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徽宗皇帝のブログ

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EUとは何か
「櫻井ジャーナル」記事だが、「教科書に載らない現代史」あるいは「西側マスコミが伝えない現代史」として貴重な内容だろう。
面倒なら、冒頭のEU(あるいはEC:欧州委員会)とは何か、について書かれた部分だけでも読むといい。目から鱗が落ちる人もいると思う。現在のEU所属国の国民は、選挙で選ばれた人々でもない連中(旧貴族の子弟)の意のままに政治的決定を動かされているのである。

(以下引用)
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 EU(欧州連合)は崩壊寸前にある。アメリカ政府の打ち出す反ロシア政策にEUの執行機関であるEC(欧州委員会)がしたがった結果、エネルギーが枯渇し、生産活動の継続が困難になり、社会生活を維持することも難しくなりつつある。

 ECの委員はエリートの談合で決められているのが実態で、民主的な組織とは言い難い。1993年のマーストリヒト条約発効に伴ってEUは誕生したが、堀田善衛によると、その前身であるEC(欧州共同体)の「幹部たちのほとんどは旧貴族です。つまり、旧貴族の子弟たちが、今ではECをすべて取り仕切っているということになります。」(堀田善衛著『めぐりあいし人びと』集英社、1993年)



 こうした仕組みはEUでも引き継がれているはずで、非民主的組織であるのは当然だと言える。そのEUを動かしている欧州委員会は人びとの管理にも積極的で、2022年にEU市民に「ワクチン・カード/パスポート」を導入しようとしていた。この計画を立てたのはCOVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)騒動が起こる前だ。



 そうしたEUだが、アメリカのジョージ・W・ブッシュ政権が偽情報を宣伝しつつ2003年にイラクを先制攻撃した際、フランスのジャック・シラク大統領やドイツのゲアハルト・シュレーダー首相は侵略に反対している。その程度には自立していたわけだ。



 シラクはシャルル・ド・ゴール派とされている。ド・ゴールは第2次世界大戦中、レジスタンスに参加していた人物で、ウォール街やシティを拠点とする米英の強大な金融資本から嫌われていた。1947年にフランスで社会党政権が誕生、その内部大臣だったエドアル・ドプによると、右翼の秘密部隊が創設されたという。



 その年の夏にはアメリカのCIAとイギリスのMI6(SIS)は配下の秘密部隊を使い、「青計画」と名付けられたクーデターを目論み、シャルル・ド・ゴールの暗殺も考えていたとされている。発見された文書によると、まず政治的な緊張を高めるために左翼を装って「テロ」を実行し、クーデターを実行しやすい環境を作り出すことになっていた。フランスの情報機関SDECEも関与してたと見られている。このクーデターは不発に終わり、ド・ゴールは1959年から70年にかけてフランス大統領を務めた。



 ド・ゴールを敵視する軍人らは1961年にOAS(秘密軍事機構)なる秘密組織が創設、その背後にはCIAの破壊工作部門が存在していた。OASはこの年の4月にマドリッドで開いた会議でクーデターを計画する。アルジェリアの主要都市、アルジェ、オラン、そしてコンスタンチンの支配を宣言し、その後でパリを制圧するという計画だ。



 それに対し、アメリカ大統領に就任して間もないジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じた。クーデター軍がパリへ侵攻してきたならアメリカ軍を投入するということを意味しているわけだ。これを知ったCIAは驚愕、クーデターは失敗に終わる。ド・ゴール大統領はSDECE長官を解任、SDECEの暗殺部隊と化していた第11ショック・パラシュート大隊を解散させた。



 OASの一部は1962年8月にパリでド・ゴール大統領の暗殺を試み、失敗している。暗殺計画に加わったメンバーは9月にパリで逮捕され、全員に死刑判決が言い渡された。ただ、実際に処刑されたのはジャン=マリー・バスチャン=チリー大佐だけである。ド・ゴールを救ったケネディ大統領は1963年11月に暗殺された。



