忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

「民主政治の一機関としての天皇」という思想
「世に倦む日々」の冒頭部分と、読者コメントの一部を転載。
辺見庸の文章は読んでいないのだが、部分的に抜書きされたものを他の読者コメントの中から見ても、相当に汚い罵詈讒謗のようである。相手が天皇だから何を言ってもいいと思っているのか、自分の思想的な敵対存在には何を言ってもいいと思っているのか知らないが、普通の人間が相手でも、こういう言葉を投げかけていいものではない。ただし、コメント者「私は黙らない」氏が言うように、

辺見氏のブログは辛辣ですが、皇室に対し、辛辣なことを言える言論環境はとても大事なように思います。不敬罪がなくとも、皇室に対し、率直な物言いが憚られるような空気があるとしたら、それはとても恐ろしいことではないでしょうか。

という社会の在り方(言論の自由の保障)自体は大事なものだと私も思うから、おそらく皇室否定論者であるかと思われる「私は黙らない」氏のコメントも転載しておく。
私が特に関心を持ったのは、「民主主義としての象徴天皇制」氏のコメントで、彼が言っていることは、私がずいぶん前から言っていることとほぼ同じである。つまり、「政治が危機的状況にある時、それに対して注意を促してくれる存在、ストップをかけてくれる存在を制度として持つことができるとしたら、それは天皇という存在だけではないか」というのが私の考えなのである。そういう意味で私は天皇を政治の一つのシステム、機関とする構想をだいぶ前から述べているわけだ。
これ(社会の真の木鐸であること)は、普通の人間(スポンサーの尻を舐めるだけのマスコミ人など)にはできないことである。たとえ立派な思想を持つ人間であっても、国民全員が耳を傾けることはまず無いだろう。
我々は、この国の総理大臣や大臣連中、官僚たちが最低の人格の持ち主であることをよく知っている。財界人やマスコミ人が最低の連中であることもよく知っている。学者のほとんどは御用学者であることをよく知っている。誰ひとりとして、「素晴らしい識見の持ち主だ」と思える人間は「一般人」の中にはいないのだ。
そうした中で、「ほとんど聖人」と思える人間がこの現代社会の中に存在しうるのは奇跡に近いが、この日本ではそれが存在する。今上天皇ご夫妻がそうだ、と前々から私は言っている。
そしてそれは「天皇という職務」から生まれてくるのではないか。
国民の安寧と幸福を祈願し、苦難に遭った人々を励ますことだけが使命という職務だからこそ、そういう人格になる、と私は思っているのである。


(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。



辺見庸の「お気持ち表明」批判 - 象徴と内在、国民統合と国民の総意
c0315619_16375235.jpg辺見庸が天皇陛下のお気持ち表明に対して反応し、辛辣な批判をブログで加えている。昨日(8/9)の記事でこう書いている。「ポイントは『日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています』にあるのである。朕らはもはや象徴ではなひのだ」。この一節を読んで、中学3年の公民で教師が憲法1条の象徴天皇制をどう説明したかを思い出した。たしか、象徴とはバッジのようなものです、皆さんの学生服の襟につけている徽章と同じです、それぞれの国にはバッジがあり、日本の国のバッジが天皇です、という説明だったような記憶がある。そして、その後、象徴は元首ではないという話が続き、日本国憲法で天皇が元首ではなく象徴とされた意義が強調されていた。今は学校教育でどう教えているか不明だが、この原点に立ち帰れば、辺見庸の問題提起は有意味なもので本質を射抜いていると言えなくもない。憲法1条の象徴の意味は、このようにきわめて無機質的なニュアンスで説明され、純機能的な看板のようなイメージで生徒に理解が導かれる概念だった。学校教育での象徴の意味がこうだったとすれば、辺見庸の批判のとおり、天皇陛下の「社会に内在」の論は則を超えた逸脱かもしれない。



