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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

重要な事実は表には出ない
「ギャラリー酔いどれ」というブログに凄い記事が載っていたので、転載する。
かなり危ない記事だが、ネットに出た以上、今更権力による隠蔽は不可能だろう。
一言で言えば、表の政治はすべて茶番であり、表に出る情報はすべて捏造だ、という事を示す事実がある、という話だ。
ここで表の情報と言うのは、言うまでもなく、マスコミと学校教科書である。
下記引用は、「ギャラリー酔いどれ」に引用されていた記事なので、孫引き引用である。
これを読めば、あるいは世界観そのものが変わる人もいるかもしれない。
なお、元記事を訪ねてみたが、このアドレスでは接続不可能であった。「日月土」という人らしいが、あるいは私の知らないネット有名人だろうか?
引用記事の最後の昭和天皇の和歌だけは、特に意味があるとは思えないのでカットしてあるが、ほとんど全文引用だ。
なお、2.26事件の犯人が「処刑されなかった」のは、もちろん、それが背後の権力の意を体した行動だったからで、処刑されないことが最初からの約束だったからだろう。



(以下引用)



http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/8a906525300fbfe4eb3ad2a44ac7ecb9
(新)日本の黒い霧 2012-09-29
◎旧陸軍士官が語った歴史の真実(1) - 123便関連事項含む -

より抜粋、

前回の記事から少し間が空きました。今回は、ちょっと趣向を変えて、
ある人物から聞いた先の太平洋戦争に関するお話について、私の記憶に残っている限りここで紹介したいと思います。
当然ながら、遠い過去を語ったことなので、記憶違いや誇張なども入っているでしょう。
また、私自身の理解不足なども含まれると思います。ですから、あくまでも、
「そんなことを言う人がいた」くらいの感覚で受け取っていただければと思います。


■華麗な経歴の持ち主

その方とは、知人の紹介で知り合いました。お会いした当時、本人いわく、
誰でも知っている日本企業の会長職を務め、現役から一歩退いている立場だとのこと。
その企業の創業者の庶子として生まれ、徳川御三家のある一家に嫡男として養子に入ったとのこと。
英語堪能、武道、ピアノ演奏にも秀で、陸軍大学を出てから陸軍の情報部に配属されたとのこと。

もちろん、かなり後世代の私がこの経歴を聞いても、すぐにはピンとはこないのですが、
いわゆる旧華族に属する人物で、日本の実権力を握るグループの一員であることは理解できます。
政府・財界に親類縁者は多数。それだけではただのお話ですが、
目の前で現役の総理大臣に気軽に電話を掛けたこともあり、ただの誇張だけではないことも確認しています。

以下、この方のことをT氏と呼ぶことにします。

現在の代議士の多くが、元議員の2世、3世であると、政治の世襲化が問題になっていますが、T氏のお話によると、
吉田茂、鳩山一郎、岸信介などの古い政治家達、もしくはその奥方の多くがT氏の親族であり、
必然ながら、最近になって総理大臣を務めた多くの代議士が、T氏の近縁・遠縁に当たることになります。
日本を代表する企業群の実質オーナーだったこともあり、血縁だけでなく、
資金面でも有力政治家と関係が深かったことは想像に難くありません。


高齢で財界の重鎮であるT氏の前では、電話の向こう側にいる日本国総理大臣もひよっこ扱いだったのも当然でしょう。
これはこれで凄い話なのですが、投票で広く才能を求め結集させるはずの民主主義が、
人材発掘の根幹部分で、一部の血族、財閥に牛耳られている光景を目の当たりにした瞬間でした。
彼らに悪気があるかどうかは別として、事実としてそうなっていることは、理解しておく必要があります。

T氏の人脈は、自民党、民主党内部に広がっていますが、T氏にとっては、
政党の主義主張などは全く意に介していなかったように見受けられました。
当たり前でしょう、どちらに転んでも自分の意向は確実に権力中枢に伝わるのですから。


■二・二六事件はやらせだったのか?

このブログのタイトルを見ればわかるように、私は松本清張先生のノンフィクション作品を高く評価しています。
「日本の黒い霧」も秀作なのですが、私が最も敬愛する作品は「昭和史発掘」の中の「二・ニ六事件」の章です。
もちろん、昭和初期のあの有名なクーデーター事件を取り扱ったものです。


写真2 (略):文藝春秋社「昭和史発掘」文庫版表紙
     松本作品に出会ってなければこのブログもなかった?


