明日は朝早くから外出する予定なので、今日のうちに明日の分まで掲載しておくことにする。と言っても、ブログを毎日書くことを自分に義務づけているわけではない。それはただの努力目標だし、場合によっては、わざと何も書かないこともある。それは自分が自動化したロボットのように動いているという感じが嫌だからだ。
下記に引用するのは「ヤスの備忘録」というブログの記事である。船井幸雄とも知り合いのようだから、一部では有名な人なのかもしれない。私は「In deep」の記事の中でその存在を知ったが、下に書いてあることは非常に素晴らしい内容である。要するに、誰もが感じていることを明確に言語化したわけだ。これは一見簡単にできそうで、難しいことである。
日本国民は世界でも稀なほど規律や秩序や周りとの調和を重んじる民族だが、3.11以降の政治情勢への怒りは、その沸騰点に近づいていると私は思っている。だが、国民の怒りが行動となって現われるには、国民自身が自分たちの無意識の束縛を知らねばならない。何が自分たちを縛ってきたのかを。そして、それによってこれまで失ってきたものがいかに巨大なものであるのかを。(「絆」とは、実は「束縛」の意味でもあったのだ)
(以下引用)
現在の日本は長期的に低迷しているが、その原因と現状は一般的に次のように説明されている。
超高齢化社会に伴う労働人口の減少で国内市場が縮小してデフレが常態化したため、その分、海外市場に活路を見いださなければならなくなった。だが、中国などの新興国の追い上げで日本の御家芸であった製造業は競争力を喪失し、日本の成長の牽引力が失われた。
他方、環境のこのような根本的な変化にもかかわらず、官僚組織は省庁の利害の維持と拡大に最大の関心があるため、戦後、高度経済成長の実現のために設計され、既得権の原泉と化している旧態依然とした制度にしがみつき、必要な規制緩和など新しい環境に適応するための制度改革を怠った。
制度改革は、省庁の利害と既得権に対抗できる強い政治主導が実現しない限り実行できない。だが、どの内閣も省庁にからみ取られてしまい、結局は省庁の利害が貫徹した政策に変更させられる。国民はこの状況に怒り、制度改革を実行して日本の低迷をくい止めることのできる政治家を探し、政治家と内閣を次々と取り替える。
このような認識だ。
不十分な認識
もちろん、こうした認識が間違っているわけではない。6年ほど前までは、銀行で処理が一向に進まない不良債権が銀行の経営を圧迫し、貸し渋りや貸しはがしが横行したため、実体経済を押し下げているとの認識が一般的だった。
この見方では、日本の製造業は競争力を失っておらず、不良債権さえ処理できれば日本は再度成長軌道に乗れるとしていた。このような見方と比べると、製造業の競争力の喪失にこそ低迷の原因を見いだす最近の認識は、大きな進歩であるとも言える。
だが、すでに日本の低迷は20年続いている。このような認識だけで、この長期の低迷の原因を説明することは難しいのではないだろうか?
なぜなら、労働人口の減少による国内消費の落ち込みや、新興国の追い上げによる主力産業の低迷という事態は、どの先進国も経験している共通した状況であり、日本だけの特殊な事情ではないからだ。他の先進国は、低迷しながらも、それなりに新しい環境に適応し、ある程度の成長を確保している。なぜ日本だけがこれほど長期間低迷し続けているのか説明できない。
もちろん、政権の中枢にまで食い込んでいる省庁の利害と既得権が必要な制度変更を阻害していることは事実だ。これは日本に特徴的な要因だ。
だが、それにしても、バブルが崩壊してからすでに20年も経つのに、なぜいまだに官僚の既得権を打破できないのだろうか?なぜ、変化した環境に適応できる新しいシステムのデザインが実施できないのだろうか?当然、このような疑問が頭をよぎる。
小泉政権の改革
たしかに、2001年から2006年までの小泉政権は、既存の制度の根本的な改革や、既得権の打破、そして大規模な規制緩和を「構造改革」の名のもとに実行しようとした。