c0315619_1638348.jpgただ、私自身は、学校教育が象徴をこう説明する意味を理解した上で、なお、それでは条文にある「日本国民統合の象徴」とか「日本国民の総意に基く」はどう考えればよいのかという疑問を残したまま、高校、大学に進学した。準元首とも説明される象徴の地位が「日本国民の総意に基く」とはどういうことだろう。明らかに、日本国民が天皇の存在と地位を納得し、積極的に評価し容認しているという事実が根拠となっていて、国民がそうした判断をしない場合は天皇は象徴の地位を全うできないという前提が含意されている。戦前に教育を受けた世代が多数を占め、「総意に基く」が異議が上がらずデフォルトで通用する時期なら問題ないかもしれないが、自分たちのように戦後教育を受けた者が多数になり、天皇の代が新しく替わったとき、「総意に基く」はどうなるのだろう、不安定な事態になるのではないかという疑念はずっと続いていた。
(以下略)





Commented by 民主主義としての象徴天皇制 at 2016-08-11 22:59 x                
天皇は人間である。生身の人間だということは、そこには必ず「生き様」があるということだ。その「生き様」=「行動のすべて」が、「恒久の平和を念願」した日本国民統合の象徴なのだ。
一人の生きている人間に「バッジのようであれ」というのは、根源的に無理な注文である。
そもそも、「社会に内在し、人々の期待に応えていく」ことをしないような人間が、「日本国民の総意」に基づく象徴の地位を得ることなど不可能ではないのか。
内在しない人間が象徴になるなどということはあり得ない。
もちろん、天皇制というシステムに、民主主義と相容れない危うさがあることは認める。
しかし、一方で、我々大衆の一過性の熱狂に、一瞬だけストップをかけ、冷静に考え直す機会を与えてくれるという機能が、この象徴天皇制にはあるのではないかとも考える。
そのことは、天皇が何か政治的な言葉を発するという意味ではない。
「日本国民統合の象徴」としての誇りを持った天皇の振る舞いを目にして、「ふと我にかえる」ということだ。日本人としての生き様を思い出し、恥じ入るということだ。本来の自分たちの伝統と文化に根ざした生き方を取り戻す契機になるということだ。そのモデルであってこその「日本国の象徴」なのではなかろうか。

 
Commented by 私は黙らない at 2016-08-14 13:06 x
大変興味深く拝読しました。実際、この数日、「内在化」という言葉が頭から離れませんでした。
今、日中関係が緊迫化する中で、目先の「生前退位」の是非を超え、皇室そのものの存在意義を問い直すことは大変重要なことではないかと思います。すなわち、民主主義国家の中での皇室とは何かという大変根源的な問題です。戦後、天皇の戦争責任をうやむやにしたまま、アメリカの思惑により皇室が存続し、「象徴」という枠が課せられた。
しかしながら、「象徴」とは一体何なのか、国民全員が納得するコンセンサスはあるのでしょうか。
政治には関与しない建前の天皇であっても、その存在自体、きわめて政治的なのではないかと思っています。なぜなら、たとえ直接政治的な発言をしなくとも、天皇がどのタイミングで、どこへ行き、何をし、何を言ったか、それ自体が大変政治的なメッセージだと思うからです。。沖縄へ行き、、災害の直後に避難所へ赴き、腰をかがめ、被災者に話しかける、談話の中で憲法へ言及する、それ自体が大変政治的なメッセージではないでしょうか。
Commented by 私は黙らない at 2016-08-14 13:08 x
(続き)だとすると、これは一面大変危険なことでもあるように思うのです。なぜなら、現天皇は、こうした平和への思い、弱者へ寄り添うお気持ちを大切になされている方だからよいのであって、こうした姿勢が子々孫々引き継がれる保証はあるのでしょうか。将来、日本の政治的風土が変わった場合、災害に合われた方の慰問でなく、地域紛争から帰還した自衛隊員の慰問になったりしないでしょうか。
私は、ブログ主様と辺見氏の議論の先に何が見えてくるのか、是非見届けたいと思います。
それと、辺見氏のブログは辛辣ですが、皇室に対し、辛辣なことを言える言論環境はとても大事なように思います。不敬罪がなくとも、皇室に対し、率直な物言いが憚られるような空気があるとしたら、それはとても恐ろしいことではないでしょうか。



拍手

PR

コメント

コメントを書く