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徽宗皇帝のブログ

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「笑」や「w」が嫌いwww
「大摩邇」所載の内田樹氏の文章の一部を転載。
この内田氏の論理は、私にはよく分からない。
なぜ「口の端を歪めて語られた言葉」が「言った本人によって簡単に否認されるし」「言葉自体がダブルミーニング」になるのだろう。(後者は何となく分かるが、それは「反語」というもので、ただの文章技法ではないか。)
内田氏は「笑」とか「w」が入った文章が嫌いであるという。私も昔は嫌いだった気もするが、今は自分の文章中で多用しているwww (でも、未だに、wの後に句点を打つべきかどうか、使用法が分かっていないのだが。)
「笑」や「w」が嫌いだと、読む文章がかなり制限されると思うのだが、「笑」や「w」のある文章は「『読むに値する知見』が含まれている可能性が絶望的に低い」そうだ。これもよく分からない。内田氏個人の狭い経験による主観的判断、つまり単なる独断ではないか?
私がもっとも多くの「読むに値する知見」を得たのはネット上の無数の雑文からであり、たとえば、ネットゲリラ氏の文章などだが、そこには「w」が他の漢字やひらがなと同じくらい含まれているwww 
内田氏の言い方には「文章を読む快楽」や「文章の芸」が軽視されすぎている気がする。文章を読むのはいつも「知見」(新情報)などという「実利」を得るためでもないだろう。内田氏は小田嶋隆と親しいと思うが、小田嶋隆氏(私は「師」と呼んでいる)の文章ほど皮肉と反語に満ちたものはない。内田氏は小田嶋氏の文章も嫌いなのだろうか。まあ、小田嶋氏はたしかに「笑」や「w」はあまり使わなかった気もするが、まったく使わないわけでもないだろう。


自分の言葉の現実性を担保する身体を持たない言葉を読んで過ごすほど人生は長くありません。


というあたり、内田氏の人生はおそろしく濃密で、無駄がまったくないもののようだ。人生は死ぬまでの暇潰し(不真面目であれ、というのではない。文芸上の言葉で言えば、重苦しい「自然主義派」ではなく、初期の漱石や鴎外流の「高踏派」「余裕派」であれ、ということだ。)と考えている私とは正反対だ。私は笑いの無いフィクションは観る価値も読む価値もほとんど無い、と考えている。
そして文章とは、フィクションの最たるものだ。「言は意を尽くさず」、つまり、言葉が事実(伝えたい意図)を100%伝えることは最初から不可能である以上、ユーモアや反語を含めたあらゆる手段で意を尽くすのは当然だろうし、そのユーモアや反語を読み取ることも文章を読む快楽の一つだろう。
内田氏の人生は「無用なもの」を切り捨てることで成立するようなものらしい。私が考えるところでは、あらゆる「無用なもの」を切り捨てていけば、ほとんど何も残らない気がするのだが。
もう一つ言えば、「言葉の身体性」というのもよく分からない。言葉の機能は、身体から遊離して独立的に働くことで、つまり、言った当人と言った言葉の価値は切り離すことが可能だ、という特徴がある。だからこそ「人によって言を捨てず」と、たしか孔子も言っていたはずだ。悪党でもいいことも言う。だからこそこの世は難しくも面白くもなるのではないか。
いい人もつまらないことを言うし、悪党でもいいことも言うのである。いや、むしろ悪党こそいいこと、つまり「甘言」を言うのだが、ここでの「いいこと」とは、聞く人に快いこと、の意味である。そうした「甘言」を信じるかどうかはひとえに聞く側の「人間力」にかかっている。つまり他人の人間性を見抜く「見識」があるかどうかだ。
悪党に向かって「嘘をつくな」と言っても無意味なのであり、悪党の大嘘はその言葉と行動の整合性を検証することでしか判断できないし、それを批判する言葉(内田氏がここで問題としている「社会批判」の文章はたいていがそれだ。)の正当性は「笑」や「w」の在る無しで判断できるような単純なものではないだろう。



(以下引用)


どれほど政治的に正しくても、ロジックが鋭利でも「口の端を歪めて語られた言葉」は聴くに値しません。

なぜなら、そういう言葉は言った本人によって簡単に否認されるし、言葉自体がダブルミーニングになっているからです。

自分が口にした言葉を愚直に担う生身を持たない言葉は聴くに値しません。

ですから、「笑」とか「w」とかが一瞥して目に入ったら、僕は読むのを止めます。

そこに「読むに値する知見」が含まれている可能性が絶望的に低いからです。

自分の言葉の現実性を担保する身体を持たない言葉を読んで過ごすほど人生は長くありません。

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