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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「政治・社会」18
#150 恥と罪

神を前提としなくても日本にはモラルがあった。その手品の種は「世間体」である、というと、威厳も何もあったものではないが、実際そうだったのである。ルース・ベネディクトの「菊と刀」によって、日本人の「恥の意識」は西欧人の「罪の意識」に比べて一段劣るもののように見なされるようになったが、はたしてそうなのだろうか。まず、恥と罪と、どちらが人間にとって根源的な感情かというと、これは明らかに恥の感情である。世界中のどの民族でも、恥の意識の無い民族は無い。極端に言えば、動物にすら恥の意識はあると私は思っている。犬や猫を観察したことのある人間なら、彼らの行動に羞恥心やプライドを感じ取った経験が必ずあるはずだ。しかし、罪の意識となると、これは動物にはけっしてありえない。なぜなら、罪とは常に「立法者」を前提としてのみ生じる感情だからだ。これは西欧のように、古代から法と契約によって生活してきた民族に特有の感覚なのである。そして、罪の前提となる立法者への信頼が失われれば、罪の意識は機能しなくなる。そのような脆弱なものの上に人間の生活を成り立たせるためには、当然、罪を犯した者への厳重な処罰が必要になる。一方、恥の意識に基づく社会秩序においては、個人に内面化された美意識が彼を自動的に悪(醜行)から遠ざける。社会の構成員が、罰への恐怖から悪を避ける社会と、悪や醜行への嫌悪感からほとんど無意識に近い形で悪(醜行)を避ける社会と、どちらが優れた社会だろうか。だが、今や、日本の社会からは恥の意識も、行動における美意識も失われた。それは金がすべてという思想のためである。

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