この改革で、不良債権の処理が進み、また製造業に契約労働が導入されたため賃金は下落した。その結果、製造業では経営の条件が改善し、新たな成長軌道に乗ることが期待された。日本の製造業復活のシナリオだった。
しかし構造改革は、当初のイメージとは大きく異なる結果に終わった。大幅な条件の改善にもかかわらず、製造業の低迷に歯止めをかけることはできなかった。製造業はさらに低迷し続けた。
また、金融分野の規制緩和は、ハゲタカファンドなど、企業を利益の対象として売買する金融取引を拡大させただけで、日本の金融産業の成長にはほとんど結び付かなかった。
結局、小泉改革は、新たな環境へ適応できる新たなシステムの提示とデザインには失敗した。最終的に小泉改革は、セイフティーネットの縮小や、製造業への派遣労働解禁による極端な格差の拡大など、あまりに大きいマイナスを作り出して終わった。
既得権の存続
もちろん小泉改革以後も、公共の組織のあらゆる分野にはびこる既得権は、そのまま存在している。省庁が既得権の維持と拡大を優先に決定を行う状況はほとんど変化していない。
簡保の宿を信じられないような価格で買おうとし、未遂に終わったオリックスなどが典型だが、内閣諮問委員会に結集した一部の企業への国民資産の投げ売りや、財務省への権限の集中などで、既得権は排除されるどころか、既存の集団から新しい集団に移行するだけの結果に終わった。既得権は、小泉改革で消滅するどころか、逆に強化されたとも言える。
この既得権を維持し拡大するための構造がいかにすさまじく、徹底したものであるかは、3.11と原発事故、そしていまも続いている放射能漏れがもっとも象徴的に暴き出している。
それらは、官僚と電力会社、政治家が作った原子力安全神話の大ウソ、天下りポストを提供する電力会社と経済産業省の癒着、原発の監督機関であるはずの原子力安全・保安院における経済産業省の官僚支配、報道機関に役員を送り込む電力会社の支配などである。
既得権の維持と拡大は、すでに日本の公共のシステムの機能に組み込まれてしまっている。この構造が日本にとっての危機であることは間違ない。これを排除できるシステムの構築なくして、日本の再生はない。
危機と国民の怒りの集団行動
ところで、日本は幾度となく危機を向かえている。明治維新や敗戦はそうした危機だが、比較的最近の歴史でも実は危機は何度もあったのだ。
どの危機にも特徴的なことは、危機のたびに国民は怒りをあらわにして立ち上がり、政治の方向性に大きな影響を与えたことだ。
1950年代に大変な盛り上がりを見せた労働運動では、終身雇用制の慣行を広い産業分野に定着させ、その後に続く高度経済成長の基礎になった。60年代の安保闘争は岸内閣を倒し、次の池田内閣で高度経済成長計画を立案させた。また70年代の公害闘争は、公害の実質的な解消に向けての数多くの規制を実現させた。どぶ川と化していた神田川は、いまでは魚が住む川に変わっているが、こうした変化をもたらしたのは行政が公害を規制したからだ。
このように、国民の怒りの直接行動が政治の方向が大きく転換するきっかけとなり、日本の将来の決定に大きな影響を与えたことは間違いない。
この事実を見ると、既得権を打破し、根本的な制度変更を実施するためには、かつてのような国民の本格的な怒りに基づく直接的な行動がどうしても必要になるはずだ。
特に、3.11以降、日本は待ったなしの危機的な状況にある。そのような状況においてさえも明らかになるのは、省庁の既得権の維持と拡大に3.11を利用する官僚やこれと癒着した原子力産業の実態だ。この構造を根本的に打破できるのは、国民の直接的な怒りの表明しか道は残されていない。
すでに多くの日本人が怒っている。しかし、ものすごい怒りを抱えているにもかかわらず、日本人は怒りを行動として直接的に表現できないでいる。
なぜ我々は、50年代の労働運動や、60年代の安保闘争、そして70年代の公害闘争のときのように怒りで行動できないのだろうか?国民の怒りの集団行動があったならば、いまの危機的な状況は変化しているはずである。
なぜ、我々は怒り行動できないのだろうか?
