「ここで働いて10年になるが歴代トップレベルの人出だった」
事故から丸1日経った10月30日夜、匿名を条件にインタビューに応じてくれた現場付近のコンビニ店員はこう述べて目を伏せた。
29日晩、ソウルで最も多文化な街・梨泰院(イテウォン)に集まった人々が、同地のランドマークであるハミルトンホテル脇の路地で将棋倒しとなった。死者155人、負傷者152人(1日午前6時現在)。2人の日本人を含む26人の外国人をも巻き込んだ文字通りの大惨事となった。
「梨泰院の惨事」と名付けられ、社会的なインパクトとしては修学旅行中の高校生258人を含む304人が亡くなった2014年4月16日のセウォル号沈没事件以来のものとされる今回の事故が今、韓国社会にどんな議論を投げかけているのか。現在の争点から韓国社会が抱える問題が見えてきた。
事故の原因をめぐる「すれ違い」
一晩明けた30日の朝から事故の詳報があらゆるメディアを通じ韓国社会に伝わった。あまりの被害の大きさから、韓国社会はショックを受け、次いで哀悼の雰囲気に包まれた。そして、「いまは哀悼の時間」というフレーズがネット上のあちこちに溢れた。非常に韓国的な表現であると、私は思わず唸った。
韓国はここ数年、いわゆる「保守」と「進歩」という両陣営間の政治的な分断が急速に深まっている。政治家間は言うに及ばず、市民が集うネット上の言論空間でも衝突が先鋭化している。
事故の原因究明を求める動きがすぐに政争へと転化する発火寸前の状況が存在するということだ。こうした中での「まずは哀悼」という主張は、「政治の話はやめよう」と置き換えることができる。
事故が社会に与える影響の深刻さを逆説的に伝える表現だった。自制心を失い陣営間に分かれ感情的な対立が起こる場合、社会秩序が崩れる恐れすらあったと私は見ている。
しかし、市民は冷静を保った。一方で追悼を優先する雰囲気に大統領も便乗する。
30日午前、尹錫悦大統領は国民向けの談話の中で「事態の収拾が付くまで国家哀悼期間とする」旨を明かした。期間中は派手なイベントを自粛することが求められる。百貨店や遊園地はハロウィンに向けて準備していたイベントをすべて取りやめ、売り物も撤去した。国が哀悼を指示していた。
だが、韓国市民は事故直後から、積極的に「なぜ」と問い続けた。
密閉空間でもない場所で、たくさんの犠牲者が出た理由を知りたがった。背景には、政府への不信がある。生者を乗せたまま沈みゆく船を全国民が見守るしかなかった8年前のセウォル号沈没事故を引き合いに出すまでもなく、忘れた頃にやってくる大型人災の陰には、必ず政府の予防や対応のまずさが存在してきたからだ。
そして、今回も同じだった。
事故当時、現場の路地一帯ではたくさんの人出にもかかわらず人流を整理する警官や公務員がほぼ見当たらなかったことが早々に明らかになった。さらに事故当日の昼間からは、人出の多さに危険を感じた現場周辺で商売を営む人物たちやユーチューバーなどが警察に通報し介入を要求したのにもかかわらず、黙殺されていたこともわかった。
行政の不備を指摘する声が出てきた
こうした内容が伝わるや、世論は哀悼ムードを維持しつつも行政の不備、つまり警察や公務員の対応が不足していた点を指摘する方向へと一斉に向かった。
印象的だったのはニュース専門チャンネルのYTNだ。31日の放送でアンカーは「国民は皆、警備の手薄さに憤っている」と発言した。事故の責任がどこにあるのかを示すもので、速報とファクト中心の報道を心がける同局としては、かなり踏み込んだ発言だった。
他局も同様で、続々と行政の不備に関するニュースを流している。
地上波主要局の1つSBSは、31日のメインニュースで、当日のソウルにはデモなどの対応で機動隊約4800人が投入されたが、13万人の人出が見込まれた梨泰院には「配備ゼロ」だったこと報道。また、1日には警察が事故の直前にあった市民の通報を「緊急度高」と分類したにもかかわらず、出動しなかった事実を伝えた。
このように「明らかな人災である」という世論が広まる傍らで政府は、「誰が実際に事故を引き起こしたのか」という点を明らかにしようと、周辺の監視カメラの映像や目撃証言を集め捜査を進めている。
ある生存者は「屈強な20代男性の一団が『押せ!押せ!』という叫ぶ声が背後から聞こえてきた。彼らを許さない」という趣旨の内容をネット上に書き込んだ。特徴的な髪型や衣装の様子が書かれており、ネットを中心に犯人捜しに拍車がかかっている。
当然、必要な捜査ではあろう。だがもし警察が「犯人」を特定したとしても、この事故の原因がすべてそこにあるのか、どう罰することができるのかもまた、議論となっている。「それよりも未然に路地の通行を規制すべきではなかったのか」という行政の不備を指摘する声が圧倒的な中、この「すれ違い」が今後は大きな争点となる見通しだ。
政府の責任はどこまで?
