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徽宗皇帝のブログ

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北方領土問題解決を邪魔する奴ら
「JBプレス」から転載。
北方領土問題は、米国やその手下の日本政府高官たちからすれば「解決しては困る問題」なのである。まあ、たいていの人はそれが分かっているだろうが、中には「ロシアが絶対に返さないと言っているから問題が解決しないのだ」と思っている人もいるだろう。
何度も書いているが、人もろくに住めないような島である。ロシアは全然、それに固執してなどいない。まあ、日本からすれば、領海面積の増減の問題や、それに伴う漁業権問題もあるから、できれば4島返還がいいのだが、ロシアの国民感情もあるから、プーチンが言うように2島返還で「引き分け」というのがもっとも賢い解決案であるのは明らかだ。
だが、その提案を断っているのは日本政府なのである。
つまり、「北方領土問題は解決したくない」と言っているのは日本側なのだ。なぜ解決したくないか。これを機に、日本とロシアが友好関係に入っていくのが嫌なのである。
こんなことは、第二次大戦後の冷戦の経緯を少し知っていて、物を見る目がある人間ならば誰にでも分かることだが、マスコミと学校教育に洗脳された馬鹿はロシア=不倶戴天の敵と思いこんでいるわけである。
私の周囲にも、そういう、中学生並みの世界認識の大人は無数にいた。ネット時代の今なら、まともな世界認識の人間が増えそうなものだが、残念ながらそういう連中は新聞とテレビを主な情報源とし、ネットなどに触れても、芸能記事とスポーツ記事とエロサイトと(政治に多少興味を持っても)右翼ブログくらいしか見ないのである。まあ、それが大多数の「大人」である。えらそうな事をよく口にする奴が多いが、そういう人間ほど頭の中身はだいたいが小学生以下だ。

しかし、「JBプレス」はビジネス関連記事が中心のサイトであり、それだけに理念やイデオロギーよりも現実的利益が関心の対象である。ならば、そのサイトが下記のような記事を載せたということは、案外と世界政治の潮流に変化が生じているのかもしれない。


(以下引用)

鈴木宗男氏(新党大地代表)によると、エリツィン大統領の側近で国務長官や第一副首相を務めていたゲンナジー・ブルブリス氏が93年の8月から9月にかけて訪日し、当時、自由民主党の衆議院議員だった鈴木氏と食事をした際、次のような発言をしたという。

「日本人が『北方4島を過疎の土地だからいらない』といっても、ロシアは日本に島を返さなければなりません。北方4島はスターリン主義のもとで、日本から盗んだ領土です。共産主義から絶縁し、『スターリン主義の残滓』と決別しようとしているロシアにとって、北方4島を日本に返すことがロシアの国益に適っている。なぜなら、北方4島を日本に返還することによって、対外的にロシアが正義を回復したと国際社会から認知されるからだ。たとえ日本人がいらないといっても、返さなければならないというのがロシア人としての正しい歴史観です」(鈴木宗男、佐藤優共著『北方領土「特命交渉」』講談社)。

実に明快である。ソ連時代には、領土問題は基本的に一歩も動かなかった。なすすべがなかった。しかし冷戦終結、ソ連邦崩壊によって、北方領土問題がようやく動き出したのである。
 「スターリン主義の残滓」からの決別は、日ロ双方の共通項になったからである。スターリン主義の災厄、共産主義国家の災厄を蒙(こうむ)ったのは、日本だけではない。旧ソ連邦の人々も同様だったからである。
冷戦体制下で日本は資本主義陣営の橋頭保とされた
 社会主義国家のソ連という存在および東西冷戦体制が、北方領土問題を解決するうえで最大の障害となってきたことは、日ソの国交回復を実現した「日ソ共同宣言」(1956年)当時から明瞭だった。
(中略)

