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徽宗皇帝のブログ

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遊び半分でいいからデモには参加するのがいい
村野セレナ(?)の「秘書課広報室」とかいうブログ経由で、国分功一郎という人の素晴らしい論考を知ったので、紹介する。
デモの本質は、好き勝手をやっている権力への「いざとなればお前たちを叩きのめすぞ」という民衆のアピールであり、デモに多くの人が集まるだけで体制にとっては恐怖なのである、というように私は下記の文章を解釈したが、それはまあ、拡大解釈かもしれない。しかし、大きく違ってはいないだろう。
そして、デモとは本来「社会から非言語的に命令された社会秩序維持の慣習」への反逆であり、無秩序こそがデモの本質である、というようにも私は解釈した。
要するに、デモなんて、だらしなければだらしないほどいいのであり、統率された、一糸乱れぬデモなど、社会的慣習の枠内に収まった、デモとも呼べないデモだ、ということだ。
デモは、「現体制の破壊の可能性」を象徴する。デモに人が集まるだけで支配階級に恐怖を与え、彼らの行動にブレーキをかけるのである。
だから、だらしなくアイスクリームでも舐めながらデモに参加する、というのが一番いいのである。


(以下引用)

パリのデモがゴミをまき散らしながらズンズン歩くという事実は、デモの本質を考える上で大変重要であると思う。

 デモとはdemonstrationのことであり、これは何かを表明することを意味する。何を表明するのだろうか。もちろん、デモのテーマになっている何事か(戦争に反対している、原発に反対している…)を表明するのであるが、実はそれだけではない。

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。

 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。

 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。

 すこし小難しいことを書いているように思われるかもしれない。しかし、これは単なる私の実感として出てきたものだ。パリのあの群衆を見ていると、「こんなものがよくふだん統制されているな」とある種の感慨を覚えるのだ。「こんなもの」がふだんは学校に行ったり、会社に行ったりしている。それは一種の奇跡であって、奇跡が日常的に行われている。

 ここからデモの後のあのゴミについて考えることができる。なぜパリのデモはゴミをまき散らすのか。デモはほんのすこしだが秩序の外に触れている。だから、ゴミをまき散らしながら、日常の風景を書き換えていくのである。あのゴミの一つ一つが、秩序のもろさの証拠である。だからこそ、その証拠はすぐに跡形もなく片付けられるのだ。日常的に奇跡が起こっているという事実は知られてはならないのである。

 最近、日本では脱原発をテーマに掲げたデモが社会的関心を集めるようになってきた。自身も積極的にデモに参加している哲学者の柄谷行人が、久野収の言葉を引きながらデモについてこう言っている——民主主義は代表制(議会)だけでは機能しないのであって、デモのような直接行動がなければ死んでしまう(「反原発デモが日本を変える」。〈柄谷行人公式ウェブサイト〉より)。

 私は柄谷の意見に賛成である。だが、少し違和感もある。なぜならデモは、民主主義のために行われるわけではないからだ。民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって怖いのだ。民衆が路上に出ることで民主主義が実現されるというのは、むしろ体制寄りのイメージではないだろうか。この点は実はデモをどう組織していくかという実践的な問題に関わっているので、次にその点を考えよう。





 日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。

 先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。

 デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。

 もちろんなんとなくと言っても、デモに集まる人間に何らの共通点もないわけではない。心から原発推進を信じている人間が脱原発デモに参加したりはしない。彼らは生理的な嫌悪感を持つはずである。逆に言えば、脱原発という主張に、なんとなくであれ「いいな」と思う人間が集まるのが脱原発デモだろう。

 デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。

 フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。

 デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。

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