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徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「政治・社会」42
#279 神の創造と利用

旧約聖書の中の様々な矛盾は、「人間が神を創造し、利用した」と考えれば簡単に理解できる。たとえば、モーゼがシナイ山で神から十戒を受けたというのは、その直前にユダヤの民がエジプトを出てきたことへの不満を募らせていたことを考えれば、モーゼがシナイ山に籠もって、十戒その他の律法を「創作した」のだと推測できる。また、創世記の中で父親による祝福や呪いが、神と同じ力を持っていることや、ユダヤの律法の中で親への服従と畏敬が絶対的なものとされていることなどは、家族内での父親の権威付けに神が利用されたことを示している。前にも書いた「顕教と密教」の話のとおり、組織や集団の上に立つ人間は、神が人間を創ったのではなく、人間が神を作ったことを秘伝として知っていたのである。だから、ローマ帝国がキリスト教を公認し、やがては国教化したのも、それが人民支配に有効だったからである。
旧約聖書を読めば、人間が神をいかに利用してきたかがはっきりとわかる。つまり、集団の指導者の指示が成功した時は、それが神の意志にかなっていたからだということになり、失敗した時には、集団内部に不信仰な人間がいたとか、不信仰なふるまいがあったからだと言えば、集団指導者の責任は問われなくなるのである。これは、何かに似ていないか? そう、日本の旧社会での天皇の利用の仕方にそっくりである。上の人間の出す命令は天皇の意思とされ、その失敗の責任は、天皇の意思が正しく伝わっていないせいだ、ということになる。いつの時代にも、神的存在を利用することは政治の基本だったのだ。

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