その、膨大な資料の蒐集と緻密な分析には今でも学ぶことの多い作品ですが、
T氏と出会った頃にちょうど同作品を読み込んでいたので、昭和11年の2月26日、T氏がまだ10代前後の少年だった時、
当時東京都内に住んでいたT氏が何を見聞きしたのかを尋ねました。

「前夜から雪が降り始めて、夜に軍靴の音が鳴り響いていた。
学校へは車で送ってもらうのだが、その日は休校になったことを覚えている。」

家の中に居たため、外で何が起こったのかを目撃されてはいなかったのですが、それでも、
そんなわずかな天候の描写と聞こえてくる音の様子で、当日、都心で起きていたことが生々しく想起されます。
私にとっては、T氏のこのリアルな証言だけで十分に満足だったのですが、
それに続いてT氏は奇妙なことを語り始めました。それが余りにも衝撃的だったので、
その時のやりとりをよく覚えています。記憶を辿ってそれを下記に示します。
若干不正確であることはご容赦ください。


  -------------------ここから---------------------

  T氏「私は陸軍に入隊してから、栗原さん(当時中尉:叛乱首謀者の一人)に会いましたよ。」

  日月土「えっ、どういうことですか?栗原中尉は事件後すぐに処刑されたはずですが??」
       (註:T氏が入隊するのは事件から数年後)

  T氏「世間ではそういうことになってますね。でも、私はこの目でお姿を見て、会話もしています。
     それを信じる信じないはあなたにお任せします。なお、私は歴史というものを一切信じていません。」

  日月土「中尉とどんなことをお話されたのですか?」

   T氏「栗原さんは、よく歌を歌いながら兵舎の中をこうやって歩いていましたね(歌と身振りの真似)。
     事件に関わった他の青年将校の方々がどの部隊に配属されたのかも聞いています。」

  日月土「なぜ、将校たちは処刑されなかったのでしょうか?」

  T氏「理由はわかりませんが、やはり、お国のために立ち上がった方々ですから、
     殺すに忍びなかったのだと、私は理解しています。」

  日月土「戦後、陸軍が解体されて彼らはどうなったのでしょう?」

  T氏「それは私にもわかりません。」


  写真3 (略):栗原安秀中尉
         T氏はニ・ニ六事件よりだいぶ後に兵舎内で直接お会いしたことが
         あると言う。栗原中尉は処刑されていなかった!

  -------------------ここまで---------------------


この会話を終えたとき、松本清張先生の作品を愛読していた一読者として、
どれほどショックだったかはお分かりいただけるでしょうか? あれだけの労作の結末、
「首謀者の処刑」という歴史的事実の結末が、実は捏造されたお伽話だったというのですから。
当時、123便事件の真実についてすらまだ何も知らない自分は、この証言に激しく打ちのめされたのです。

あの松本清張先生ですら騙されていたのか!?


■文藝春秋社は何かを隠してる?

T氏のお話が事実だとすると、松本先生のされたお仕事がだたの徒労であったということに成りかねません。
あるいは、松本先生自身がその疑いを持ちつつ、結論を出せぬまま、「処刑」を歴史的事実として渋々綴ったのかもしれません。

T氏のお話に納得しきれない私は、「昭和史発掘」の出版元、文藝春秋社にメールでT氏の語った内容が、
「ニ・ニ六事件」の資料に中に僅かでも含まれているか質問を出しました。

かなり突飛な内容なので、メールへの返事は最初からあまり期待していませんでした。案の状、
今でもその返事は私の元へ届いていません。しかし、メールを出してから数日後、
私の身辺で異変がありました。空き巣に入られたのです。

帰宅して、窓ガラスが破られていることに気がつきました。
アパートの1階部分で、道路沿いの端部屋から2番目の部屋。確かに入られても不思議はないのですが、
何故、入りやすい端の部屋ではなく奥の自分の部屋だったのか?
もっと不思議なのが、何も捕られていないことでした。真新しいノートパソコンが机の上に置いてあり、
預金通帳が見えるところにあるにも拘わらず、何も捕られた気配がありません。
これには、調書を取りに来た警官の方も首を捻ってました。その後、いろいろ調べて、結局、
何も捕られた物はないという結論になりました。被害は、壊された窓の修理代程度のものです。

当時の私は、陰謀論的な話に多少の興味はあっても、社会の裏側や闇組織とかいったものに具体的なイメージはなかったので、
不思議な空き巣事件ということで、勝手に納得していました。
文藝春秋社へのメールと何か関係があると疑うこともありませんでした。