我々自身の心理が引き起こす矛盾
我々が怒りで行動できない理由を考えると、意識されていない事実を認識しなければならなくなる。それは、いまの危機を作り出している最大の要因は、実は我々自身だという事実だ。
このように言うと驚くかもしれないが、当たり前のことを指摘しようとしているだけだ。現代日本人の社会的現実にかかわる方法と態度が、既得権を打破できる指導者の出現を不可能にさせ、また、新しい環境に適応したシステムの実現を阻んでいる最大の原因だということだ。
不行動の原則
この態度とは、集団的な直接行動を通して社会的現実を変更することを放棄する態度のことだ。日常と社会的現実の分断を受け入れ、なにも行動しないことを選択する態度と言い換えてもよい。つまり、不行動の原則である。
日本では、他の国々のように、正しいか間違いかという倫理的な基準で集団的な行動をすると、「片寄った考え方」、「左翼」などのレッテルが貼られ、社会的な行動は封殺される。いかなる場合でも、社会的現実を変革する直接行動は、不適切と判断され、行動を謹むように言われる。なんらかの行動を通して社会の現実の変革を試みるものは、日常の安定の破壊者として排除される対象になる。
刻印された心理のかたち
この不行動の原則が一般化している理由は、我々の心理に、「何をやっても変わらない」という強い諦念が存在しているからだ。この諦念を共有し、社交的な会話では直接行動を呼びかける話題には一切触れないのが、日本では成熟した社会人とみなされる重要な条件である。
もちろん3.11以降、このような余裕は許さない切迫した状況にある。この状況を打破するためには、我々が直接行動に訴えて、政府機能の中枢が既得権を最優先するグループにコントロールされ、実質的に機能不全を起こしている状況を変革しなければならない。そうしなければ、日本という国の継続さえも危ぶまれる状態に追い込まれることは間違いない。
それはだれでもよく分かっている。しかし、直接行動を一瞬でも真剣に考えると、「何をやっても変わらない」という思いが、心の底から込み上げてくる。この思いが一度込み上げると、すべてのエネルギーが失われ、とてつもない諦念が身体を駆け巡り、現実を変革する力が失せてしまうのだ。
こうした心理は、多くの日本人が共有しているものだ。したがってそれは、特定の宗教やイデオロギーを信じた結果として形成されたものとしては考えにくい。個人の思想や信条にかかわりなく、日本人であれば身体的に起こってくる自然な反応だからだ。
とするなら、この心理を形成したものは、我々が日常行っている当たり前の行為の中にこそあるはずである。繰り返される日常の行為を通して踏み固められ、身体に刻印された反応であればこそ、意思ではコントロールできないほど強い力を発揮する。ボールが顔に向かって飛んでくると咄嗟に避けようとするが、それと同じくらい咄嗟の自動化された反応なのだ。そうではないと、社会の現実を変えるために動こうとするときに沸き起こってくるこの諦念の強烈さは説明できない。
すべてがゲームのように進行する
刻印された諦念の心理と、社会的直接行動を否定する不行動の原則を前提にすると、どんな社会的な問題もショーと化してしまう。それはこんなふうに上演される。
まず、なんらかの政治スキャンダルや政治的な問題が明らかとなる。それは、政治家の不祥事、談合、癒着、公共組織の私物化などであったりする。
そして、マスメディアの追求で、問題の背後には原因となる同じ構造が発見される。それらは、省庁の省益拡大と天下り先の確保を意図した官僚の暗躍、政務を官僚に依存し官僚に支配される政治家のあり方、そして公共の利益そっちのけで党利党略に奔走する政治家の行動などである。
裏の事実が明らかになると、観客である国民の対応も決まっている。決まり切ったブーイングの嵐である。「いまの総理じゃだめだ」、「国民のことを考えるリーダーに変えるべきだ」、「官僚機構の改革こそ必要だ」、「政治利権を根絶しないとだめだ」、「党利党略の政治家は去れ」などである。どの野次も耳にタコができるほど聞いたものだ。どこの酒場でも聞ける。
そして、こうしたブーイングが国民の間から激しく起こるたびに、謝罪とともに当事者が処分される。その後は「政治改革」、「制度改革」などあらゆるタイプの改革がスローガンとして掲げられ、その実行を約束する政治家の決意の発言が相次ぐ。「私は身命にかけて実行して見せます!」、「改革はかならず実行します!」などと連呼する声が聞こえる。
さらに数カ月もすると、我々は同じ演目の上演に飽きてしまいブーイングの嵐も改革の連呼もピタッと収まる。すると、なにごともなかったように事態は進行し、だいぶ後になってから、結果的には状況は何も変わっていないことが明らかになる。そのときには新しい演目が上演され、観衆は同じブーイングを繰り返し、政治家も同じ決意を連呼しているというわけだ。
これは、はじめからすべての筋書きが決まった演劇だ。社会的な現実は、演劇のシナリオに合致するようにマスコミの手によって様式化され、それに対する人々の反応もパターン化される。
そして、いつものように出発点に戻り、政治家の首を付け替える。「真のリーダーはいつ現れるのか?」という変わり映えのしない声が空虚にこだましている。盛んになるのは「リーダーシップ論」だけである。
これが、社会的現実を変革する直接行動の断念を前提に、現実とかかわる我々の態度が生み出す状況なのだ。つまり、すべてが様式化した演劇のようなプロセスと化してしまうということだ。
この悪循環をすでに20年は繰り返している。この空虚な行為を我々はいつまで続けるのだろうか?
