この前は「徽宗(偽)皇帝の内閣」を書いたが、日本の政治を実質的に動かしているのは政治家ではなく官僚である。政治をやる者を政治家と呼ぶなら、実は代議士ではなく役人こそが政治家なのである。したがって、
日本改革の中心課題は「官僚システムの改革」である。
これが無いかぎり、日本は変わらない。もっとも、その前に「米国からの独立」が必要だが、それは別に論じることにして、ここでは官僚システムの改革をするために、まず現在の官僚システムの根本的欠陥は何かを「池上技術士事務所のブログ」というブログからの引用で勉強しておく。これは、例の「異端官僚」古賀茂明氏の著書の要約で、こういう要約があると、非常に助かる。
内容は、ずっと前に日本の官僚の実態を暴いた宮本政於氏の著書などからもだいたい分かっていたことではあるが、今の現役官僚の証言であるから信頼性は高い。
この要約をさらに一言に煮詰めると、「官僚が国民の利益のためではなく省利省益のために働いていること」が根本的欠陥だということになる。まあ、これも常識に近いが、では、その改善方法は、というと、誰もそれを論じてくれない。そこで、私が解答を言う。
これも一言でいい。
「官僚の働きに対し、信賞必罰のシステムを導入する」ことである。
どの世界でも、そのやった仕事に対しては賞と罰がつきものだ。それを免れている唯一の存在が官僚である。まあ、大手企業経営者もそうだが、彼らの場合は業績悪化で退陣することもある。しかし、官僚は国民にどんな迷惑をかけても、罰されることはない。所属する省に迷惑をかけないかぎりは、だ。つまり、官僚の真の主人である国民には官僚を罰する方法も賞を与える方法も無いのである。これでは官僚が国民のために働くはずがない。
ここに官僚の腐敗の根本原因があるのだから、改善点も明確だ。だが、その具体的なシステムをどうするかは、まだ思案中である。
(以下引用)
国民のためより自己保身しか考えない日本の官僚機構のしくみ
「古賀茂明著:日本中枢の崩壊、講談社、2011年」の「第2章:公務員制度改革大逆流」の「年金を消した社保庁長官はいま」は参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.現在の霞が関の最大の問題は、官僚が本当に国民のために働く仕組みになっていない点である。官僚志望者の大半は、国民のために持てる能力を発揮したいと望み、官僚を日指す。ところが、この純粋無垢な気持ちは、いつの間にか汚濁にまみれていく。そういう構造的な欠陥を現在の官僚機構が宿している。
2.第一の欠陥は縦割りの組織構成である。国家公務員採用一種試験の合格者(いわゆる「キャリア官僚」候補)は、省庁回りを経て各省に採用される。いったん入省すると、生涯所属は変わらない。民間に置き換えれば、公務員という職に就くというよりは、経産株式会社や財務株式会社に永年雇用される。途中、出向することはあっても、「経産省の役人」の名札は退官するまで変わらない。だから自分の役所のことを「わが社」などという。一生お世話になる組織の利益のために働く。これはごく自然な感情だ。また民間であれば、組織に貢献した社員は高く評価されるべきである。社員が稼いだカネを企業が利益還元し、そこで働く者が豊かになるのも、至極まっとうである。公共のために働く公務員の役割は、利潤追求を最大の目的とする企業の従業員のそれとは根本から違う。公務員は、国民から徴収した血税を使ってどのような施策を立案すれば国民生活が向上するかを第一義に考えるのが仕事だ。省利省益の確保と縄張り争いに血道を上げ、職員の生活が豊かになっても、国民の誰も賞賛はしないどころか、それは悪でしかない。一度入省すれば、自分の所属する省への利益誘導体質ができあがっている。これを本来の国家公務員の使命である国民のために働くという体質に改善する新たな人事システムの導入が必須となる。