ひょっとしたらメールでの質問と関係があるのではないかと思うようになったのは、
123便事件を調べるようになってからです。123便関連で関わりを深めた国際軍事評論家のB氏に、
ニ・ニ六事件の青年将校が実は処刑されず生かされていた件について尋ねると、

「私もそう聞いてます」

と、実にあっさりとT氏のお話を裏打ちしてくださったのです。青年将校の処刑については、やはり何か隠し事があるようです。

ここで、疑問に思うのが、戦後60年以上たった今、青年将校が生かされていた事実が仮に世に出ても
「愛国者への温情措置」とすれば、さほど抵抗なく新事実として受け止められると思うのですが、
上述の空き巣事件が、重大事実を知った者への嫌がらせ、もしくは警告だとすれば、
どうして、その事実をひた隠しにしようとするのか、今一つ釈然としません。
これについての論考は後述しますが、少なくとも、文藝春秋社へのメールと空き巣事件には何か関連がありそうだということ。
だとすれば、文藝春秋社は何を隠しているのかと、疑問の度合いが必然的にエスカレートしてきます。


■ニ・ニ六事件と戦時体制 - 2つの疑問

T氏の証言「ニ・ニ六事件の叛乱将校は処刑されていなかった」が事実であると仮定し、また、
私の遭遇した「文藝春秋社へのメール後に起きた不可解な空き巣事件」が事実隠蔽工作の一端であったと仮定した場合、
そこから新たな疑問が幾つか派生してきます。それを箇条書きにすると以下のようになります。

 (1) 何故、青年将校達は処刑されなかったのか?

 (2) 何故、半世紀以上昔の事実が隠蔽され続けなければならないのか?

他にも細かい疑問は色々と出てきますが、重要なのは上記2点になるかと思います。
(1)の回答としては、T氏自身が「愛国者達への計らいだったのでは」という推測を述べられていますが、
政府の重鎮が暗殺され、陸軍内の青年将校達のシンパ、
いわゆる皇道派の高官達が事件後粛清されていることを鑑みれば(これも本当かどうか分からない)、
「温情」の一言で処刑を免れたとはとても考えにくいものがあります。
なおかつ、証言によると、彼らは、事件後に陸軍内の実権を握った統制派の下で
職務の継続と行動の自由を与えられていたようなので、これが特別計らいの温情措置であったとは、
常識的には考えにくいものがあります。

この疑問に対する最も簡潔な回答として、以下が考えられます。


 ニ・ニ六事件は、初めから事件後の効果を狙った、皇道派・統制派の両派閥間で巧妙に仕組まれた茶番であった


事件後の効果、あるいはその茶番を企図する一番の目的は、他でもなく"戦争突入"であり、
海軍出身で戦争回避派、また天皇機関説を支持する岡田啓介首相 (当時)、
およびその片腕である高橋是清大蔵大臣が暗殺の対象になったのも、シナリオの流れから俯瞰すれば当然の事である
と考えられます(岡田首相は難を逃れたが、急速に求心力を失う)。



ニ・ニ六事件発生の原因は、東北地方を中心とした地方庶民の困窮と生活苦、
それに対する政府の無策に憤った志高き青年達の暴走という風に、一般的には説明されていますが、
果たしてそんなご立派なものであったのかどうか。あるいは、叛乱した彼ら自身は純粋な理想を抱いていたとしても、
その情熱を上手に弄ばれてしまったのかもしれません。

日本を戦時体制に移行させることにより、軍部は国内の政治経済に強い影響力、そして実際的な権限を得ることになります。
これは軍部にとって大きなメリットです。そのために目障りな和平派の弱体化を図ること、それと同時に、
皇道派など、コントロールが難しい極右勢力の勢いを一定程度削ぎ落とすことが必要になります。

ニ・二六事件は、戦時体制を作り上げるための最後の仕上げとして企図された茶番。
そう考えると、事件後に、政府が弱体化し、東条英機を初めとする統制派が幅を利かすようになり、
同事件の翌年、1937年に盧溝橋事件が勃発。泥沼の日中戦争へと突入し、更には太平洋戦争へと繋がる急展開に、
欧米諸国に追い詰められただけでない、別の説明を与えることができます。
以下はニ・ニ六事件前後の簡略年表です。これを眺めると、
政府要人への殺害行為を契機に戦時体制へ強く牽引されていく日本の体制が見て取れます。また、
1938年の国家総動員法の制定は、事実上、米国との開戦準備であり、日本の軍事政府に和平案など念頭になく、
戦争を遂行することが初めからの規定路線であったことが伺い知れるのです。