生み出され続ける無変化の日常という幻想
このプロセスでは危険な幻想が生み出される。結局、社会的現実の提示がショーと化す限り、次第に忘却が進みリアリティーが失われてしまう。この結果、現実的であるはずの日常を生活者として生きることが、社会的な現実から目を背け、危機感をマヒさせることになる。
これは、日常の現実に生きることが、実は凄まじい幻想の世界に生きることになるというパラドックスを生むのだ。このプロセスが生み出すものは、日常的な現実が無変化のまままったりと続いて行くという日常幻想の継続である。
日本に生きる我々の多くは、この日常幻想にいわばからみ取られたような状態にあると言ってもよい。放射能漏れなどのような、どんな社会的な危機が起ころうとも、テレビはいつものお笑い番組やグルメ番組を流し続け、街のショッピングセンターには家族連れが買い物し、場末の酒場ではいつものサラリーマンが仕事の愚痴を言っている。こうした無変化の日常に籠もると、外部で何が進行していても、すべてが幻影のように見えてしまう。
これが不行動の原則が生み出した日常幻想の姿だ。これにからみ取られると、社会的現実に対するリアルな現実感覚は喪失してしまうのだ。この喪失は、さらに不行動の原則を強化し、社会問題ショーの上演を通した同じ循環を繰り返す。これは大変に危険なことだ。
下記に引用するのは「ヤスの備忘録」というブログの記事である。船井幸雄とも知り合いのようだから、一部では有名な人なのかもしれない。私は「In deep」の記事の中でその存在を知ったが、下に書いてあることは非常に素晴らしい内容である。要するに、誰もが感じていることを明確に言語化したわけだ。これは一見簡単にできそうで、難しいことである。
日本国民は世界でも稀なほど規律や秩序や周りとの調和を重んじる民族だが、3.11以降の政治情勢への怒りは、その沸騰点に近づいていると私は思っている。だが、国民の怒りが行動となって現われるには、国民自身が自分たちの無意識の束縛を知らねばならない。何が自分たちを縛ってきたのかを。そして、それによってこれまで失ってきたものがいかに巨大なものであるのかを。(「絆」とは、実は「束縛」の意味でもあったのだ)
(以下引用)
現在の日本は長期的に低迷しているが、その原因と現状は一般的に次のように説明されている。
超高齢化社会に伴う労働人口の減少で国内市場が縮小してデフレが常態化したため、その分、海外市場に活路を見いださなければならなくなった。だが、中国などの新興国の追い上げで日本の御家芸であった製造業は競争力を喪失し、日本の成長の牽引力が失われた。
他方、環境のこのような根本的な変化にもかかわらず、官僚組織は省庁の利害の維持と拡大に最大の関心があるため、戦後、高度経済成長の実現のために設計され、既得権の原泉と化している旧態依然とした制度にしがみつき、必要な規制緩和など新しい環境に適応するための制度改革を怠った。
制度改革は、省庁の利害と既得権に対抗できる強い政治主導が実現しない限り実行できない。だが、どの内閣も省庁にからみ取られてしまい、結局は省庁の利害が貫徹した政策に変更させられる。国民はこの状況に怒り、制度改革を実行して日本の低迷をくい止めることのできる政治家を探し、政治家と内閣を次々と取り替える。
このような認識だ。
不十分な認識
もちろん、こうした認識が間違っているわけではない。6年ほど前までは、銀行で処理が一向に進まない不良債権が銀行の経営を圧迫し、貸し渋りや貸しはがしが横行したため、実体経済を押し下げているとの認識が一般的だった。
この見方では、日本の製造業は競争力を失っておらず、不良債権さえ処理できれば日本は再度成長軌道に乗れるとしていた。このような見方と比べると、製造業の競争力の喪失にこそ低迷の原因を見いだす最近の認識は、大きな進歩であるとも言える。
だが、すでに日本の低迷は20年続いている。このような認識だけで、この長期の低迷の原因を説明することは難しいのではないだろうか?
