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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「生活」15
#283 書くことと生きること

人が物語を読むのは、もちろん娯楽のためだが、それは言葉を変えれば、「より高次元の現実」を求めることである。つまり、我々の送っている平凡退屈な日常を超える娯楽の世界が、我々の求める物語なのである。物語の純文学化は、だから、物語が平凡人のための娯楽であることから一部の高踏的趣味人のための学問・研究課題となったということだ。もちろん、彼らにとってはそれこそが「より高次元の現実」であるのだろうが、それは読者を失った物語であることが多い。
私が栗本薫に感心するのは、彼女がずっと「娯楽としての物語」への情熱を持ち続けていることである。臭い文章や過度の情緒、偏向した趣味など、彼女の作品には欠点も多いが、物語そのものへの愛情と、物語ることへの情熱という点では、彼女は確かに珍しいほどの存在である。「生きた、書いた、愛した」とは、確か、デュマの墓碑銘だったと思うが、栗本薫にとっては、書くことがそのまま生きることの意味であったのだろう。
つまり、物語が作れない人間とは、結局のところ、物語への愛情と情熱をそれほど持っていないということなのである。それはまた人間そのものへの興味がそれほど無い、ということでもあるだろう。物語とは結局は人間の様々な事件であり、人間の事件に興味が無くて、物語への興味があるはずは無いのだから。
だが、もちろん、人間への興味は無くても、退屈な日常への倦怠は誰にでもあるのだから、そうした人間も何らかの暇つぶしはする。漁色、大食、などの悪徳もその一つだ。

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