「日本の良心」藤永茂博士のブログから転載。
藤永茂博士の文章は、「文は人なり」という言葉どおり、その誠実な人柄をそのまま表している。嘘ではこういう文章は書けない。こうした人が日本にいるというだけでも、日本は捨てたものではない。
その藤永博士ほどアフリカの真の姿を知り、その事実を日本国民に伝えるために努力してきた人を私は他に知らないが、残念ながら藤永博士の一般的知名度はあまり高くはない。もともと理系の学者だから、その人がこうした社会的発言をしても素人の発言扱いされてきたのかもしれない。もう一つの理由は、これはファンとしての気安さから言うのだが、その文章があまりに生真面目なせいかもしれない。まあ、私のように無知無学をむしろ素人の特権として直観的発言ばかりしているのも何だが、学者的誠実さのために「面白さ」が犠牲になっていることは否めない。博士のファンである私にしても、博士の書いた記事のすべては読んではいないのだ。しかし、そういう誠実さがあるからこそ、博士の書いた記事の内容は信頼できる。
下記のリビアについての記事も、おそらく世間のほとんどの人の知らないアフリカの姿だろう。私自身、これまで藤永博士のブログで学んできたくらいだ。
ともあれ、リビアは死んだ。リビア国民にはこれから地獄の日々が始まることを私は予言しておく。これは無知の罪に対する罰であり、日本国民にとっても対岸の火事ではない。
ついでに今回のリビア戦争について、無知のためか、意図的に欧米プロパガンダに乗っているのかは知らないが、愚劣きわまる論評をしている例をその下に挙げておく。私もよく自分が知りもしないことについて論じるが、無名だから影響力は少ない。大学の先生というものは世間的な権威があるだけに、そういう人間が書いたこういう文章は世間に害毒を流すものだ。リビアと北朝鮮を同一視し、指導者が独裁者であることだけで(本当は独裁者ですらないが)その国を内部から破壊し、無数の人命を失わせたことを正当化している。誰の文章かは書かないが、文体から分かる人もいるだろう。
(以下引用)
2011/08/24
リビア挽歌(1)
桜井元さんから、前回のブログ『中東/アフリカの女性たちを救う?(2)』に、長く重い内容のコメントを戴きました。それにお答えする気持で以下の記事を書きます。まず、桜井さんのコメントをお読みになって下さい。
いま、「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」(日本外務省による呼称)、英語では The Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya という一つの国が、私たちの目の前から、姿を消そうと、いや、抹殺されようとしています。「ジャマーヒリーヤ」はカダフィが作った合成語で「大衆による国」といった意味だそうです。私たちがこの国について殆ど何も知らないままに、歴史の一頁がめくられようとしています。しかし、この地域の人たちが、今からアメリカと西欧の傀儡政権の下で味わう事になるに違いないと思われる悪性の変化を予測するに充分な基本的事実の幾つかが明らかになっています。石油産業、治水事業、通信事業などが国営で、原則として私企業にコントロールを許さなかったことが最も重要な事実でしょう。つまり、WB(世界銀行)もIMF (国際通貨基金)も好き勝手に切り込めなかった国であったことが、米欧の軍事介入による政権打倒が強行された理由です。社会的インフラ整備、教育、医療,生活保障などに注がれていた国家収入は、外国企業と米欧の操り人形であるリビア支配階級の懐に流れて、一般市民のための福祉的出費は大幅に削減されるのは、避けられますまい。カダフィの息子たちに限らず、これまでのジャマーヒリーヤ風の政策を続行しようとする政治家は、オバマ大統領が早くも約束している“民主的選挙”の立候補者リストから、あらゆる手段で排除しなければなりません。前回のブログで指摘したように、ハイチやルワンダがその典型的な例を提供しています。暗殺も極めて有力な手段の一つです。
反カダフィ軍のトリポリ制覇のニュースに接して、私の想いは、過去に逍遙します。チトーのユーゴースラヴィア、サンカラのブルキナ・ファッソ、ルムンバのコンゴ、・・・・・、その土地の人々がせっかく何とかまとまって平和に生きようとした試みを米欧の悪の力は一つ一つと地表から消し去って来ました。現在に戻って、ムガベのジンバブエ、イサイアスのエリトリア、・・・、こうして考えを巡らして行くと、カストロのキューバがどんなに奇跡的な歴史の例外であるか、あったかが、痛切に胸を打ちます。
テレビのスクリーンで、「カダフィは倒れた。自由を取り戻した」と、新品らしい自動小銃を天に向かって発砲しながら叫び躍る若者たちにとって本当に大切な自由とは何でしょうか。空腹からの自由、失業からの自由、医療費の心配からの自由、教育費からの自由、・・・、これらを失って、いわゆる言論の自由という何の腹の足しにもならないものを手にいれることで彼らは新政権下の“民主主義的自由”を謳歌しつづけることが出来るでしょうか。考えてみると、ここに数え上げた四つの基本的自由はアメリカ本国の数千万の下層階級の人々には与えられていません。自国の民草にも与えない自由をアメリカが、“人道主義的立場”から、自腹を切ってリビア国民に与えるだろうと信じる人は世界に一人もいないでしょう。最近の米国内の状況を見ていると、パトリオット条令の下で、言論の自由も消えつつあると思われます。
この「リビアの春」は本当の春ではありません。北アフリカの青年たちはもう一度立ち上がらなければなりません。そう言えば、トリポリで火器を乱射しながら自由獲得を謳歌している人たちの中に、アフリカ黒人らしい黒い肌の人たちがほとんど見当たらないのも気になります。
藤永 茂 (2011年8月24日)
(引用終わり)
(以下、第二の引用。これは批判対象としての引用である。上の藤永博士の文章とはリビアについての知識の量も質も、人間性の品格の違いも明らかだろう。この筆者の考えではリビア戦争は「正義の戦争」であり、失われた人命の量が少ないからこの戦争は成功だったんだそうだ。)
2011年08月24日
◆ リビアと戦争の原理
リビアの内戦は、独裁者の追放という形で集結した。このような形の「戦争」をどう評価するか?