なぜなら、労働人口の減少による国内消費の落ち込みや、新興国の追い上げによる主力産業の低迷という事態は、どの先進国も経験している共通した状況であり、日本だけの特殊な事情ではないからだ。他の先進国は、低迷しながらも、それなりに新しい環境に適応し、ある程度の成長を確保している。なぜ日本だけがこれほど長期間低迷し続けているのか説明できない。
もちろん、政権の中枢にまで食い込んでいる省庁の利害と既得権が必要な制度変更を阻害していることは事実だ。これは日本に特徴的な要因だ。
だが、それにしても、バブルが崩壊してからすでに20年も経つのに、なぜいまだに官僚の既得権を打破できないのだろうか?なぜ、変化した環境に適応できる新しいシステムのデザインが実施できないのだろうか?当然、このような疑問が頭をよぎる。
小泉政権の改革
たしかに、2001年から2006年までの小泉政権は、既存の制度の根本的な改革や、既得権の打破、そして大規模な規制緩和を「構造改革」の名のもとに実行しようとした。
この改革で、不良債権の処理が進み、また製造業に契約労働が導入されたため賃金は下落した。その結果、製造業では経営の条件が改善し、新たな成長軌道に乗ることが期待された。日本の製造業復活のシナリオだった。
しかし構造改革は、当初のイメージとは大きく異なる結果に終わった。大幅な条件の改善にもかかわらず、製造業の低迷に歯止めをかけることはできなかった。製造業はさらに低迷し続けた。
また、金融分野の規制緩和は、ハゲタカファンドなど、企業を利益の対象として売買する金融取引を拡大させただけで、日本の金融産業の成長にはほとんど結び付かなかった。
結局、小泉改革は、新たな環境へ適応できる新たなシステムの提示とデザインには失敗した。最終的に小泉改革は、セイフティーネットの縮小や、製造業への派遣労働解禁による極端な格差の拡大など、あまりに大きいマイナスを作り出して終わった。
既得権の存続
もちろん小泉改革以後も、公共の組織のあらゆる分野にはびこる既得権は、そのまま存在している。省庁が既得権の維持と拡大を優先に決定を行う状況はほとんど変化していない。
簡保の宿を信じられないような価格で買おうとし、未遂に終わったオリックスなどが典型だが、内閣諮問委員会に結集した一部の企業への国民資産の投げ売りや、財務省への権限の集中などで、既得権は排除されるどころか、既存の集団から新しい集団に移行するだけの結果に終わった。既得権は、小泉改革で消滅するどころか、逆に強化されたとも言える。
この既得権を維持し拡大するための構造がいかにすさまじく、徹底したものであるかは、3.11と原発事故、そしていまも続いている放射能漏れがもっとも象徴的に暴き出している。
それらは、官僚と電力会社、政治家が作った原子力安全神話の大ウソ、天下りポストを提供する電力会社と経済産業省の癒着、原発の監督機関であるはずの原子力安全・保安院における経済産業省の官僚支配、報道機関に役員を送り込む電力会社の支配などである。
既得権の維持と拡大は、すでに日本の公共のシステムの機能に組み込まれてしまっている。この構造が日本にとっての危機であることは間違ない。これを排除できるシステムの構築なくして、日本の再生はない。
危機と国民の怒りの集団行動
ところで、日本は幾度となく危機を向かえている。明治維新や敗戦はそうした危機だが、比較的最近の歴史でも実は危機は何度もあったのだ。
どの危機にも特徴的なことは、危機のたびに国民は怒りをあらわにして立ち上がり、政治の方向性に大きな影響を与えたことだ。
1950年代に大変な盛り上がりを見せた労働運動では、終身雇用制の慣行を広い産業分野に定着させ、その後に続く高度経済成長の基礎になった。60年代の安保闘争は岸内閣を倒し、次の池田内閣で高度経済成長計画を立案させた。また70年代の公害闘争は、公害の実質的な解消に向けての数多くの規制を実現させた。どぶ川と化していた神田川は、いまでは魚が住む川に変わっているが、こうした変化をもたらしたのは行政が公害を規制したからだ。