1956年10月、鳩山一郎首相がソ連を訪れ、「日ソ共同宣言」が作られ国交が回復する。そして歯舞諸島、色丹島が平和条約締結後に日本に引き渡されることに合意する。しかし、日本側は国後島、択捉島の返還も要求し、4島が返還されなければ平和条約を締結しないという立場であったので、交渉は暗礁に乗り上げてしまうことになる。
 実は、この交渉の中で日本側は、歯舞、色丹の2島返還がソ連の最終条件だと分かってきたため、これで決着しようという考えもあった。
 なぜならサンフランシスコ条約2条C項で、「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とうたっていたからである。
 この交渉のある段階までは、「国後、択捉の2島は、サンフランシスコ条約2条C項で日本が放棄した千島列島に含まれる」というのが、日本政府自身の解釈でもあった。
 ところが、日ソ間で平和条約が締結され、日ソ間に友好関係が生まれると戦略上大きな狂いが生じるのが、冷戦体制下でソ連、中国と厳しく対峙するアメリカであった。
 日ソ交渉が中断している最中の1956年8月、ダレス米国務長官は日本の重光葵外務大臣と会談し、日本が2島返還で決着させるなら沖縄は永久に返還しないと言い渡したと言われている。いわゆる“ダレスの恫喝”である。
そこで日本政府は、新解釈を打ち出すことになる。それが「国後、択捉の南千島はサンフランシスコ条約2条C項で放棄した千島列島には含まれない」というものだった。おそらくダレスの側が持ち込んだ理論建てだろうと言われている。
 これ以前に、1955年保守合同によってつくられた自民党も「4島返還」論の立場を明確にしていた。ここにもおそらくアメリカの意向が反映していたと思われる。1955年11月の自民党立党宣言には、「革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する」とうたい、東西冷戦の中でアメリカの側に立ち、ソ連、中国などの社会主義陣営と対決することを党是としていた。
 他方、ソ連側も1960年の日米安保条約改定に対し、この新安保条約は「ソ連邦と中華人民共和国に向けられたものであることを考慮し、これらの諸島(歯舞、色丹)を日本に引き渡すことによって、外国軍隊によって使用せられる領土が拡大せられるがごときを促進することはできない。よってソ連政府は、日本領土からの全外国軍隊の撤退及びソ日間平和条約の調印を条件としてのみ、歯舞及び色丹が1956年10月19日付ソ日共同宣言によって規定されたとおり、日本に引き渡されるだろうということを声明する」(1960年1月27日、ソ連政府の対日覚書)として、日米安保条約が廃棄されない限り、歯舞、色丹も返さないという態度を取ることになる。
 さらにこれ以降も東西対決が厳しくなる中で、ソ連は「領土問題は解決済み」という立場を主張し、領土返還交渉の入り口にも立てない状態が冷戦終結まで続いたのである。
北方領土問題を解決させたくなかったアメリカ
 アメリカが国後、択捉の2島を日本が返還要求の旗印から降ろさないことを要求したのは、ソ連が絶対に呑まないことが分かっていたからだ。逆にソ連側も歯舞、色丹の引き渡し(本来は返還とすべき)を打ち出したのは、日米の友好関係にひびを入れることを狙ったからだと思われる。
ソ連が北方領土を不法に占領し、返還要求を拒否しているという状態は、自民党やアメリカ政府からすれば、日本国内での反ソ宣伝、あるいは社会主義を目指す勢力である日本社会党や日本共産党に打撃を与えるうえでの格好の材料となった。
 もちろん歯舞、色丹だけでなく国後、択捉の返還を要求することは、かつてこれらの島々で暮らしていた住民の方々の切なる願いに応えるものであったことは疑いない。だが現実には、返還要求が一歩も進むことはなかった。
 前掲書の『北方領土交渉秘録』の解説で、佐藤優氏は、ソ連という国がソ連共産党中央委員会が多数の人々を支配、抑圧する国家社会主義の体制であったこと、また国家の廃絶という共産主義の目標に従って、単一の世界を作ろうという欲望が潜んだ国であったことを指摘したうえで、次のように述べている。
 「こうした状況の下で日本が国家としてソ連に対して、根源的に警戒心をもったのは当然のことだった。日本の国民世論がソ連よりになってはならない。北方領土問題は解決しないことによって西側資本主義陣営における日本のポジションを維持するという国益を守ることができたのである」
 「これらの交渉は、冷戦の大きな『ゲームのルール』の中で展開されたので、突き放して、第三者的に見るならば、最初から勝算のないゲームだった。当事者の政治家や外務官僚が、交渉を成功させようと努力したことは間違いない。しかし、下手に北方領土問題が解決してしまい、日本国民の反ソ・反共機運にヒビが入ることの方が日本の国益にとって余程危険であると考えたのが、外務省主流派であった」
 冷戦終結、ソ連邦崩壊が、北方領土問題の解決に大きく道を拓いたのである。この新しい条件を生かし、日本政府が本気でこの問題の解決に取り組めば、必ずや解決できる道があるはずなのである。
 次回は最終章として、その方途を考えてみることとする。

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