1931年 5月15日 五・一五事件 犬養毅首相、他殺害
 同年 9月18日 満州事変
1932年 1月28日 第一次上海事変
 同年 3月 1日 満州国建国宣言
1933年       国際連盟脱退
1934年 12月    ワシントン海軍軍縮条約破棄
1936年 2月26日 二・二六事件 高橋是清大蔵大臣、他殺害
1937年 7月 7日 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1937年 8月13日 第二次上海事変
1938年       国家総動員法制定
1941年 12月 8日 日米開戦(太平洋戦争勃発)

ここで、戦争突入によって最大の利益を得るグループを忘れてはなりません。
ロックフェラーやロスチャイルドなどのユダヤ系国際財閥、日本国内だけを注視すれば、
三菱、三井、住友などに代表される大財閥とその系列企業、そして、その経営者でもある
旧華族・士族に属する人々が、必ずそこに存在するのです。
ニ・ニ六事件の勃発を、財閥系企業はかなり正確に予測していたと言われますが、それが、
企業内の情報部の諜報活動によってと考えるのは、ちょっと人が良すぎる発想かもしれません。
彼ら自身が、直接事件を計画実行した方が、はるかに効率良く
自分たちの利益となる戦時体制へと日本社会を導くことができるはずなのです。

これは、もはや推測の域を出ませんが、日米開戦前に、
その資産をアメリカ国債にシフトしていた日本の企業経営者連中は、いったいどうして米国の勝利を予測できたのか、
疑い始めたら本当にキリがありません。私は、外国勢力を含む日本の軍産複合体は、
ニ・ニ六事件の時に初めてその牙を日本国、日本国民全体に向けたのではないかと考えています。
あたかも、日航機123便事件の背後に見え隠れする、クロカモさん(日本の闇組織)たちのように。
いや、その時既に、クロカモは存在していたのかもしれません。

このように論を進めると、疑問(2)については、次の様なの答が一つ考えられます。

「日本の軍産複合体は二・ニ六事件の頃から存在し、日本を戦争へと駆り立てた。その勢力は現在でも存続し、
同事件の真実を過去のものと切り離すことはできない。日本の秘密結社たる彼らは、
その存在を悟られないことが最大のテーゼであり、『処刑はなかった』という真実から、
自分たち計画者の存在が類推されてしまうことは努めて避けなければならない。」

もちろん、この推論が正しいかどうかなど、今の私には検証のやり様がありません。
しかし、123便調査の経験を通して、ニ・ニ六事件にも123便事件と同じ超国家的な巨大隠蔽の臭いを感じ取ってしまうのです。


 * * *


日産自動車がミサイル開発子会社を所有しているのは知られていますが、
トヨタ自動車が軍事用戦闘ロボット(米軍向)を既にタイで生産していることはほとんど知られていません。
昨年のタイ洪水の時、トヨタの工場内部の映像がほとんど出なかったことに気がつきましたか?
日本では全く報道されませんが、私が滞在していたフィリピンでは、堂々とニュースメディアで取り上げられていました。
フィリピンの方々は無邪気に「日本の技術力は凄い」と褒めてくださるのですが、私の心中は複雑です。
日本は再び、危険な道を歩もうとしているのではないのか。

今月、松下経産大臣自殺の一報がありました。女性問題に悩んだ上と言われてますが、国会議員5期目で、
70代の高齢現職大臣が、そんなことを苦にして自殺などするはずがないでしょう。
そんな脆弱メンタリティーでは、おそらく代議士当選すらおぼつかないはずです。
日本国民はそこまで頭が弱いと思われているのでしょうか?

自殺か他殺の結論はここで問うまでもなく、気にするべきは、政府の要職者が殺された時、
その後に何が続くかという予測です。図らずも、今回のテーマはその解答を導くための絶好の過去事例となってしまいました。
誰が日本をどこに導こうとしているのか、読者様には、事象の細部ではなく、ぜひ、大局を読み取っていただきたいと願います。

なお、T氏からは、「広島に原爆を投下したのはエノラ・ゲイ号ではない」など、
他にも驚くような証言を聞かされています。もう歴史の教科書を読むのが馬鹿らしくなるほどです。
これらについては、機会をみてまたご紹介したいと思います。




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