このように、国民の怒りの直接行動が政治の方向が大きく転換するきっかけとなり、日本の将来の決定に大きな影響を与えたことは間違いない。
この事実を見ると、既得権を打破し、根本的な制度変更を実施するためには、かつてのような国民の本格的な怒りに基づく直接的な行動がどうしても必要になるはずだ。
特に、3.11以降、日本は待ったなしの危機的な状況にある。そのような状況においてさえも明らかになるのは、省庁の既得権の維持と拡大に3.11を利用する官僚やこれと癒着した原子力産業の実態だ。この構造を根本的に打破できるのは、国民の直接的な怒りの表明しか道は残されていない。
すでに多くの日本人が怒っている。しかし、ものすごい怒りを抱えているにもかかわらず、日本人は怒りを行動として直接的に表現できないでいる。
なぜ我々は、50年代の労働運動や、60年代の安保闘争、そして70年代の公害闘争のときのように怒りで行動できないのだろうか?国民の怒りの集団行動があったならば、いまの危機的な状況は変化しているはずである。
なぜ、我々は怒り行動できないのだろうか?
我々自身の心理が引き起こす矛盾
我々が怒りで行動できない理由を考えると、意識されていない事実を認識しなければならなくなる。それは、いまの危機を作り出している最大の要因は、実は我々自身だという事実だ。
このように言うと驚くかもしれないが、当たり前のことを指摘しようとしているだけだ。現代日本人の社会的現実にかかわる方法と態度が、既得権を打破できる指導者の出現を不可能にさせ、また、新しい環境に適応したシステムの実現を阻んでいる最大の原因だということだ。
不行動の原則
この態度とは、集団的な直接行動を通して社会的現実を変更することを放棄する態度のことだ。日常と社会的現実の分断を受け入れ、なにも行動しないことを選択する態度と言い換えてもよい。つまり、不行動の原則である。
日本では、他の国々のように、正しいか間違いかという倫理的な基準で集団的な行動をすると、「片寄った考え方」、「左翼」などのレッテルが貼られ、社会的な行動は封殺される。いかなる場合でも、社会的現実を変革する直接行動は、不適切と判断され、行動を謹むように言われる。なんらかの行動を通して社会の現実の変革を試みるものは、日常の安定の破壊者として排除される対象になる。
刻印された心理のかたち
この不行動の原則が一般化している理由は、我々の心理に、「何をやっても変わらない」という強い諦念が存在しているからだ。この諦念を共有し、社交的な会話では直接行動を呼びかける話題には一切触れないのが、日本では成熟した社会人とみなされる重要な条件である。
もちろん3.11以降、このような余裕は許さない切迫した状況にある。この状況を打破するためには、我々が直接行動に訴えて、政府機能の中枢が既得権を最優先するグループにコントロールされ、実質的に機能不全を起こしている状況を変革しなければならない。そうしなければ、日本という国の継続さえも危ぶまれる状態に追い込まれることは間違いない。
それはだれでもよく分かっている。しかし、直接行動を一瞬でも真剣に考えると、「何をやっても変わらない」という思いが、心の底から込み上げてくる。この思いが一度込み上げると、すべてのエネルギーが失われ、とてつもない諦念が身体を駆け巡り、現実を変革する力が失せてしまうのだ。
こうした心理は、多くの日本人が共有しているものだ。したがってそれは、特定の宗教やイデオロギーを信じた結果として形成されたものとしては考えにくい。個人の思想や信条にかかわりなく、日本人であれば身体的に起こってくる自然な反応だからだ。
とするなら、この心理を形成したものは、我々が日常行っている当たり前の行為の中にこそあるはずである。繰り返される日常の行為を通して踏み固められ、身体に刻印された反応であればこそ、意思ではコントロールできないほど強い力を発揮する。ボールが顔に向かって飛んでくると咄嗟に避けようとするが、それと同じくらい咄嗟の自動化された反応なのだ。そうではないと、社会の現実を変えるために動こうとするときに沸き起こってくるこの諦念の強烈さは説明できない。
