ただ、書いてあること自体の論理は「Aを認めないのであれば、Aを認めるべきではない」というのに等しいわけで、数学で言えば「1=1」を長い複雑な文で論じているようなものだから、「お前は何を言っているのだ」と読み手は感じるわけである。(厳密に言えば岩田氏の文は「A´を認めないならAを認めるべきではない」か。大村氏は、ヘイトスピーチを認めないという行動によってまさに「すべての表現の自由が認められるわけではない」ことを示したわけで、そこには矛盾は無い。)
なお、この文章は酔っ払いがクダを巻いているのに似ていて、私はこれを「思想的酔っ払い」と名付けようと思う。政治思想を論じる文章の中には、この種の酔っ払い文章にはよくお目にかかるのではないか。ファナティズムとも違うわけで、要するに頭が朦朧として、ひとつの観念が頭の中で堂々巡りし、他の意見を受け付けない状態だ。岩田なる人物は「保守思想」とも「右翼思想」とも異なる何かであるように感じるわけで、一番似ているのはやはりネトウヨ(擬態的右翼)だろうか。
(以下引用)
この部分だけど、書き手自身、自分が書いている内容を把握していなかったのだろうね。何回読み返しても意味を取ることができない。
《ヘイトスピーチを含む展示を「表現の自由」と認めないのであれば、すべての表現の自由が認められるわけではないことを認めるべきだ。》
【日本の選択】
また、愛知県の大村秀章知事の言動が注目されている。
「在日特権を許さない市民の会」の元会長が代表を務める政治団体が10月27日、「日本人のための芸術祭あいちトリカエナハーレ2019『表現の自由展』」なる展示会を開催し、そこには「犯罪はいつも朝鮮人」など、ヘイトスピーチとしか言いようがない展示がなされていたという。
これに対し、大村氏は「明確にヘイトに当たる」「(展示内容が)分かった時点で、中止を指示すべきだった」と主張し、この政治団体への法的措置も含めて対応を検討する考えを示した。
私はヘイトスピーチを擁護する立場には立っていないので、この種の展示が公共の施設で開催されることには明確に反対である。「表現の自由には制限が必要だ」と考えるからだ。
そのうえで、大村氏に問いたい。
日本国の象徴である天皇陛下の祖父、昭和天皇の写真をバーナーで焼いて、灰を足で踏み付ける映像作品や、特攻隊を侮辱するように感じる作品などが公開され、多くの国民が憤っていた「表現の不自由展」に関しては、「表現の自由」だと主張していたのは貴殿ではないか。
今回のヘイトスピーチを含む展示会を「表現の自由」と認めないのは、ダブルスタンダード、いかにも矛盾した態度ではないか。
自由を最大限尊重する米国では、ヘイトスピーチまでもが規制されていない。誰かに危害を加えるような言動でなければ、全ての表現が認められるという。
だが、過度の「表現の自由」は人々を深く傷つけ、社会に混乱と分断をもたらす。米国内に大きな分断をもたらした1つの原因が「表現の自由の濫用」とも考えられよう。表現の自由に当たるか否かについて判断する際に、重要なのは常識というものだ。法ではなく常識に基づいて判断がなされるのが文明国というものだろう。
京都造形芸術大大学院学術研究センター所長を務める浅田彰氏が「誰も傷つけない表現には、ほとんど意味がない」と主張したと報じられていた。一体、今回の件では、どのような発信をするのか。確かに、今回の展示会で、在日朝鮮人や韓国籍の方々は傷つくだろう。だが、「誰かが傷つくのが芸術なのだ」という詭弁(きべん)を弄すれば、これも芸術であり、「表現の自由」ということになってしまう。
事の発端は、大村氏が「表現の自由」の名の下で、日本国の象徴だった昭和天皇の写真を焼き、踏みにじるような「作品」の展示を認めたことだ。ヘイトスピーチを含む展示を「表現の自由」と認めないのであれば、すべての表現の自由が認められるわけではないことを認めるべきだ。
そのうえで、「表現の不自由展」の再開は誤りであったことを認め、日本国民に謝罪すべきであろう。
■岩田温(いわた・あつし) 1983年、静岡県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業、同大学院修士課程修了。拓殖大学客員研究員などを経て、現在、大和大学政治経済学部政治行政学科専任講師。専攻は政治哲学。著書に『「リベラル」という病』(彩図社)、『偽善者の見破り方 リベラル・メディアの「おかしな議論」を斬る』(イースト・プレス)など多数。ユーチューブに「岩田温チャンネル」を開設した。
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