3.第二の欠陥は、年功序列制と身分保障である。かつて日本企業の強味の一つは従業員の忠誠心を育む年功序列制にあるといわれていた時代もあった。いまどき、年功序列制を採用している民間企業はほとんどない。勤務した年数で人事を決め、待遇を上げていくというシステムでは、厳しい国際競争には勝ち抜けず、生き残れない。いま大半の企業は多少の年功制の色合いは残しながらも、能力主義や実力主義を採用している。とりわけ幹部職員はそうである。日産自動車、ソニー、日本板硝子などは経営トップに外国人を就けている。2011年に入ると、オリンパスが次期社長にイギリス人を就けた。民間企業では経営者の選抜は完全な能力主義になってきた。能力があれば年功どころか国籍も問わない、逆に業績が上がらなければ経営責任を厳しく問われる。身分保障などといったら笑い草である。
4.官庁では、ポストも給与も入省年次で決まる。能力がなければ係長で終わりでも仕方がないのに、キャリアならまず確実に課長にはなれる。課長職以上のポストとなると出世競争があるが、評価はどれだけ省益に貢献したかで決まる。だから、幹部候補のエリートは余計に国民のことは考えなくなる。親方日の丸で国家財政破綻寸前になっているいまも、年功序列にしがみつき、ぬくぬくと暮らしている官僚に、民間企業や国民の二―ズに応える適切な政策が立案できるわけがない。天下りを生む根っこにあったのも年功序列制と身分保障である。
5.自民党政権時代までは、霞が関では次のようなシステムが慣行となっていた。課長職は毎年採用されるキャリア官僚の数にほぼ対応できるよう設けられているが、審議官・部長、局長と、徐々にポストの数は減っていき、トップの事務次官にはたった一人しかなれない。しかも審議官・部長以上は、同期の者が出世すると、出世競争に敗れた人は、退職するという慣行になっていた。
6.同期は勝ち抜き戦を戦っているのだ。スポーツなら、負ければ、文句もいわず退場するしかないが、なにせ霞が関では年功序列制と身分保障が絶対の規範である。霞が関の論理では、出世競争から脱落した者にも、年次に応じて同等の収入を保障しなければならないとなり、大臣官房が省庁の子会社ともいえる特殊法人や独立行政法人などに再就職を斡旋していた。すなわち、出世競争に負けた人のための受け皿が必要なので、無駄な独立行政法人、特殊法人、そして無数の公益法人を役所は作る。
7.年功序列制を守るために再就職を斡旋するのだから、その人物の能力は関係ない。なかにはまったく役に立たない人も交じる。受け入れる独法・特殊法人・公益法人や民間企業にしてみれば、そんな人にまで高給を保障しなければならないのだから、何かお土産をもらわなければ割りに合わない。役所もそれは重々承知で、補助金など見返りをつける。あるいは原子力行政のように、業界に遠慮して、規制が不十分になることもある。つまり、無能な人に高給を保障するために、国民の税金が使われ、国民の生命の安全が犠牲にされている。
8.年功序列制の弊害はまだある。官庁では先輩の意見は絶対という不文律ができている。過去に上の者が推進した政策を非難することはご法度で、悪しき慣習も改められない。国益そっちのけで省益の確保に奔走する先輩たちの姿を見て、おかしいと思っても、上を否定すれば組織の論理とは相容れない存在になり、はみ出すしかない。
9.霞が関では「先輩に迷惑がかかる」ようなまねは一切許されない。年功序列による負の連鎖は連綿と続いており、若手が改革案を実施したいと考えても、現役の上層部だけでなく、OBからも圧力がかかり潰される。核燃料サイクルに反対した若手官僚三人が左遷され、うち一人は経産省から退職を余儀なくされた。電力業界の逆鱗に触れ、OBからもクレームがついたためである。
10.公務員制度改革に賭けた原英史氏、埋蔵金をはじめとする数々の霞が関のカラクリを暴いた高橋洋一氏、小泉改革を支えた岸博幸氏ら、改革意欲に燃える能力の高い役人は結局、自らの組織を見切るしかなくなった。霞が関だけは過去の遺物ともいえる年功序列制と身分保障をいまだに絶対的な規範にしている。国民に対して、結果を出せなければ責任を取るべきなのに、悪事を働かない限り降格もない。年金がなくなっても、歴代の社会保険庁の長官は、いまだに天下りや渡りで優雅な生活を保障されている。
11.実績は関係ないので、国民のために働こうという意欲はどんどん失せてく。身分保障と年功序列制度が縦割りの組織と一体となり、がんじがらめになっている現在の状況が続くのなら、霞が関が自ら改革に踏み切る日は永遠に来ない。民主党政権は天下りの根絶を目指し、斡旋を表向き全面禁止した。だが、禁止しただけでは問題は解決しない。出口を閉じても結局は、いままで外に出していた人を省内で抱え込むことになるからだ。(抜け道だらけである)
