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目を閉じさえすれば生きることは容易だろうけど

「宗教否定論・あるいは『豚的幸福』について」

中江兆民は「続一年有半」の中で、神が存在しないことを明瞭に証明している。この「続一年有半」があらゆる宗教家や哲学者から無視されていること自体が、その議論の正しさを証明しているだろう。
神など存在しない以上、あらゆる宗教は欺瞞・迷信である。

あらゆる宗教は迷信である、というのが宗教否定論の第一のポイントである。

宗教が迷信である以上、宗教を土台とした人生は誤魔化しの人生、偽りの人生である、というのが第二のポイントだ。
ただし、それは主観的には充実した人生となる可能性が高いし、人生の価値は本人の主観(あるいは幻想世界)の中にしか無い、という考えもあるので、誤魔化しの人生や偽りの人生が無価値な人生だとは断言できない。

これまでの宗教否定論は、ただ第一のポイントのみを問題にしていたため、宗教信者には何の打撃も与えることはできなかったのである。なぜなら、宗教を信じることによって現に自分が幸福であるというその事実の前には、合理性を根拠にした批判など、無意味だったからである。
無知による幸福を夏目漱石は「豚的幸福」と言ったが、問題は我々が豚的幸福を受け入れるかどうかなのである。事は、あるいは宗教だけには限定されないかもしれない。社会が与える偽りの現実、「常識」や「制度的思考」の中で生きることは、確かに生きることを容易にする。しかし、そういう「豚的幸福」に我慢できないという精神の持ち主もまた存在しているのである。
豚的幸福のイメージは次のようなものだ。本人のイメージの中では、美と快楽に取り巻かれ、幸福の絶頂の中にいながら、他人から見れば汚物の中を嬉しげに転げ回っているという状態。これが豚的幸福である。我々が新興宗教の信者を見るときのイメージは、まさにこれなのである。
だが、本人の主観の中では、それが幸福なのである。ならば、外部の人間がその幸福に口出しする意味はない。社会的にはっきりとした害悪になるまでは、新興宗教は取り締まれないというのはそのためだ。
だが、親しい人間が宗教の信者であったことを知った時、我々は「この人は異世界の人だ」というバリアーをその人との間に感じざるを得ない。
ユダヤ教では非ユダヤ教徒をゴイム(豚)と言うそうだが、逆に我々から見れば、ユダヤ教に限らず、あらゆる宗教の信者こそが「豚的幸福」の中にいる人々なのである。

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