前にも載せたが「壺斎閑話」の哲学記事の中の「近代の超克」論である。論と言うより解説か。
その一部だけ再度載せる。
と言うのは、その超克の対象となっている「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」をすべて超克したら、そこにあるのはスターリン支配下のソ連と同一という全体主義国家であり、日本の右翼思想家たちがすべて憎悪する社会体制・政治体制でありながら、この「近代の超克」座談会メンバーこそ日本の右翼集団として戦後に批判されたからであるwww
まあ、簡単に言えば右翼と言うより時局に便乗した「御用思想家」たちの座談会と言うべきだろうが、個々に見れば立派な知識人たちが多く、誰でも時代の趨勢には逆らえないという、当たり前の事例になるわけだ。逆らえば下手をしたら右翼や軍人に殺されかねないのだから当然である。
要するに、右翼も左翼も似た性格であり、狂信化したら、双生児の喧嘩になるわけだ。
つまり、アリストテレスも古代中国の思想家たちも言った「中庸」こそが賢者の知恵だ、となる。
まあ、私としては「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」をまとめて否定したことが根本的な誤りだろう、と見ている。資本主義と自由主義の極点が「新自由主義の資本主義」であるわけだが、それは当然否定するとして、「デモクラシー」ははたして根本的に否定されるべきものか、非常に疑問であり、これはまさに時局便乗、あるいは右翼的軍部や右翼活動家への「媚び」だったと思う。
なお、「近代」とは具体的には「近代西洋」的な思想のことで、本当は「西洋の超克」と言うべきである。そしてそれは2025年の今こそ論じられるべき主題だろう。当時はたいていの人の頭になかったDSや「金融資本主義」という存在が重要な思考要素として多くの人に分かってきたからだ。
(以下引用)
その一部だけ再度載せる。
と言うのは、その超克の対象となっている「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」をすべて超克したら、そこにあるのはスターリン支配下のソ連と同一という全体主義国家であり、日本の右翼思想家たちがすべて憎悪する社会体制・政治体制でありながら、この「近代の超克」座談会メンバーこそ日本の右翼集団として戦後に批判されたからであるwww
まあ、簡単に言えば右翼と言うより時局に便乗した「御用思想家」たちの座談会と言うべきだろうが、個々に見れば立派な知識人たちが多く、誰でも時代の趨勢には逆らえないという、当たり前の事例になるわけだ。逆らえば下手をしたら右翼や軍人に殺されかねないのだから当然である。
要するに、右翼も左翼も似た性格であり、狂信化したら、双生児の喧嘩になるわけだ。
つまり、アリストテレスも古代中国の思想家たちも言った「中庸」こそが賢者の知恵だ、となる。
まあ、私としては「デモクラシー」「資本主義」「自由主義」をまとめて否定したことが根本的な誤りだろう、と見ている。資本主義と自由主義の極点が「新自由主義の資本主義」であるわけだが、それは当然否定するとして、「デモクラシー」ははたして根本的に否定されるべきものか、非常に疑問であり、これはまさに時局便乗、あるいは右翼的軍部や右翼活動家への「媚び」だったと思う。
なお、「近代」とは具体的には「近代西洋」的な思想のことで、本当は「西洋の超克」と言うべきである。そしてそれは2025年の今こそ論じられるべき主題だろう。当時はたいていの人の頭になかったDSや「金融資本主義」という存在が重要な思考要素として多くの人に分かってきたからだ。
(以下引用)
廣松渉「<近代の超克>論」 |
廣松渉がこの本で取り上げた<近代の超克>というのは、雑誌「文学界」の昭和17年10月号に掲載された伝説的に有名な座談会のテーマとなったものだが、その座談会というのが、日本思想史の上で重要な意義をもったというのが大方の評価になっている。評価といっても積極的なつまりプラス方向の評価と、消極的なマイナス方向の評価があるわけだが、この座談会はどちらかと言えば、マイナスの評価の方が強い。というのも、時節柄やむを得ない面があったにしても、日本の対外侵略や国内の全体主義を合理化しているという点で、上からのファシズムに下から呼応した民間のファシズムのひとつの現れだという評価が強いのである。 この座談会は「文学界」の同人が呼びかけたもので、出席者は、司会役の河上徹太郎が「これだけの人数の一流の人たち」と呼んだ次の13人である。西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊地正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎。今の日本人にはなじみの薄い名前が多いと思うが、おおまかに区分けすると、文学界を拠点とする保守的な文人たち、亀井勝一郎が代表する日本浪漫派、それに京都学派と呼ばれる学者たちからなる。これを廣松は「反近代統一戦線」と呼んで、彼らが日本のファシズム運動に果たした歴史的な意義について言及しているわけである。 (中略) それらをもとに京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。 |
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