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徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「敗戦記念日」を機に国家と国民について考えよう
しばらくご無沙汰していたが、現在帰郷中なので、このブログは中断していたのである。ネットへの接続はできるが、仕事ではないのだから、べつに毎日書く必要も無い、というわけで長い間のご無沙汰であった。
その間、60の手習いで低レベルの英語の勉強などしていたが、それは酔生夢人のブログの方にふさわしい話題だろうから、そちらに書く。
ネットはずっと読むだけだったわけだが、正直言って、どのコラムもブログも低調な印象である。もっとも、オリンピックのせいで重要問題が水面下に潜り、問題化していないので、ネット論者たちも論じようが無いのだろう。「反戦な家づくり」の明月さんなど、その状況に焦りを感じている、という印象だ。それ以外の人は、ブログの話題がどうでもいいような話題に終始しており、手を持て余している感じである。
ロンドンオリンピックでテロ事件が起きるのではないかと期待させ、それが起きなかったために気が抜けた、という面もある。こういうのは「逆ショックドクトリン」か。つまり、工作員を使って、「陰謀論者」めいたインチキ情報を流し、その情報が「実現しない」ことによって、「陰謀論」はやっぱり妄想だ、という印象を世間に植え付けるわけだ。
まあ、私もその情報で騒いだ一人だが、弁解すれば、「真面目な騒ぎ方」はしていなかったはずだ。
もともと、宇宙人とか上主というのは、私にとっては話の味付け程度のネタにすぎない。ETの手を借りない限りは、この世界の浄化はできないかなあ、とは思っているが、あと1000年もすれば自然に人類の「幼年期」も終るだろうと期待するしかなさそうだ。ま、いずれにしても俺には関係ないがね、と井口博士風に言っとこう。私の大好きなケインズの言葉をまたしても引用すれば「長期的に見れば、我々は全員死んでいる」のだ。この言葉自体は、「長期的という言葉は無意味だ。長期的に見れば我々は全員死んでいるのだ」という、前半との対比が大事で、問題を先延ばしにする連中や、やたらと「長期的な見通し」を相手に求める連中への批判の言葉だったようだが、後半だけ見れば、仏教的な諦念や悟りの言葉にもなるところが面白い。

さて、今日の引用文は「晴れのち曇り 時々パリ」から転載。
8月15日を「終戦の日」と言い換える欺瞞によって日本人はあの「敗戦」への反省、日本を敗戦へ導いた連中への批判と問責ができなくなった。
私は「東京裁判」は連合国や占領軍の手でではなく、日本国民の手で行うべきだったと思っている。もっとも、一般庶民も含めて日本国民の大半が戦争責任者だった状況で、それが可能だったとは思わないし、私の親も軍人であったから、戦犯にされてた可能性もあるのだが。
であるから、私は庶民が「戦争被害者」であったことによって一方ではそういう政治を作るのに協力してきた「戦争加担者」であったという事実が免責されるとは思わないのだが、政府(を形成する人々)と(一般)国民とはまったく別の存在である、という認識を我々はもっと子供のころから持つべきだと思う。政府に対する卑屈な服従や誤った信頼が、あの戦争だけでなく、福島原発事故の根本にあるというのは、下記文章の筆者も多分同じ意見だろう。


(以下引用)


明治維新以来一世紀半、日本の官僚は「国民」を守ったためしがない。

文官も武官も、自分達の視野狭窄を棚に上げて、自分達のみが国を動かせる能力が有ると勘違いして、一般大衆を赤児扱いにするのみで、決して国民の視線に立った発想は持てない。

戦争を興すのは、そのような「自称エリート官僚」のエゴと勘違いである。

犠牲になるのは、一般の国民大衆である。

日清日露の戦争から、先の太平洋戦争に至るまで、軍事官僚は常に国民の犠牲の上に、国威発揚ゲームにうつつを抜かし、やらなくて良い、やる必要も無い、やっては行けない戦争に国民を駆り立て、多くの同胞を殺し傷つけ、少しも歴史に学ぶ事も無く、同じ過ちを何度も何度も繰り返して来た。

明治維新以来、日本の官僚は「国民」を守ったためしは無い。

犠牲になるのは、いつも必ず、一般の国民大衆である。



「国軍」とは、文字通り国を守る軍隊である。

国とは、国民である。

ところが、「第日本帝国」だけは、例外であった。

国民を守るどころか、国民を楯にして、自分達は逃げ出そうとさえした。

戦地では、古参兵が新兵をイジメ、馬鹿な上官が将兵を全滅させる無意味な作戦を強行し、本国の参謀本部は戦地の状況を正しく理解する事を拒絶して、徒に無駄な闘いをやめなかった。

勝てないどころか、負ける事が避けられない現実であったにも関わらず、負けを認めようとせず、停戦を拒否し、ずるずると無意味な全滅作戦にのめり込み、将兵を殺し、国民を死なせ、国土を荒廃させて、顧みなかった。

最後は、民間人に手榴弾を与えて自決を強要してまで、おのれ等の面子を守ろうとした。

沖縄のいたいけな少女達まで、自決に追いやって。

敗戦の受け入れを、先延ばしにして、決断を先送りにして。


軍事官僚は、自分達の無能さによって、将兵だけで280万人、一般国民を含んで350万人もの「同胞」を、死に至らしめた。


誰一人、水から責任を取ろうとする者は、居なかった。



何だか、<デジャヴュ>では無いか。

原発が爆発事故を興して、放射能が大量に降り注ぐ中で、自分達の利益を守り抜き、責任を取らずに済むために情報を隠蔽し、学報の太鼓持ち共にウソ偽りの宣伝工作を行わせ、一年半経った今も被爆者救済の具体的処置は何も無いまま、責任の存在を曖昧にするために汚染瓦礫を全国に拡散して汚染を希釈し、汚染農産物、被曝海産物を、表裏両面のルートで大量に市場に出回らせ、正しい汚染情報を出さずに消費させて、国民を外部被曝に加えて、内部被曝をも押し付けている。

放射能、皆で被爆すれば、恐く無い。

原子力ムラと呼ばれる、産学報官の既得権益層の利益の確保のみを死守すべく、政府民間が一丸となって国土汚染を止めようとしない。


「決められる政治が求められているんです」と、野田佳彦は能面の様な無表情で、しれっと言い放った。

原発を止めるのでは無く、止めた原発を再稼働して電力事業者のり駅を守り、官僚と米国の利益を守る為に、国民を売り払って顧みない。

民間人と一緒に防空壕に隠れていた軍人が、敵に投降しようとする市民を後ろから銃で殺し、皆に手榴弾を与えて自決させた、あの時とどこが違うのか。

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コメント

1. 鬼子孫

三つも領土紛争を抱え続けるのは不適切です。
しかし、外務省は「日本が正しいのだから、いずれ北方領土も竹島も日本のものとなり、中国も尖閣をあきらめる」という幻想を国民に振りまき、本気で交渉はしませんでした。
実際は、北方四島のすべてや竹島が日本のものとなることは永遠にないし、中国が尖閣を絶対にあきらめないことも、少し考えれば誰でもわかることです。

外務省が長い期間、国民をだましてきた理由として、次のようなものが考えられます。
・官僚としては、交渉など何もしなくていいから一番楽だ
・解決を考えると、政治家の力を借りざるを得ず、官僚の権益が侵される
・周辺国との間に未解決問題があった方が、自分たちのグループ(チャイナスクールなど)の存在意義が高められる
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