忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

利よりも義を優先する社会を
「晴耕雨読」記事の一部を転載。
日本の文化人・知識人という連中の底の浅さは前々から感じてはいたが、原発事故によって、その道徳的レベルも明らかになったようだ。もっとも、それは我々庶民だって同様であり、「少し嘘をつき、少し演技をするだけで大金が貰える」となれば、誰だって同じようなことをするだろう。その嘘や演技の能力のある人間を「タレント」と言うのであり、日本の文化人や知識人はタレントの一種と考えるべきである。
映画「第三の男」の中で、ハリー・ライムが、大観覧車に乗って上空から下にいる人々を見下ろし、「あそこに見える点(人間)の一つを消すだけで大金が手に入るなら、それをしない奴はいないだろう。しかも、それは税金抜きの金なんだぜ」とか言うのだが、東電や原子力村の住人にとって、原発立地圏の住人は「人間」ではなく、抽象的な「点」でしかなかったと思う。
そして、その場に置かれたら、誰もが同じような行動をする、と私は思う。
それで彼らの行為を免罪するのではない。
人間は誘惑に弱い存在であり、道徳的に脆弱だ、という事実をもっと認識し、社会悪から一般庶民を守るシステムを構築していかなければならない、ということだ。それは当然、現行の司法・警察システムではない。その司法・警察システムの下で東電や原子力村は悪事をほしいままにしてきたのだから。
広瀬隆が前々から原発に反対し、孤独な戦いを続けてきたことは英雄的行為である、と称賛したい。だが、その意見や行動が大きな広がりを生まなかったのは、結局、一般人は利益誘導によってしか動かない、という厳然たる政治的リアリズムが存在するからだと思う。そのリアリズムを基にしつつ、なおかつ道義的な社会を作ることをこれから衆知を集めて考えていく必要があるのではないだろうか。
なお、今回の記事タイトルを少し補足するが、「義は利の和」という言葉もあり、必ずしも義のために利を捨てる必要は無い。問題は、全体にとっての利か、一部の人にとっての利か、という弁別なのである。






(以下引用)





「福島事故は、日本の文化人・知識人と呼ばれ、もてはやされてきた人間たちの仮面をはぎ取った。日本のインテリジェンスそのものが断末魔の状態にあることを実証した」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「立花隆は週刊文春で原発推進を語った。『小型で絶対安全な原発を造り「各家庭に一台ずつホーム原発」が理想だという人たちがいました…「絶対安全」の評価を得て、実用化も近いといわれています』。これが知の巨人だって?これを愚の骨頂というのではないか」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「寺島実郎は『アジア諸国と平和目的の原子力技術を共有して関係を築いていくべきだ』と講演。2003年週間サピオでは『中東依存脱却のため「原発技術立国」を目指せ』と寄稿。サンモニでは『福島事故では誰も死んでいない』と放言。小学生以下の頭しかない」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「草野仁は、東京電力の広告塔を勤めてきた点で、とくに悪質。原発事故があっても何も感じない不感症なのか、事故後も度々広告欄に堂々と登場してきた。これこそ『世界ふしぎ発見!』だ」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「安全神話の最大のホラ吹き役と嘲笑されているのが脳科学者を自称する二人。東電の『ECO』対談に登場した茂木健一郎と養老孟司。養老は事故後のテレビで『原発は推進派と反対派がいるから分らない』と八つ当たり。自分の『バカの壁』の科学的分析をすべき」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「福島事故で日本にはまともな文化人が驚くほど少数しか存在しない事が分った。これほどの被曝が全国に進行しながら自分の意見を発言しない人間たちこそ問題。多くの知識人は反対か推進か問われるが、最も腹立たしいのは『狸寝入り』を決め込んでいる人間たち」(『第二のフクシマ、日本滅亡』広瀬隆)

「放射能を安全というのなら、プルトニウムを飲めるかどうか尋ねてみよう。原子炉が大事故を起こさないというのなら、大都会に原子炉を建設させよう。廃棄物の安全な処理方法があるというのなら、自宅に埋めさせよう。被曝事故がなかったというのなら、遺族の前で説明させよう」(『危険な話』広瀬隆)







拍手

PR

コメント

コメントを書く