顕著な違いの理由は明らかだ。マララはタリバンの犠牲者なので、その抗議の内容にもかかわらず、彼女は、主戦論者が利用できる有効な政治宣伝手段として見なされているのだ。彼女を、自分たちの取り組みに対する人間の顔、彼らの大義の良識なるものの象徴、彼女のような幼い少女の為にこそ、アメリカ合州国と、その同盟国が、そのような信じ難い虐殺を行っている典型として利用できるのだ。イスラム世界におけるアメリカ軍事行動の正しさの象徴として、彼女の名前や写真を取り上げる連中の多くが、彼女自身のこの話題に関する言葉に耳を傾けたり、感じ方を気にしたりはしていないことが、多くを物語っている。

ワシントン・ポストのマックス・フィッシャーの描写はこうだ。


マララに対する欧米の称賛は、パキスタンの少女達の状態を良くしようという彼女の努力や、パキスタンの何百万人もの少女達の苦闘に関するものというよりも、有名人や心地良い言葉で、暖かく穏やかな気分になりたいという、我々自身の欲求と化している。これは自らを許す一法で、これは善玉と悪玉という簡単な話で、我々は正義の側にあり、全てすべて順調なのだ、と自分を納得させるものなのだ。

しかし、ナビラは一体この構図のどこにあてはまるだろう? もし、裁判なしの殺害や、無人機攻撃や拷問が、全て実際に、パキスタンやアフガニスタンや他国民の解放にまつわる正当な理由の一環なのであれば、この戦争が彼女の様な無数の幼い少女達にもたらした荒廃に対する同情や、せめてもの認知は、一体どこにあるだろう? 答えは明らかだ。この紛争で苦しんでいるとを認められる人々は、敵の犠牲になった人々だけなのだ。マララは、必要とあらば、彼女自身の意思に反してでも、彼女の戦いを、アメリカによる戦争遂行の取り組みの宣伝役に使えるが、ナビラの様な無数の幼い少女達は、この果てしない戦争の一環として、恐怖に陥れられ、殺害され続けるのだ。ナビラには、決して有名人が登場したり、式典があったりはしない。彼女の証言には誰も出席しようとさえしなかった。

しかし、もし彼らが出席していたとしても、9歳の少女が、過去十年、人生を混沌の中に投げ込まれた何百万人もの無辜の人々が問うてきた質問をするのを聞く耳を、連中は持ってはいるまい。"連中は、アメリカに対して悪事を働いた連中を追いかけていると聞いたが、それなら私は連中に一体どのような悪事を働いたのだろう? 祖父が連中に一体どのような悪事を働いたのだろう? 私は何も悪いことなどしていない。"

ムルタザ・フセインは、トロントを本拠とするライターで、中東の政治に関する問題を専門とするアナリスト。

Twitterで彼の書き込みを読むには: @MazMHussain

この記事の意見は、筆者自身のものであり、必ずしもアル・ジャジーラの編集方針を反映したものではない。

記事原文のurl:www.aljazeera.com/indepth/opinion/2013/11/malala-nabila-worlds-apart-201311193857549913.html









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