──
一般に、「すべての戦争は悪である」という発想がある。
しかし、今回の戦争は、「独裁者の追放」という形で集結した。それによる被害は、
・ 政府軍側は、傭兵が多くて、かなりの死者数
・ 反政府軍側は、地方部族の国民が多くて、死者数は少数
という形となり、国民の側の被害は少なかった。
それでいて、「独裁者の追放」という利益は大きかった。全国民が独裁者の圧政から解放されたことは、とても喜ばしいことだと言える。(そう思わない人は、独裁者のいる北朝鮮で暮らせばいいだろう。)
つまり、「すべての戦争は悪である」という発想は、今回においては成立しなかった。リビア解放の戦争は、正義の戦争だった。被害も最小で済んだと言えるだろう。
──
このような戦争について、私は以前、どう評価したか? 初期の時点で、次のように評価した。
→ リビア情勢とカオス理論
ここにすべては書いてある。それを読んでほしい。
簡単にまとめるなら、次の原理だ。
「流れを右から左へ変えるような戦争は、多大なコストがかかるので好ましくないが、流れが右か左か迷っているような分水嶺となる戦争は、小さなコストによって(右か左かという)大きな違いをもたらす。ゆえに、そのような戦争では、介入することによって、好ましい結果に導く方がいい」
この原理によって、次のように説明した。
「リビアの状況は、二つの状況のあいだで揺らいでいる。体制側の勝利で安定するか、反体制側の勝利で安定するか。そのどちらの状況になるとも決まらずにいる。ここでは、外部の力によって、一方の側に安定させることが可能だ。国際社会の要望が、カダフィ追放による民主主義政権の樹立であれば、その方向に進むように力を入れると、容易にその方向に進めることができる。(今のようなどっちつかずの状況であれば。)」
「しかしながら、いったん状況が安定したあとでは、それを反対方向に動かすことは、非常に困難である。たとえば、カダフィ側が勝利したら、それをひっくり返すことは非常に困難である」
そのあとで、次のことを提言した。
「国連主導のもとで(あるいは米国中心の主要国の連合で)、リビアに介入する。カダフィ側の傭兵を壊滅させる」
具体的には、降伏を呼びかけたあとで、次々と空爆して、傭兵を壊滅させればいい。
そして現実には、そうなった。つまり、NATO 軍の介入のもとで、空爆により、カダフィ側の軍を壊滅させた。
私の提言通りと言える。ただ一つ、違いがあるとすれば、NATO 軍の主力が米軍でなくフランス軍であったことだ。しかしまあ、そのくらいの違いは、どうでもいいだろう。
私としては、フランスの決断を高く評価したい。サルコジ大統領というのは、ろくでもない大統領なのだが、リビア内戦への介入については、きちんと正解を出したことになる。おかげでリビアの国民は救われた。
________________________________________
[ 余談 ]
私のことを「戦争好きの軍事マニアめ!」と思っている人もいるだろうし、私のことを「軍事のことも知らないで平和を好む軟弱な素人め!」と思っている人もいるだろう。
しかし私は、どちらでもない。合理主義だ。(人的な)コストがとても小さくて大きな戦果が得られるならば、戦争をした方がいい。(人的な)コストがとてもかかるならば、戦争をしない方がいい。物事を一律には考えない。その点では、軍事マニアの右翼とは違うし、降参することしか知らない左翼とも違う。
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藤永茂博士の文章は、「文は人なり」という言葉どおり、その誠実な人柄をそのまま表している。嘘ではこういう文章は書けない。こうした人が日本にいるというだけでも、日本は捨てたものではない。
その藤永博士ほどアフリカの真の姿を知り、その事実を日本国民に伝えるために努力してきた人を私は他に知らないが、残念ながら藤永博士の一般的知名度はあまり高くはない。もともと理系の学者だから、その人がこうした社会的発言をしても素人の発言扱いされてきたのかもしれない。もう一つの理由は、これはファンとしての気安さから言うのだが、その文章があまりに生真面目なせいかもしれない。まあ、私のように無知無学をむしろ素人の特権として直観的発言ばかりしているのも何だが、学者的誠実さのために「面白さ」が犠牲になっていることは否めない。博士のファンである私にしても、博士の書いた記事のすべては読んではいないのだ。しかし、そういう誠実さがあるからこそ、博士の書いた記事の内容は信頼できる。
下記のリビアについての記事も、おそらく世間のほとんどの人の知らないアフリカの姿だろう。私自身、これまで藤永博士のブログで学んできたくらいだ。
ともあれ、リビアは死んだ。リビア国民にはこれから地獄の日々が始まることを私は予言しておく。これは無知の罪に対する罰であり、日本国民にとっても対岸の火事ではない。
