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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「政治・社会」28
#226 顕教と密教

これは竹熊健太郎の言葉からヒントを得たものだが、顕教と密教というキーワードは、世界を解釈するためのメスになりそうだ。ここで言う顕教とは、表に出た教義、世間向けの建て前であり、密教とは、中枢にいる者たちのみが知っていることという意味である。大事なのは、「中枢にいる者たちは、表向けの教義をまったく信じていない」ということだ。彼らにとっては、顕教は世間の馬鹿たちを支配し操縦するための手段でしかない。これは宗教だけの話ではないが、宗教においても、その中心にいる人々は、その教義をまったく信じていないというのは、ありえる事だ。バチカンの内部にいる人々はキリスト教を信じておらず、仏教界の中枢にいる人々は仏教をまったく信じていない、という想像である。これは、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」の有名な「大審問官」の章で描いた想像でもある。この大審問官は、キリスト教の中心にいながら、「キリスト」は不要だ、と言い切るのである。ただし、彼の場合は、地上の不幸を救うためにキリスト教を自分たち流に変更して世界を精神的に支配するのだ、という信念を持っている。だが、多くの世界での密教は、それほど殊勝なものではない。たとえば、芸能界の内部にいる人間は、アイドルやタレントはただの商品だと思っている。これが密教だ。しかし、無邪気な青少年は、アイドルやタレントを理想化し、その商品を買いまくる。アイドル(偶像)を理想化する戦略が顕教である。マスコミはそれに奉仕する。つまり、馬鹿は顕教に踊らされ、賢い連中はそれをせせら笑っているという構図である。これはどの世界でも同じだろう。

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