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メモ日記「生活」16

#284  「すさび」と「すき」

日本の古語には、語源的に見ると面白い言葉が多いが、「すさび」と「すき」もそうである。もともと、日本人は「侘しさ」を肯定的な「わび」とするような芸術感覚を持っているが、この二語もそうかもしれない。つまり、「遊び」を意味する「すさび」は、もともとは「荒れる」意味の「すさび」であり、風流を好む意味の「すき」は、当て字の「数寄」はともかく、もともとは「隙間」を意味する「すき」でもあったのではないだろうか。
「荒れる」ことも、「隙間」も、本来は好ましくない事柄のはずである。だが、本当にそうだろうか。埴谷雄高に「自同律の不快」という言葉がある。つまり、物事が、それ以外ではありえないという事実自体が不快だという感覚だ。これは、言葉を変えれば、「合理性の不快」でもあるだろう。我々は、合理性に従わないかぎりこの世に生きていけない。そのこと自体が、我々の自由への束縛に感じられるのである。我々がナンセンスのユーモアを好むのも、そのためだろう。そうした合理性、あるいは日常の論理への反逆が、「すさび」つまり「遊び」である。遊ぶことで、当然ながら日常は荒廃する。だから、「すさび」は「荒れる」ことでもあるのだ。「すき」も同様であり、緊密な日常性の中の隙間が「すき」という風流事なのである。「すき」とは、日常性に隙間を作ることなのである。
「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言った芭蕉は、そのような風雅の意味を熟知していた。だから、俳諧者とは世間の余計者であるという覚悟のもとで生きていたのである。生産と消費という経済学的観点からは許容されないであろう余計者が、芸術家というものであったのだ。もっとも、日本人はまた、「遊びをせんとや生まれけん」という遊びの哲学を持っていた、素晴らしい民族でもあったのだが。

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