ついでに今回のリビア戦争について、無知のためか、意図的に欧米プロパガンダに乗っているのかは知らないが、愚劣きわまる論評をしている例をその下に挙げておく。私もよく自分が知りもしないことについて論じるが、無名だから影響力は少ない。大学の先生というものは世間的な権威があるだけに、そういう人間が書いたこういう文章は世間に害毒を流すものだ。リビアと北朝鮮を同一視し、指導者が独裁者であることだけで(本当は独裁者ですらないが)その国を内部から破壊し、無数の人命を失わせたことを正当化している。誰の文章かは書かないが、文体から分かる人もいるだろう。
(以下引用)
2011/08/24
リビア挽歌(1)
桜井元さんから、前回のブログ『中東/アフリカの女性たちを救う?(2)』に、長く重い内容のコメントを戴きました。それにお答えする気持で以下の記事を書きます。まず、桜井さんのコメントをお読みになって下さい。
いま、「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」(日本外務省による呼称)、英語では The Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya という一つの国が、私たちの目の前から、姿を消そうと、いや、抹殺されようとしています。「ジャマーヒリーヤ」はカダフィが作った合成語で「大衆による国」といった意味だそうです。私たちがこの国について殆ど何も知らないままに、歴史の一頁がめくられようとしています。しかし、この地域の人たちが、今からアメリカと西欧の傀儡政権の下で味わう事になるに違いないと思われる悪性の変化を予測するに充分な基本的事実の幾つかが明らかになっています。石油産業、治水事業、通信事業などが国営で、原則として私企業にコントロールを許さなかったことが最も重要な事実でしょう。つまり、WB(世界銀行)もIMF (国際通貨基金)も好き勝手に切り込めなかった国であったことが、米欧の軍事介入による政権打倒が強行された理由です。社会的インフラ整備、教育、医療,生活保障などに注がれていた国家収入は、外国企業と米欧の操り人形であるリビア支配階級の懐に流れて、一般市民のための福祉的出費は大幅に削減されるのは、避けられますまい。カダフィの息子たちに限らず、これまでのジャマーヒリーヤ風の政策を続行しようとする政治家は、オバマ大統領が早くも約束している“民主的選挙”の立候補者リストから、あらゆる手段で排除しなければなりません。前回のブログで指摘したように、ハイチやルワンダがその典型的な例を提供しています。暗殺も極めて有力な手段の一つです。
反カダフィ軍のトリポリ制覇のニュースに接して、私の想いは、過去に逍遙します。チトーのユーゴースラヴィア、サンカラのブルキナ・ファッソ、ルムンバのコンゴ、・・・・・、その土地の人々がせっかく何とかまとまって平和に生きようとした試みを米欧の悪の力は一つ一つと地表から消し去って来ました。現在に戻って、ムガベのジンバブエ、イサイアスのエリトリア、・・・、こうして考えを巡らして行くと、カストロのキューバがどんなに奇跡的な歴史の例外であるか、あったかが、痛切に胸を打ちます。
テレビのスクリーンで、「カダフィは倒れた。自由を取り戻した」と、新品らしい自動小銃を天に向かって発砲しながら叫び躍る若者たちにとって本当に大切な自由とは何でしょうか。空腹からの自由、失業からの自由、医療費の心配からの自由、教育費からの自由、・・・、これらを失って、いわゆる言論の自由という何の腹の足しにもならないものを手にいれることで彼らは新政権下の“民主主義的自由”を謳歌しつづけることが出来るでしょうか。考えてみると、ここに数え上げた四つの基本的自由はアメリカ本国の数千万の下層階級の人々には与えられていません。自国の民草にも与えない自由をアメリカが、“人道主義的立場”から、自腹を切ってリビア国民に与えるだろうと信じる人は世界に一人もいないでしょう。最近の米国内の状況を見ていると、パトリオット条令の下で、言論の自由も消えつつあると思われます。
この「リビアの春」は本当の春ではありません。北アフリカの青年たちはもう一度立ち上がらなければなりません。そう言えば、トリポリで火器を乱射しながら自由獲得を謳歌している人たちの中に、アフリカ黒人らしい黒い肌の人たちがほとんど見当たらないのも気になります。
藤永 茂 (2011年8月24日)
(引用終わり)
(以下、第二の引用。これは批判対象としての引用である。上の藤永博士の文章とはリビアについての知識の量も質も、人間性の品格の違いも明らかだろう。この筆者の考えではリビア戦争は「正義の戦争」であり、失われた人命の量が少ないからこの戦争は成功だったんだそうだ。)
2011年08月24日
◆ リビアと戦争の原理
リビアの内戦は、独裁者の追放という形で集結した。このような形の「戦争」をどう評価するか?