 ド・ゴール暗殺未遂から4年後の1966年にド・ゴール大統領はフランス軍をNATOの軍事機構から離脱させ、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出した。



 フランスがNATOの軍事機構へ一部復帰すると宣言したのは1995年のこと。完全復帰は2009年、ニコラ・サルコジが大統領だったときだ。イラクに対するアメリカの軍事侵略に反対したシラクは大統領を退任した直後の2007年からスキャンダル攻勢にあう。職員架空雇用の容疑で起訴され、2011年には執行猶予付きながら禁固2年が言い渡されている。



 フランスでは2012年に大統領選挙があり、社会党のフランソワ・オランドが当選したが、11年前半の段階で同党の有力候補はIMF専務理事だったドミニク・ストロスカーンだった。



 その有力候補が退場したのは事件に巻き込まれたからだ。ホテルでメイドを襲った容疑で2011年5月にニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港で逮捕、起訴されたのである。すでにベルリンへ向かう旅客機の座席にストロカーンは座っていた。事実上、冤罪だったが、政界への道は断たれた。



 逮捕される前の月にストロス-カーンはブルッキングス研究所で演説、その中で失業や不平等は不安定の種をまき、市場経済を蝕むことになりかねないとし、その不平等を弱め、より公正な機会や資源の分配を保証するべきだと発言していた。



 また、進歩的な税制と結びついた強い社会的なセーフティ・ネットは市場が主導する不平等を和らげることができ、健康や教育への投資は決定的だと語っただけでなく、停滞する実質賃金などに関する団体交渉権も重要だともしている。



 こうした考え方がアメリカ政府を刺激したことは確かだろうが、それ以上に注目されているのがアフリカの通貨問題。当時、アフリカではリビアを中心に、独自の基軸通貨を作ろうとしていた。ディナールという金貨だ。



 その計画で中心的な役割を果たしていたのはリビアのムアンマル・アル・カダフィのほか、チュニジアのベン・アリ、そしてエジプトのホスニ・ムバラク。西側で「アラブの春」と呼ばれているレジーム・チェンジで倒された3カ国には「ドル体制からの離脱」という共通項があったのである。



 独自の基軸通貨を作るということはドル体制への挑戦だが、アフリカの一部で使われているCFAフランを揺るがすことにもなる。リビア侵略にフランスが積極的だった理由のひとつはこの辺にあると見られている。



 この通貨問題を協議するためIMFも動いていた。ストロスカーンがドイツのアンゲラ・メルケル首相とベルリンで会談した後、トリポリへ向かう予定になっていたのだ。カダフィと会うことになっていたと見られている。(Thierry Meyssan, “Before Our Very Eyes,” Progressive Press, 2019)



 フランスがNATOに復帰した2009年、アメリカではバラク・オバマが大統領に就任した。新大統領はブッシュ政権の正規軍を使った侵略からムスリム同胞団やサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)を傭兵として使った侵略へ「チェンジ」し、2011年春にはリビアやシリアに対する侵略戦争を始める。2013年11月から14年2月にかけてはウクライナでネオ・ナチを使ったクーデターを実行、成功させた。



 クーデターでビクトル・ヤヌコビッチ政権を倒すことには成功したものの、いち早く市民が動いたクリミアはロシアと一体化してネオ・ナチの攻撃を防いだが、そのクリミアへティエリー・マリアニに率いられたフランス国民運動連合(共和党)の議員団が2015年7月に訪問している。この政党は2002年にシラク大統領の与党として組織され、アメリカがイギリスを引き連れて行ったイラクへの先制攻撃、つまり軍事侵略を批判していた。そうしたフランスだが、アメリカを拠点とする強大な私的権力は圧力に屈することになる。ほかのEU諸国もエリートはアメリカの傀儡になり、EUは崩壊へ向かっている。

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