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徽宗皇帝のブログ

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ユダヤ対ロシアの闘争史(1)
「金持ちは国家を相手に金を貸す」所載の記事だが、かなり長いので5回に分けて転載する。おそらく、世界史専門の学者も、この程度の知識も持っていないだろう。現在のウクライナ戦争には根本にこのユダヤ対ロシアの闘争史があるのではないか。たとえばジョージ・ソロスなどがウクライナの政治にかなり口出ししている(対ロシア強硬姿勢を取れと「命令」している)ことは知られている。

(以下引用)
2022-04-24

ロシアとユダヤ、1000年闘争2 ~ロシア革命以降、中枢の支配を巡る闘争~

ロシアとユダヤ、1000年闘争・・・の続きです。


アシュケナージ・ユダヤの根拠地としてユダヤ拡散の起点となったウクライナ。
彼らは、拡散後アメリカやヨーロッパの市場を牛耳りつつ、喉元のロシア中枢の支配を狙う。
フランス革命後、マスコミ→大衆扇動によって国家転覆の手法を編み出したユダヤは、同様の手法でロシア革命を実現。
ロマノフ王朝を廃絶させ、ロシア中枢を支配する。
この激烈な闘争を元ソ連外交官が日本で生々しく語った重要な記録。
プーチンの登場と対ウクライナ闘争は、この歴史なくして語ることはできない。


※日本における支配層を形成する朝鮮人と位相が近いのかもしれない。比較することで、ロシア人、ユダヤ、朝鮮人、日本人の特質も浮かび上がってきそうだ。この辺りは改めて書いてみたい。

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以下 ヘブライの館 元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌 からの引用です。


旧ソ連時代、駐日ソ連大使館に勤務する外交官だったアレキサンドル・イワノフ氏は、1993年夏に日本を訪問しました。そして全国各地で講演を行い、これまでのロシアでは何が起きていたのか、今のロシアで何が起きているのか、そもそもロシアの「ユダヤ問題」とは何であるかについて、熱を込めて語りました。


イワノフ氏はモスクワ大学を卒業し東京大学大学院を修了した、日本事情にも詳しいロシア人外交専門家です。彼の講演には、私たち日本人がおよそ耳にすることのなかった驚くべき内容が数多く含まれていました。彼は私たち日本人に、知られざるハザール系ユダヤ人とロシア人の戦いの歴史を余すことなく語ってくれたのであります。


以下は、彼が行った講演内容の一部をまとめたものです。


(中略)・・・・


ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。それは、ロシアにとってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからである。ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複雑さがある。


その当時、ロシアに入ったハザール系ユダヤ人は300万人ぐらいであった。そのほとんどがロシアの西側、すなわちウクライナ、西白ロシア、あるいは旧ポーランド領に住んでいた者たちである。


それでも、ユダヤ問題は18世紀には、まだそれほど大きな問題ではなかった。19世紀の終わり頃から、ロシアのユダヤ人たちは熱心に革命運動に参加するようになった。革命運動を指導していた政党、社会民主党や社会革命党などのリーダーおよび活動家たちは、ほとんどすべてがハザール系ユダヤ人であった。



古来からロシア人は戦闘的、革命的な要素をもたない民族であった。一方、ユダヤ教徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化であった。したがって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。


ユダヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史と古い歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷となっていた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡などを持ち出してくる。


ユダヤ人は過去の歴史の中に生きているといってもよいだろう。だからこそ、ユダヤ教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させたことをよく覚えている。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐の思いがある。ロシアで革命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール人にとって最も重要な課題であった。



当時のロシアの知識人の中には、すでにそうしたユダヤ教徒ハザール人の動きをキャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、ドストエフスキーの著作を読むと、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人はロシアの中に入った毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ずユダヤ革命が起きる」と断言していた。


しかしロシア政府は、そうした動きをまったく感知していなかった。そして、ほとんどのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずにユダヤ人と一緒になって革命を準備したのだった。


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■■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった



■日露戦争を画策したハザール系ユダヤの狙い


1904年、日露戦争が勃発した。日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際のところである。日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかもしれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけるユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。


日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。


アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。


 



アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ


※ ロシアのユダヤ人革命家たちに多額の援助を与えた


こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。


このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。



ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を
進めたピョートル・ストルイピン首相


しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相はユダヤ人に暗殺されてしまった。


ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前でピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。



ドミトリー・ボグロフ


※ ストルイピン首相を暗殺したユダヤ人で、
事件後、軍事法廷にかけられて絞首刑に処せられた


ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。


その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシアの経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。



■ユダヤ人が担ったロシア10月革命


ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。1917年11月7日(ロシア歴では10月25日)の「10月革命」である。


この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまでもなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを支援していた。



南ウクライナ生まれのユダヤ人
レオン・トロツキー(本名ブロンシュタイン)


※ 10代の頃より革命運動に従事し、最初の逮捕と亡命後、
第一次ロシア革命で指導的役割を果たす。後にレーニンの右腕となり、
レーニン率いる暴力革命派(ボルシェヴィキ)と共闘、「赤軍」の創設者および
指揮官として活躍する。1924年にレーニンが死去すると、スターリンが
台頭しトロツキーと対立。政治力に長けたスターリンが勝利すると、
トロツキーは追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。


そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ドイツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほとんどがユダヤ人だった。


10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が実行した革命であった。


ボルシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンは
1917年11月7日に新政府の樹立に成功した
それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推し進めることができたのだろうか。ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身がその事実を述べている。


10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしなかった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったのである。

レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。ソ連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。そして、政府のトップ・クラスの人々はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったのである。


レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのである。ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占めていた。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかった。


  


初代ソ連最高指導者ウラジーミル・レーニン


■ユダヤ人の間の激烈な闘争 ─ 欧米からやって来た革命家 vs ロシアにいたシオニスト


その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、革命家たちはユダヤ教を信奉しない。


もう1つはシオニズムである。シオニズムとは、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオニストという。



 


白ロシア・ミンスクの前線でのシオニスト兵の会議(1918年)


10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのである。やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。


1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人たちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったのである。革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者を批判し共産主義者と闘うようになった。


レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまった。革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうして第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであった。



↑1920年2月8日付のロンドンの『イラストレイテッド・サンデー・ヘラルド』紙に
掲載された「シオニズム 対 ボルシェヴィズム:ユダヤ人の魂のための闘争」という社説


驚くべきことにこの記事を書いたのは、かの有名なチャーチル(後のイギリス首相)である。
古くからユダヤ人の知り合いを多く持ち、親ユダヤ主義者であったチャーチル(シオニズム運動に
感銘を受けてイギリス政界で真っ先にシオニズム支持者になった政治家である)は、この記事の中で
ロシア革命におけるユダヤ人の役割について言及し、「共産主義は文明の転覆のための世界的な
革命的陰謀であり、この陰謀は無神論的国際ユダヤ人によって導かれた」と書いている。



イギリスのウィンストン・チャーチル首相





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