"挨拶・連絡など"カテゴリーの記事一覧
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実は、私は三つのブログを並行してやっている。それぞれ内容を変えていて、一つは語学関係の記事が中心、そして一つは小説などの創作が中心、もう一つが時事的随想が中心のこのブログである。最初の頃は、その区別をせずに、創作も時事的随想もどのブログにも書いていたが、あまり内容が散漫だと見る人がとまどうだろうと思って、なるべく同系統の記事でまとめることにした。
語学関係のブログはここと同名の「徽宗皇帝のブログ」だが、あちらはヤフー・ブログである。同名だと混乱しそうなので、そのうち名称を変えるつもりだが、「徽宗皇帝」の名前には愛着があるので、こちらを「徽宗皇帝第二ブログ」にしようかと思う。第二というと、こちらを副次的なものとしている感じがあるから、あちらを第二ブログにしてもいいのだが。「裏ブログ」とすると、どんな凄いことを書いているのかとあらぬ期待をする人もいそうだし。
創作中心のブログは、「酔生夢死」をもじって「酔生夢人のブログ」という名前にしてある。比較的健全な、青少年向け小説などをそこでは発表している。健全なだけにあまり面白くはないようで、訪問客は少ない。やはりクスリをやったり、レイプされたり、妊娠したり、死んだり殺したりという話でないと、人々は読まないようである。私などは、そういう話などまったく読みたくないのだが。
まあ、「酔生夢人のブログ」に興味を持たれたら、一度見にいってやってください。 -
ここのところ、単発的な記事や他人のブログ・ホームページ記事の紹介が多かったので、次回から数回に渡って、少し長い記事を掲載する。題を「新国富論」と言って、経済と政治についての論文的エッセイ、あるいはエッセイ的論文だ。もちろん、私は専門家ではないから、トンチンカンな発言も含まれると思うが、日本においては経済の専門家という連中はまともな発言をすることも無いし、世の中を善導したことも無いから、素人の発言の方がましだろう。書いてあることが馬鹿馬鹿しいと思えば、一読して忘れてもらえばよいだけだ。
この論文あるいはエッセイを書き始めたのは、小泉改革の頃で、その改革のインチキぶりに腹を立てて書き始めたものだ。その後、昨年の衆議院選挙で情勢もだいぶ変わってはいるが、今の民主党内閣がどのように日本の政治態勢を立て直してくれるかはまだはっきりとしていない。したがって、この論文に書いた内容も、まだ有効だろう、ということで、次回から掲載するわけである。長めの文章とはいっても、せいぜい10ページ程度だから、一回で全部載せてもいいのだが、2、3回くらいに分けて載せようと思う。 -
最近のベストセラーに、ニーチェの「超訳」というものがあるらしい。私にはニーチェの哲学が現代人にとって意義があるとは思えないのだが、それがベストセラーになるのはなぜか。
ニーチェの功績が、キリスト教を否定し、神に依存しない生き方を称揚したところにあるとすれば、もはや最初から神を信じていない現代人がニーチェを読む意義はどこにあるのか。
ニーチェを読めば自分も「超人」になれるのでは、という幻想的期待感のためにニーチェがブームになっているのなら、それはお門違いだろう。
まあ、ニーチェの価値とは、要するに、キリスト教が社会的拘束力を持っていた時代において、人間解放の声をあげたという、歴史的価値だけではないかと思う。
夏目漱石の『我輩は猫である』に次のような一節がある。
「とにかく人間に個性の自由を許せば許すほどお互いの間が窮屈になるに相違ないよ。ニーチェが超人などをかつぎ出すのも全くこの窮屈のやり所がなくなってしかたなしにあんな哲学に変形したものだね。ちょっと見るとあれがあの男の理想のように見えるが、ありゃ理想じゃない、不平さ。個性の発達した十九世紀にすくんで、隣の人には心おきなくめったに寝返りも打てないから、大将、やけになってあんな乱暴を書き散らしたのだね。あれを読むと壮快と言うよりむしろ気の毒になる。あの声は勇猛精進の声じゃない、どうしても怨恨痛憤の音だ。」
私はニーチェをほとんど読んでもいないのだが、瞥見しただけでも、まさしく「怨恨痛憤の音」であると読み取れる。いったい何に対する怨恨痛憤か。それは、自分を正当に評価してくれない世間への怨恨痛憤だろう。あるいは女にもてない恨みかもしれない。その恨みが、超人というファンタジーを産み出したわけだ。まあ、そういうファンタジーに自分を同化させて一時の慰めを得るのも悪くはない。だが、ニーチェの哲学が、現実生活を生きる上で意義があるかと言えば、ほとんどの人にとっては、意義はないだろう。
ニーチェ流の考え方がどういうものか知りたい人のために、次回は『善悪の彼岸』の中から、その箴言の一部を取り上げ、解説を加えよう。 -
ヤフーブログにあるもう一つの「徽宗皇帝のブログ」にアクセスできなくなった。あちらの方は、もしかしたらそのまま閉鎖せざるを得なくなるかもしれない。原因は不明である。忍者ブログの「徽宗皇帝」では、キリスト教批判や西欧批判の記事がたくさんあるから、不穏当なブログであるとしてさる筋から妨害される可能性もあると考えていたが、あちらの方は娯楽的語学学習などの話題が中心だったから、内容面から妨害される可能性は少ないと考えていた。まあ、使っているパソコンが古いために、セキュリティ認証が受けられないとかいった理由かもしれない。それもおかしな話ではある。ブログ作者本人がアクセスできないとは、いったい、何のための、誰のためのセキュリティなのか。まあ、無料ブログだったから、私本人が文句を言う筋合いは無いが、毎日少しでも読んでくれる人がいるのが楽しみだっただけに残念である。
もしかしたら、これまであちらのブログで書いてあった記事を、今後、こちらに移植することもあるかもしれない。自分で言うのも何だが、けっこう反応の良い記事もあったのである。
インターネットの世界は、素人にはわからないことが多いものである。 -
先ほど書いた記事の中で、野坂昭如の「如」を「之」と書いてしまい、今訂正したところである。
人の名前は難しいが、それにしても昔の人は漢字力があったなあ、とも思う。五木寛之の「之」も「野坂昭如」の「如」も「ゆき」と読むが、実はどちらも「行く」意味である。つまり、「行く」という字の代わりに「之く」あるいは「如く」と書いてもいいわけだ。こういう知識があると、高校生や浪人生などは漢文での得点力が上がるのだが、現代人は薄っぺらい合理主義者ばかりだから、「行く」という意味の字は「行」だけ覚えればいい、と考えるのではないか。そういう「合理主義」は確かに生活を簡便にはするが、それによって文化は貧相なものになっていくのである。
まあ、現実の人間と恋愛するのは面倒だから、小説などを読んで脳内冒険で間に合わせるというような合理主義は、それはそれで平和な世の中を作りはするが、文化とは余剰や無駄の別名でもあるから、そういう状況では余剰や無駄に基盤を置く資本主義そのものが死滅することになるはずである。