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徽宗皇帝のブログ

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騙される側の責任
「阿修羅」記事の一部を転載。元記事の筆者伊丹万作は映画監督・脚本家で、その脚本「無法松の一生」は日本映画の名作の一つ。また、彼の息子伊丹十三も監督で、日本社会の暗部に関わる映画を撮ろうとして不審な「自殺」を遂げている。下に引用した「戦争責任の問題」は、言いかえれば「騙される側の責任」を批判した文章で、現代の日本人もまた、同じことを繰り返そうとしている。
共同通信という正体不明(本当は、その正体はだいたいわかっている。電通や大手マスコミ同様に国民支配装置の一つである)のニュース配信会社が、民主党党首選挙について「国民」は圧倒的に菅総理を支持しているというデマを流し、テレビが早速それを取り上げて、「政治と金」の問題に関して「説明責任を果たしていない」小沢が党首選に出るのはいかがなものかとアジテーションをしている。そしてそれを見た国民は、やっぱり小沢はまずいよね、と思うわけである。
これまで何度も騙されてきた通り、日本国民は今度もまた騙されるのだろうか。「ユダヤ・プロトコル」(それが偽書であれ何であれ、これは確かに愚民支配の最高の教科書だ)の教える通り、マスコミを握った権力は、思いのままに世界を支配できるという、この状況はいつまで続くのだろうか。


(以下引用)


 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として

◎自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。



 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。

「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。

たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。


 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、

◎一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。



 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。


 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。


 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最小限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。

 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。


 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。


●だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。


 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、

●「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」
ことを主張したいのである。


だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からもくるのである。


我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。
これは明らかに
●知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。

つまり、●だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。


 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。


 また、もう一つの別の見方から考えると、

●いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまり

●だますものだけでは戦争は起らない。

●●だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らない

ということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。



 そしてだまされたものの罪は、◎ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、



●◎あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。



 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時に

●あのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の●奴隷根性とも密接につながるものである。


 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。


 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。

しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、

●彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。


「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、

一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、

私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。


●◎「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。


 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。



この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、
それ以上に現在の日本に必要なことは、

まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、

だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。



後略
ーーーーーーーーーーーー引用終わりーーーーーーーーーー

TITLE:戦争責任者の問題│伊丹万作

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