久しぶりに政治を哲学として考察してみたい。つまり、政治的事象を本質から考察してみたいのだが、その考察課題は「右翼とは何か」である。
右翼という言葉は非常に漠然としており、一番妥当性が高いのは「左翼(革新主義)を否定するもの」で、つまりは「保守主義=右翼」ということになるかと思う。そして「保守主義=現政治体制の肯定」とされ、政権与党を支持する層が右翼とされがちだ。
しかしここには錯誤があり、「現政治体制=現与党」ではない。右翼はあくま現在の政治体制全体を肯定するのであり、現与党に関しては個々の判断になるのである。たとえば私などは「象徴天皇制」「現行憲法」の肯定者、つまり基本的には保守主義であるが、現与党、つまり自民党の現在の在り方を否定するものだ。
その自民党も「野党の大半よりはマシ」と考えており、野党の中で共産党やれいわ新選組をひいきにしている。では、野党を支持している私は「革新主義」なのか、と言えば、実は共産党や新選組は保守主義だ、と私は思っているのである。DSに従うことで日本の姿をどんどん改悪している(つまり革新政党であり、左翼とすら言える)のが、まさに現自民党なのであり、彼らは単に「自分たちの既得権益を保護拡大する」だけの集団なのである。
要するに「右翼・左翼」という言葉はもはや形骸化しているわけだ。今ではそれは単なる「レッテル貼り」でしかない。
では「愛国主義」はどうか、と言えば、これは政治思想としては現実的ではなく、単に「愛国・反日」のレッテル貼りに使われるだけの愚劣な言葉である。昔から「愛国主義は悪党の最後のよりどころ」と喝破されている。(「愛国主義」ではなく「愛国心」だったかもしれない。まあ、悪党が使うのだから、当然ただの旗である)
反日・愛国の言葉で相手と自分をレッテル貼りする人間にまともな人間はいない。悪党か馬鹿である。また、愛国者であっても、他の国を頭から否定する馬鹿と、他の国の愛国心をも肯定し、協調していこうとする愛国者もいる。つまり、その人間の言葉だけで相手を判断するのは愚かしいということだ。「自分は愛国者だ」と言う人間には、むしろ「なぜわざわざそういうことを大声で言う必要があるのだ?」と疑問視するべきだろう。
つまり、右翼の中にも左翼の中にも「愛国者」はいるのであり、それだけで「愛国・反日」と決められるものではない。問題は「保守」か「革新」か、ということだ。
そして私は、DSによるグローバリズム(世界画一化・平準化)は、個々の国の文化と伝統の破壊であり、その推進する政策は各国の国民の奴隷化である、という点で「革新」を否定する立場だ。ちなみに、現在のマスコミはリベラル、つまり自由主義の立場に立っており、自由主義とは基本的に伝統の破壊である。
もちろん、保守というのが単なる既得権益の保護にすぎないという面や、現体制に内在する不平等という問題はある。しかしそれは「個々の問題」「細部の問題」であり、それぞれの国の「国家体制」全体が誤りだ、とはならない、というのが私の保守主義であり、私が自分をおおまかにいえば右翼だと規定する理由だ。何しろ、私の精神は過去の日本の文化(歴史と伝統)で形成されており、日本の歴史と伝統の否定は自己否定になるのが理の当然なのである。それは私だけの話ではないだろう。(もちろん、「自己否定=自己変革」だ、というご立派な意見もあるだろうが、たいていの自己否定は究極的には自殺か自我崩壊にしか結びつかないのである。)
右翼という言葉は非常に漠然としており、一番妥当性が高いのは「左翼(革新主義)を否定するもの」で、つまりは「保守主義=右翼」ということになるかと思う。そして「保守主義=現政治体制の肯定」とされ、政権与党を支持する層が右翼とされがちだ。
しかしここには錯誤があり、「現政治体制=現与党」ではない。右翼はあくま現在の政治体制全体を肯定するのであり、現与党に関しては個々の判断になるのである。たとえば私などは「象徴天皇制」「現行憲法」の肯定者、つまり基本的には保守主義であるが、現与党、つまり自民党の現在の在り方を否定するものだ。
その自民党も「野党の大半よりはマシ」と考えており、野党の中で共産党やれいわ新選組をひいきにしている。では、野党を支持している私は「革新主義」なのか、と言えば、実は共産党や新選組は保守主義だ、と私は思っているのである。DSに従うことで日本の姿をどんどん改悪している(つまり革新政党であり、左翼とすら言える)のが、まさに現自民党なのであり、彼らは単に「自分たちの既得権益を保護拡大する」だけの集団なのである。
要するに「右翼・左翼」という言葉はもはや形骸化しているわけだ。今ではそれは単なる「レッテル貼り」でしかない。
では「愛国主義」はどうか、と言えば、これは政治思想としては現実的ではなく、単に「愛国・反日」のレッテル貼りに使われるだけの愚劣な言葉である。昔から「愛国主義は悪党の最後のよりどころ」と喝破されている。(「愛国主義」ではなく「愛国心」だったかもしれない。まあ、悪党が使うのだから、当然ただの旗である)
反日・愛国の言葉で相手と自分をレッテル貼りする人間にまともな人間はいない。悪党か馬鹿である。また、愛国者であっても、他の国を頭から否定する馬鹿と、他の国の愛国心をも肯定し、協調していこうとする愛国者もいる。つまり、その人間の言葉だけで相手を判断するのは愚かしいということだ。「自分は愛国者だ」と言う人間には、むしろ「なぜわざわざそういうことを大声で言う必要があるのだ?」と疑問視するべきだろう。
つまり、右翼の中にも左翼の中にも「愛国者」はいるのであり、それだけで「愛国・反日」と決められるものではない。問題は「保守」か「革新」か、ということだ。
そして私は、DSによるグローバリズム(世界画一化・平準化)は、個々の国の文化と伝統の破壊であり、その推進する政策は各国の国民の奴隷化である、という点で「革新」を否定する立場だ。ちなみに、現在のマスコミはリベラル、つまり自由主義の立場に立っており、自由主義とは基本的に伝統の破壊である。
もちろん、保守というのが単なる既得権益の保護にすぎないという面や、現体制に内在する不平等という問題はある。しかしそれは「個々の問題」「細部の問題」であり、それぞれの国の「国家体制」全体が誤りだ、とはならない、というのが私の保守主義であり、私が自分をおおまかにいえば右翼だと規定する理由だ。何しろ、私の精神は過去の日本の文化(歴史と伝統)で形成されており、日本の歴史と伝統の否定は自己否定になるのが理の当然なのである。それは私だけの話ではないだろう。(もちろん、「自己否定=自己変革」だ、というご立派な意見もあるだろうが、たいていの自己否定は究極的には自殺か自我崩壊にしか結びつかないのである。)
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