日本改革の中心課題は「官僚システムの改革」である。
これが無いかぎり、日本は変わらない。もっとも、その前に「米国からの独立」が必要だが、それは別に論じることにして、ここでは官僚システムの改革をするために、まず現在の官僚システムの根本的欠陥は何かを「池上技術士事務所のブログ」というブログからの引用で勉強しておく。これは、例の「異端官僚」古賀茂明氏の著書の要約で、こういう要約があると、非常に助かる。
内容は、ずっと前に日本の官僚の実態を暴いた宮本政於氏の著書などからもだいたい分かっていたことではあるが、今の現役官僚の証言であるから信頼性は高い。
この要約をさらに一言に煮詰めると、「官僚が国民の利益のためではなく省利省益のために働いていること」が根本的欠陥だということになる。まあ、これも常識に近いが、では、その改善方法は、というと、誰もそれを論じてくれない。そこで、私が解答を言う。
これも一言でいい。
「官僚の働きに対し、信賞必罰のシステムを導入する」ことである。
どの世界でも、そのやった仕事に対しては賞と罰がつきものだ。それを免れている唯一の存在が官僚である。まあ、大手企業経営者もそうだが、彼らの場合は業績悪化で退陣することもある。しかし、官僚は国民にどんな迷惑をかけても、罰されることはない。所属する省に迷惑をかけないかぎりは、だ。つまり、官僚の真の主人である国民には官僚を罰する方法も賞を与える方法も無いのである。これでは官僚が国民のために働くはずがない。
ここに官僚の腐敗の根本原因があるのだから、改善点も明確だ。だが、その具体的なシステムをどうするかは、まだ思案中である。
(以下引用)
国民のためより自己保身しか考えない日本の官僚機構のしくみ
「古賀茂明著:日本中枢の崩壊、講談社、2011年」の「第2章:公務員制度改革大逆流」の「年金を消した社保庁長官はいま」は参考になる。印象に残った部分の概要を自分なりに補足して纏めると以下のようになる。
1.現在の霞が関の最大の問題は、官僚が本当に国民のために働く仕組みになっていない点である。官僚志望者の大半は、国民のために持てる能力を発揮したいと望み、官僚を日指す。ところが、この純粋無垢な気持ちは、いつの間にか汚濁にまみれていく。そういう構造的な欠陥を現在の官僚機構が宿している。
2.第一の欠陥は縦割りの組織構成である。国家公務員採用一種試験の合格者(いわゆる「キャリア官僚」候補)は、省庁回りを経て各省に採用される。いったん入省すると、生涯所属は変わらない。民間に置き換えれば、公務員という職に就くというよりは、経産株式会社や財務株式会社に永年雇用される。途中、出向することはあっても、「経産省の役人」の名札は退官するまで変わらない。だから自分の役所のことを「わが社」などという。一生お世話になる組織の利益のために働く。これはごく自然な感情だ。また民間であれば、組織に貢献した社員は高く評価されるべきである。社員が稼いだカネを企業が利益還元し、そこで働く者が豊かになるのも、至極まっとうである。公共のために働く公務員の役割は、利潤追求を最大の目的とする企業の従業員のそれとは根本から違う。公務員は、国民から徴収した血税を使ってどのような施策を立案すれば国民生活が向上するかを第一義に考えるのが仕事だ。省利省益の確保と縄張り争いに血道を上げ、職員の生活が豊かになっても、国民の誰も賞賛はしないどころか、それは悪でしかない。一度入省すれば、自分の所属する省への利益誘導体質ができあがっている。これを本来の国家公務員の使命である国民のために働くという体質に改善する新たな人事システムの導入が必須となる。
3.第二の欠陥は、年功序列制と身分保障である。かつて日本企業の強味の一つは従業員の忠誠心を育む年功序列制にあるといわれていた時代もあった。いまどき、年功序列制を採用している民間企業はほとんどない。勤務した年数で人事を決め、待遇を上げていくというシステムでは、厳しい国際競争には勝ち抜けず、生き残れない。いま大半の企業は多少の年功制の色合いは残しながらも、能力主義や実力主義を採用している。とりわけ幹部職員はそうである。日産自動車、ソニー、日本板硝子などは経営トップに外国人を就けている。2011年に入ると、オリンパスが次期社長にイギリス人を就けた。民間企業では経営者の選抜は完全な能力主義になってきた。能力があれば年功どころか国籍も問わない、逆に業績が上がらなければ経営責任を厳しく問われる。身分保障などといったら笑い草である。
