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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「生活」13
#278 禅とは何か

禅宗はもちろん、仏教の一派だが、これは仏教の中で特異な地位を占めている。他の仏教が、釈迦の教えを理解することにその努力を傾けるのに対し、禅宗はそうした他者依存を何より嫌う。つまり、「悟る」ことが目的なのであり、そのために邪魔ならば、釈迦も仏も不要なのである。これが「仏に逢えば仏を殺し、祖に逢えば祖を殺せ」ということだ。言葉を変えれば、仏とは自分自身が成るものであり、外部に存在するものではない、ということである。「お前たちの肉体の中に『無位の真人』がいる。まだわからない者は、よく見よ、見よ」という臨済の言葉はそれを表している。
では、悟りとは何か。それは心が外部によって脅かされることがなく、いかなる状況でもどっしりと落ち着いたものとなることである。これを心の「性(本性)」と「相(姿)」が一致した状態と言う。我々は日常的に心が動揺した状態にある。だから、不意打ちの打撃に対応できない。禅問答における一見意味不明の応酬は、実は、相手に不意打ちを与え、相手の境地を見るためであり、それがそのまま修行なのである。それ以外に特別な修行などはなく、日常生活がすべて修行なのである。食事も排便も修行なのだ。「徒然草」に、集団生活の決まりに従わない我が儘な坊さんの話がでてくるが、兼好がそれを賞賛しているのは、それが禅的には高い境地の表れだからだろう。「随所に主となる」ことができる人間こそが、禅的に完成された人間なのである。(1月8日)

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