──
一般に、「すべての戦争は悪である」という発想がある。
しかし、今回の戦争は、「独裁者の追放」という形で集結した。それによる被害は、
・ 政府軍側は、傭兵が多くて、かなりの死者数
・ 反政府軍側は、地方部族の国民が多くて、死者数は少数
という形となり、国民の側の被害は少なかった。
それでいて、「独裁者の追放」という利益は大きかった。全国民が独裁者の圧政から解放されたことは、とても喜ばしいことだと言える。(そう思わない人は、独裁者のいる北朝鮮で暮らせばいいだろう。)
つまり、「すべての戦争は悪である」という発想は、今回においては成立しなかった。リビア解放の戦争は、正義の戦争だった。被害も最小で済んだと言えるだろう。
──
このような戦争について、私は以前、どう評価したか? 初期の時点で、次のように評価した。
→ リビア情勢とカオス理論
ここにすべては書いてある。それを読んでほしい。
簡単にまとめるなら、次の原理だ。
「流れを右から左へ変えるような戦争は、多大なコストがかかるので好ましくないが、流れが右か左か迷っているような分水嶺となる戦争は、小さなコストによって(右か左かという)大きな違いをもたらす。ゆえに、そのような戦争では、介入することによって、好ましい結果に導く方がいい」
この原理によって、次のように説明した。
「リビアの状況は、二つの状況のあいだで揺らいでいる。体制側の勝利で安定するか、反体制側の勝利で安定するか。そのどちらの状況になるとも決まらずにいる。ここでは、外部の力によって、一方の側に安定させることが可能だ。国際社会の要望が、カダフィ追放による民主主義政権の樹立であれば、その方向に進むように力を入れると、容易にその方向に進めることができる。(今のようなどっちつかずの状況であれば。)」
「しかしながら、いったん状況が安定したあとでは、それを反対方向に動かすことは、非常に困難である。たとえば、カダフィ側が勝利したら、それをひっくり返すことは非常に困難である」
そのあとで、次のことを提言した。
「国連主導のもとで(あるいは米国中心の主要国の連合で)、リビアに介入する。カダフィ側の傭兵を壊滅させる」
具体的には、降伏を呼びかけたあとで、次々と空爆して、傭兵を壊滅させればいい。
そして現実には、そうなった。つまり、NATO 軍の介入のもとで、空爆により、カダフィ側の軍を壊滅させた。
私の提言通りと言える。ただ一つ、違いがあるとすれば、NATO 軍の主力が米軍でなくフランス軍であったことだ。しかしまあ、そのくらいの違いは、どうでもいいだろう。
私としては、フランスの決断を高く評価したい。サルコジ大統領というのは、ろくでもない大統領なのだが、リビア内戦への介入については、きちんと正解を出したことになる。おかげでリビアの国民は救われた。
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[ 余談 ]
私のことを「戦争好きの軍事マニアめ!」と思っている人もいるだろうし、私のことを「軍事のことも知らないで平和を好む軟弱な素人め!」と思っている人もいるだろう。
しかし私は、どちらでもない。合理主義だ。(人的な)コストがとても小さくて大きな戦果が得られるならば、戦争をした方がいい。(人的な)コストがとてもかかるならば、戦争をしない方がいい。物事を一律には考えない。その点では、軍事マニアの右翼とは違うし、降参することしか知らない左翼とも違う。
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