4.官庁では、ポストも給与も入省年次で決まる。能力がなければ係長で終わりでも仕方がないのに、キャリアならまず確実に課長にはなれる。課長職以上のポストとなると出世競争があるが、評価はどれだけ省益に貢献したかで決まる。だから、幹部候補のエリートは余計に国民のことは考えなくなる。親方日の丸で国家財政破綻寸前になっているいまも、年功序列にしがみつき、ぬくぬくと暮らしている官僚に、民間企業や国民の二―ズに応える適切な政策が立案できるわけがない。天下りを生む根っこにあったのも年功序列制と身分保障である。
5.自民党政権時代までは、霞が関では次のようなシステムが慣行となっていた。課長職は毎年採用されるキャリア官僚の数にほぼ対応できるよう設けられているが、審議官・部長、局長と、徐々にポストの数は減っていき、トップの事務次官にはたった一人しかなれない。しかも審議官・部長以上は、同期の者が出世すると、出世競争に敗れた人は、退職するという慣行になっていた。
6.同期は勝ち抜き戦を戦っているのだ。スポーツなら、負ければ、文句もいわず退場するしかないが、なにせ霞が関では年功序列制と身分保障が絶対の規範である。霞が関の論理では、出世競争から脱落した者にも、年次に応じて同等の収入を保障しなければならないとなり、大臣官房が省庁の子会社ともいえる特殊法人や独立行政法人などに再就職を斡旋していた。すなわち、出世競争に負けた人のための受け皿が必要なので、無駄な独立行政法人、特殊法人、そして無数の公益法人を役所は作る。
7.年功序列制を守るために再就職を斡旋するのだから、その人物の能力は関係ない。なかにはまったく役に立たない人も交じる。受け入れる独法・特殊法人・公益法人や民間企業にしてみれば、そんな人にまで高給を保障しなければならないのだから、何かお土産をもらわなければ割りに合わない。役所もそれは重々承知で、補助金など見返りをつける。あるいは原子力行政のように、業界に遠慮して、規制が不十分になることもある。つまり、無能な人に高給を保障するために、国民の税金が使われ、国民の生命の安全が犠牲にされている。
8.年功序列制の弊害はまだある。官庁では先輩の意見は絶対という不文律ができている。過去に上の者が推進した政策を非難することはご法度で、悪しき慣習も改められない。国益そっちのけで省益の確保に奔走する先輩たちの姿を見て、おかしいと思っても、上を否定すれば組織の論理とは相容れない存在になり、はみ出すしかない。
9.霞が関では「先輩に迷惑がかかる」ようなまねは一切許されない。年功序列による負の連鎖は連綿と続いており、若手が改革案を実施したいと考えても、現役の上層部だけでなく、OBからも圧力がかかり潰される。核燃料サイクルに反対した若手官僚三人が左遷され、うち一人は経産省から退職を余儀なくされた。電力業界の逆鱗に触れ、OBからもクレームがついたためである。
10.公務員制度改革に賭けた原英史氏、埋蔵金をはじめとする数々の霞が関のカラクリを暴いた高橋洋一氏、小泉改革を支えた岸博幸氏ら、改革意欲に燃える能力の高い役人は結局、自らの組織を見切るしかなくなった。霞が関だけは過去の遺物ともいえる年功序列制と身分保障をいまだに絶対的な規範にしている。国民に対して、結果を出せなければ責任を取るべきなのに、悪事を働かない限り降格もない。年金がなくなっても、歴代の社会保険庁の長官は、いまだに天下りや渡りで優雅な生活を保障されている。
11.実績は関係ないので、国民のために働こうという意欲はどんどん失せてく。身分保障と年功序列制度が縦割りの組織と一体となり、がんじがらめになっている現在の状況が続くのなら、霞が関が自ら改革に踏み切る日は永遠に来ない。民主党政権は天下りの根絶を目指し、斡旋を表向き全面禁止した。だが、禁止しただけでは問題は解決しない。出口を閉じても結局は、いままで外に出していた人を省内で抱え込むことになるからだ。(抜け道だらけである)
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