「爆弾ゲーム」とは、爆弾に見立てたボールを数人で回し、音楽が止まった際にボールを持っていたものが罰ゲームを行う遊びだ。今回の事故後の政府内の動きは、これに近いものがある。
ゲームの登場人物は、梨泰院が所属するソウル龍山区長、ソウル市長、市民の安全を司る行政安全部の長官などだ。
まず、朴熙英(パク・ヒヨン)龍山区長は、事故直後に現場に駆けつけたというものの、事故後に連絡が取れなくなり立場表明が事故翌日の午後5時まで遅れた。朴区長は韓国メディアに「現場の収拾が先だった」としたが、立場表明文には事前の備えが足りなかったという認識は含まれず、謝罪の言葉もなかった。
朴区長はこれに対し「魂の込もっていない謝罪は意味がない。事前の準備がどう適用されていたのかをまず把握する」とかわした。
そして31日の会見では「区長としてはできることはやったが、ここまでの人出は予想できなかった」とした上で、「これ(ハロウィン)はお祭りではない。お祭りならばイベントの主催者がいるが、ただハロウィンの日に集まる一つの『現象』として見るべき」と見解を明かした。やはり謝罪の言葉はなかった。「現象」という発言は「責任逃れだ」とメディアや世論の批判を浴びている。
ソウル市の呉世勲(オ・セフン)市長は事故翌日の午後になって現場に到着した。事故の一報を聞き、海外出張から急遽帰国したものだ。
呉市長は現場で「子どもを亡くした親御さんたちにどんな労りの言葉をかけていいかわからない」とし、「ソウル市は事故の収拾に万全を期す」と述べた。謝罪はまたもなかった。翌31日には韓国メディアの記者たちに対し「捜査結果が出た後に立場を明かすのが順序である」との見解を明かした。
きわめつけは、文字通り市民の安全を総括する行政安全部(日本の総務省と警察庁を合わせた省庁)の李祥敏(イ・サンミン)長官の発言だった。
事故翌日の会見で「警察と消防を事前に配置したといって解決される問題ではなかった」とし、31日には「警察と消防の配置不足が事故の原因だったのかは疑問」と責任逃れと取れる見解を連発した。連日の失言に与党内からも辞任を求める声が上がるほどだった。
李長官は31日夜と1日午後に相次いで正式に謝罪したが、初動からすでに尹錫悦政府の「責任逃れ体質」を韓国社会に強く印象づけた。
なぜ行政の「責任」になるのか
このように政府の重要な位置にいる人物たちは相次いで責任から逃れようとした。それはまるで、「責任」という名のボールを回す爆弾ゲームそのものだった。
読者の中には「なぜ行政側が謝罪をする必要があるのか?」と思う方がいるかもしれない。当然、あり得る疑問だ。これに対する答えは2つある。
まず、韓国市民が政府に求める役割は想像以上に大きいということだ。2020年に新型コロナが流行した際にも、こうした感覚は明確になった。政府は国民を保護する義務があるという認識は深く根付いており、韓国の有権者は日々、政府にさまざまな対策を求めるデモを行っている。
次に法律で行政の責務が定められている点が挙げられる。
『災難および安全管理基本法(災難安全法)』の第4条では「国家と地方自治体では災難やその外の各種事故から国民の生命・身体および財産を保護する責務を負い、災難やその外の各種事故を予防し、被害を減らすために努力しなければならず、発生した被害を迅速に対応・復旧するために計画を樹立・施行しなければならない」と国、そして行政の役割は明確だ。
これらの点を行政側が理解していないはずはない。そして前述したようなすでに明らかになっている事実から、謝罪の必要性は充分に認識できるはずだ。「哀悼優先」や「原因究明」をかかげ謝罪を後回しにするのは不自然であったと考えるほかにない。
その後ついに1日午前、警察庁長が記者会見を開き、100件を超える事前の通報を見逃した警察の判断不足を認め、事故における警察の責任に言及した。また、李祥敏長官も同日「国家は国民の安全に対し限りない責任がある」とし、深い謝罪の意を明かした。呉世勲ソウル市長もこれに続き、「限りない責任」を繰り返した。
だが、政府が一度見せた責任逃れの印象は、そう簡単に覆らないだろう。
前述したように、現在は「実行犯」を探す動きと、「システムの不備や不作為」を究明する動きが同時に行われている。今後、特定の個人が「犯人」とされる可能性もある。この場合、政府の責任をどう問うのかが焦点となる。
そして再発防止策も議論されるだろう。実は、今回の事故は「法の死角」で起きたものでもあった。
韓国では1000人以上のイベントが行われる際に、主催者による安全管理措置の計画が規定されているが、梨泰院のハロウィンのイベントには主催者がいなかったため、対策が宙ぶらりんとなっていた。
この空白が事故を生んだとも考えることができることから、補完する法律を早急に作る必要がある。この空白は同時に、遺族が政府(行政)の責任を問えるのかどうかの争点をはらんでもいる。明確な政府の不手際が明らかになる場合、遺家族は政府に対する損害賠償請求ができるという専門家の指摘もある。
大型事故が相次ぐ韓国社会は「安全」なのか
だが何よりも「韓国社会ははたして安全なのか」という問いに政府が答えなければならない。
同様のな問いはセウォル号事件が起きた8年前にも発せられ、OECD諸国でも屈指の多さとなるワーストの労働災害被害が相次いだ続いた文在寅政権の5年間にでも続いたが、残念ながら儚い望みであったことが今回の事件で明らかになった。
日本でも知られるアーティスト、イ・ランがツイートした「生きていることを個々人の運に任せる社会とは」という言葉は、ドラマ「イカゲーム」を彷彿とさせ、危険と隣り合わせの韓国社会の本質を鋭く突いている。
一方で事故を受けて韓国社会でも「あんな危険な場所に行くのが悪い」という「自己責任論」が、事故直後からはびこっている。
しかし、「梨泰院の惨事」は明らかに人災であり、政府は事故直後に責任を回避しようとした。こんな厳しい現実を前に韓国社会は今、「国民を保護する」という政府の役割を求め続け前に進もうとするのか、それとも無力感の中で自己責任論が幅を利かす方向へとなし崩しで変わっていくのか、その大事な分岐点を迎えている。「梨泰院の惨事」が投げかける問いは、あまりにも重い。
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