中津川市の笠置山と二つ森山に挟まれた、わが村は、私が移住した2003年には、人口が3500名を超えていたが、現在は、たぶん3000名前後だろう。(以前2000名と書いたことがあるがデータ取り違えの間違いだった)
1950年代からは、墓石などに使われる「御影石」の生産が盛んになって、人口は5000名近くいた。1990年頃から、中国産の安価な御影石が輸入されるようになり、2000年を迎えると価格競争力によって衰退し、人口も急減した。
国勢調査によって公表されている人口は、実際より多く表記されているようだが、正確な人口は分からない。(資料ごとに表記が異なる)
しかし、人口減少傾向にある過疎地帯であることは間違いない。
なぜ、人口減少傾向にあるかといえば、石材産業に代わる職場が少ないことが大きい。歴代の行政は、産業誘致に力を入れてきたが、有数の産業集積地である愛知県臨海部へのアクセスが悪いこともあって、工業は盛んではない。
代わりに、他市町村には少ない、豊かな自然環境を土台にした観光名所が多いのだが、これを「観光産業」にまで発展させられているわけではなく、一般的な名所観光地程度に留まっていて、雇用を増やす要素にはいたっていない。
だから、中津川の人々は貧しく、豪邸も見当たらず、軽自動車ばかりが走っている。ときどき洒落た大きな家を見つけると、多くは県会や市会議員の家だ。
私が移住して約20年の間に起きた変化をいうと、まずは獣害が激増したことで、主にイノシシによるものだが、昔はいなかったアライグマやハクビシンの食害も大きい。クマの出没が、ひどく増えた。年に何回も報告があり、それも普通の生活圏だ。襲われて重傷を負う人も出ている。
次に、公共交通機関が大きく衰退したことだ。
私が移住した20年前には、我が村に、日10本くらいバス便があったのだが、すぐに8本になり、数年前には5本になり、そうなれば往復利便性が薄れて利用価値がないので、利用者が激減し、昨年、とうとう廃止されてしまった。
私は、最寄りのバス停から自宅に帰るのに2時間歩かなければならなくなった。タクシーだと、近い美乃坂本駅から5000円以上かかるのだ。
バス便が廃止されると何が困るかというと、車を利用できる世帯は、それほど困らないが、老齢化で免許を返納したりすると、とたんに足が失われる。村内にはコンビニさえないのだ。
子に恵まれなかった老人世帯などは、病院へ行くにも、食料や衣類の買い出しに行くにも、行政手続きにも、タクシー以外に使える手段がない。
ところが、駅やスーパーまでの距離が十数キロもあり、タクシー代は片道5000円以上と大きい。年金世帯が日常的に使える金額ではないのだ。
「交通が不便な過疎地帯」というイメージが定着すると、移住地としても魅力も薄れ、若い人も定着しにくい。みんな生活に便利な地域に住みたいのだ。クマも怖いし。
かくして、便利な生活圏と不便な過疎地の距離は、どんどん遠ざかり別世界になってゆく。
生活の足を失った老人は老人ホームに入居するしかないが、なかには、親族や行政の救済から漏れて、生きる術を失って絶望に暮れる人も出てくる。それは私の運命かもしれない。
過疎地に人が住まなくなると、何が起きるのか? といえば、人がいることで近寄らなかった獣たちが、放棄された果樹や畑を餌場とするようになり、数が増えること。
過疎地は多くの場合、都市圏の水源地になっているが、それを生活の場から監視する人がいなくなれば、目の届かない荒廃が始まる。
沢筋で土砂崩れが起きれば、崩壊地ダムになって、やがて大規模な水害の原因になるが、それを通報して未然に防ぐ人もいなくなる。
水源地の荒廃で、本当に困るのは、実は水道を利用する大都市の人だし、水害を享受するのも流域集落の人たちだ。近年、異常気象の連続で、大水害が頻発している理由の一つに水源地の荒廃が挙げられるだろう。
昔なら森林保水力を重視して、保水安定性の強い広葉樹林帯を保全していたものが、近年は、儲かる建材生産力一辺倒で、皆伐後、保水力の弱い針葉樹ばかり植えるようになったことも、土石流崩壊の理由として大きい。
大都市と過疎地(水源地)は、有機的に結びつき、山に住む人たちが、山を監視し、利用することで、大都会を水害から守ってきたともいえるのだ。
都市の人々は、休日に山に向かうことで、観光やハイキング、登山などによって癒やしを得ることができたが、過疎地が荒廃しては、それも難しくなった。
今では川釣りに入るにしても、登山にしても、絶えずクマに怯えなければならなくなった。田舎に人が多かった昔では考えられないことだ。
自民党政権は、中曽根康弘が新自由主義を導入し、竹中平蔵がそれを社会全体に実現することで、日本社会全体に、新自由主義の金儲け価値観を定着させてしまった。
新自由主義のエッセンスは、「金儲けの自由」である。
この思想が何をもたらすかというと、金融資産の極端な不均衡=弱肉強食社会によって、超大金持ちと、その他、大多数の貧乏人という超格差社会である。
社会を平等に保って、「みんなが幸せになる社会」という価値観は、「共産主義」と決めつけられて迫害される。
社会全体に、「金儲けだけが正義、カネにならないものは悪」という価値観が適用されるのである。
「カネが儲からないのは悪」という価値観が適用された社会では、「過疎地の住民を不便から守るため行政が一定の負担をして、交通の便を確保する」という発想も「悪」と決めつけられる。
だから、自民党・維新などは、住民の利便性のために行政が手を差し伸べるという発想を決して許さない。儲からないものは排除、廃止されなければならないのだ。
バス便とともに、儲からない地方病院も片っ端から廃止させられている。義務教育も統廃合されている。
新自由主義の金儲け価値観が、中曽根や竹中らによって日本全体に浸透させられたことで、日本中が「儲かることだけをやる」という施政に変わり、「住民サービス」という発想さえも「悪」と見なされるようになった。
その結果、留まることを知らない「地方の荒廃」が始まったのだ。
「ポツンと一軒家」を視聴していると、山奥の孤立住民が、「昔は学校に通うにも2時間も歩いた」 「バス停まで3時間歩いた」などと語っているのを見るが、今、時代に逆行して、地方では、子供たちが、長時間登下校を強いられるようになり、老人たちは、病院への足を奪われている。
私の祖母は、黒川小学校に通っていて、修学旅行では、高山線が未開通だったので、恵那駅(大井駅)まで、50キロを二日がかりで歩いたなどと話していた。
それは大正初めの頃の話だったが、今、また我々は大正時代の不便に逆戻りさせられつつある。
一方で、弱肉強食経済は、超大金持ちを生み出し、竹中平蔵などは悪事の限りを尽くして、淡路島をタダ同然で買い占め、まるで自分の王国にしようとしている。
竹中平蔵を登場させた小泉純一郎は、2000年頃、「日本を金融国家する」と宣言し、投資ギャンブルへの課税を、所得税15%、住民税5%に引き下げ、投機にカネを投じれば、課税を大幅に引き下げる政策で、日本中に投機ブームをもたらした。
このとき、FXや株投資に夢中になった人々は、「カネ儲けこそ正義」という価値観に洗脳されてしまい、今に至っている。
彼らは、もう地方の老人たちが、公共の足を失って生活不安に直面させられている事態に何の興味も示さない。「嫌なら便利な都会に移住すればいい」と言うだけだ。
まさに「カラスの勝手でしょ」社会がやってきた。地方に人が住めなくなることが、都市住民の安全な環境に危機をもたらすことを理解できる人は、行政も含めてほとんどいなくなってしまったのだ。
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