すべてがゲームのように進行する
刻印された諦念の心理と、社会的直接行動を否定する不行動の原則を前提にすると、どんな社会的な問題もショーと化してしまう。それはこんなふうに上演される。
まず、なんらかの政治スキャンダルや政治的な問題が明らかとなる。それは、政治家の不祥事、談合、癒着、公共組織の私物化などであったりする。
そして、マスメディアの追求で、問題の背後には原因となる同じ構造が発見される。それらは、省庁の省益拡大と天下り先の確保を意図した官僚の暗躍、政務を官僚に依存し官僚に支配される政治家のあり方、そして公共の利益そっちのけで党利党略に奔走する政治家の行動などである。
裏の事実が明らかになると、観客である国民の対応も決まっている。決まり切ったブーイングの嵐である。「いまの総理じゃだめだ」、「国民のことを考えるリーダーに変えるべきだ」、「官僚機構の改革こそ必要だ」、「政治利権を根絶しないとだめだ」、「党利党略の政治家は去れ」などである。どの野次も耳にタコができるほど聞いたものだ。どこの酒場でも聞ける。
そして、こうしたブーイングが国民の間から激しく起こるたびに、謝罪とともに当事者が処分される。その後は「政治改革」、「制度改革」などあらゆるタイプの改革がスローガンとして掲げられ、その実行を約束する政治家の決意の発言が相次ぐ。「私は身命にかけて実行して見せます!」、「改革はかならず実行します!」などと連呼する声が聞こえる。
さらに数カ月もすると、我々は同じ演目の上演に飽きてしまいブーイングの嵐も改革の連呼もピタッと収まる。すると、なにごともなかったように事態は進行し、だいぶ後になってから、結果的には状況は何も変わっていないことが明らかになる。そのときには新しい演目が上演され、観衆は同じブーイングを繰り返し、政治家も同じ決意を連呼しているというわけだ。
これは、はじめからすべての筋書きが決まった演劇だ。社会的な現実は、演劇のシナリオに合致するようにマスコミの手によって様式化され、それに対する人々の反応もパターン化される。
そして、いつものように出発点に戻り、政治家の首を付け替える。「真のリーダーはいつ現れるのか?」という変わり映えのしない声が空虚にこだましている。盛んになるのは「リーダーシップ論」だけである。
これが、社会的現実を変革する直接行動の断念を前提に、現実とかかわる我々の態度が生み出す状況なのだ。つまり、すべてが様式化した演劇のようなプロセスと化してしまうということだ。
この悪循環をすでに20年は繰り返している。この空虚な行為を我々はいつまで続けるのだろうか?
生み出され続ける無変化の日常という幻想
このプロセスでは危険な幻想が生み出される。結局、社会的現実の提示がショーと化す限り、次第に忘却が進みリアリティーが失われてしまう。この結果、現実的であるはずの日常を生活者として生きることが、社会的な現実から目を背け、危機感をマヒさせることになる。
これは、日常の現実に生きることが、実は凄まじい幻想の世界に生きることになるというパラドックスを生むのだ。このプロセスが生み出すものは、日常的な現実が無変化のまままったりと続いて行くという日常幻想の継続である。
日本に生きる我々の多くは、この日常幻想にいわばからみ取られたような状態にあると言ってもよい。放射能漏れなどのような、どんな社会的な危機が起ころうとも、テレビはいつものお笑い番組やグルメ番組を流し続け、街のショッピングセンターには家族連れが買い物し、場末の酒場ではいつものサラリーマンが仕事の愚痴を言っている。こうした無変化の日常に籠もると、外部で何が進行していても、すべてが幻影のように見えてしまう。
これが不行動の原則が生み出した日常幻想の姿だ。これにからみ取られると、社会的現実に対するリアルな現実感覚は喪失してしまうのだ。この喪失は、さらに不行動の原則を強化し、社会問題ショーの上演を通した同じ循環を繰り返す。これは大変に危険なことだ。
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