"挨拶・連絡など"カテゴリーの記事一覧
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しばらく小説的な作品から離れていたので、次回からのシリーズは小説にする。例によって、雑談まじりの半エッセイ的小説だ。題を「風の中の鳥」と言う。
この作品の前に、西洋中世を舞台にした「少年マルス」「軍神マルス」という少年小説を書いて、少年小説らしい健全さを守るために性的描写をまったく入れなかった、その反動からか、ややエロ場面の多めの作品になったものだ。と言っても、事実描写が苦手な私のことだから、ただの「説明」によるエロであり、法律の条文における性的事件の説明と似たりよったりである。しかし、それでも真面目な青少年には刺激が強いかもしれないので、あらかじめ警告しておこう。と言って、また過度の期待をされても困る。もともとケストナーばりの少年小説を理想としている人間の書いた小説なのだから、せいぜいが、同じケストナーの「ファービアン」程度を想像してくれればよい。少し長い作品なので、明日あたりアップする。 -
次にアップするのは、数年前に、母親を毒殺しようとして逮捕された少女が自分のブログに書いてあった文章である。まるで萩原朔太郎の詩のような美感がある文章なので、保存してあったのをここで紹介する。
もちろん、この程度の文章を書いている青少年は無数にいるのかもしれないが、私から見たら、小中学校の教科書に載っている愚劣な詩の数倍も詩的美感があると感じる。その少女が社会に復帰した時には、ぜひ文学関係で名をあげて貰いたいものである。
せっかくいい頭脳を持っているのだから、母親を実験台にして毒物実験をやるような愚かしいことをせずに、いい子のふりをして大人になるのを待てばよかったのである。まあ、それが待てないのが青春というものかもしれないが。
タイトルとしてつけた「落ちる星とオーブンの兎」は、私・徽宗皇帝が便宜的につけたものであるので、いつでも修正する準備はある。 -
以上で「革命者キリスト」は終わりである。
こういう宗教批判の論文はサイバー攻撃を受けるのが常であるから、このブログも炎上し、サイト閉鎖に追い込まれる可能性は高い。だから、この論文に興味があれば、早めにご自分のパソコンに保存しておいていただきたい。
ただし、この論文はキリスト教やユダヤ教自体の批判というよりは、それらの宗教を権力維持装置として利用する連中への批判であり、そうした宗教の利用に盲目な人々への批判なのである。
最初に書いた通り、宗教は人間に生きる希望を与える力がある。だが、同時に宗教によって庶民が大きな不利益を蒙ってきた歴史があるのである。
宗教、特に唯一神を想定することの不合理性については、この論文でも言及した中江兆民の「続一年有半」が、完璧に論破しているので、ぜひ一度はお読みいただきたい。 -
「業家の兄弟」はいかがだったでしょうか。ドストエフスキーの「ド」の匂いくらいは感じていただければ幸いです。
ただし、キリスト教に関しての考えは、ドストエフスキーを読んだ高校生の頃と現在の私は異なる部分があるので、次回からしばらくキリスト教についての私の考えをシリーズでアップします。
私自身は宗教には有益な部分と有害な部分があると思っています。古い宗教については、創始者の教えが年月が経つうちに変形され、権力に取り込まれていくのが宿命であり、新興宗教はその大半が教団自体の利益獲得手段になっているというのがその最大の害悪です。
有益な部分は、もちろん、人々に生きる希望を与えることが多いという点です。人は何かの希望無しで生きられるものではないので、宗教が仮に幻想であっても、それは有益な幻想でしょう。そういう意味では、文学の有益性と同じだと言えます。
ただし、文学は自らが虚構であると謙虚に認めているのに対し、宗教は自らの虚構性を認めることは絶対にしません。それは宗教の土台を破壊することですから。そしてその欺瞞から、宗教のあらゆる害悪も生じてくるのです。
では、「革命者キリスト」をお読みください。