忍者ブログ

徽宗皇帝のブログ

徽宗皇帝のブログ

我々はいつも終わった事の総括をせずに先に進む
「兵頭に訊こう」から記事の前半だけ転載。
兵頭正俊は「晴耕雨読」にもよく転載されているから、この記事も転載済みかもしれない。
なぜ私がこの記事を引用したのかと言うと、「大学知」(これは兵頭氏の造語だろうか?)の問題は、もっと多くの人の批判にさらされるべきだと思うからである。そして、60年代70年代の学生運動の総括は、まだ行われていない、と私は思っている。それがなされなかったからこそ、今の政治の惨状があるのではないか?
確かに、今の大学人は既得権益層の一部であり、学生に無駄な知識を与えて立派な馬鹿に仕上げる役目しかしていない。それに対し、学生運動以前の大学には国家権力から自立した知の王国という誇りがあったように思われる。それを壊したのは、学生自身であったと言えるのではないか。つまり、学生運動は国家権力(特に日米安保体制)を解体することはできなかったが、大学を解体し、「国家奴隷の巣窟」にしてしまったのではないだろうか。
要するに、学生運動は国会と霞が関、そして駐日米国大使館などを攻撃(デモ)の対象とするべきであり、大学などを攻撃するのはまったく無意味なことではなかったか。
もちろん、国会前デモも行われ、機動隊との衝突で樺美智子とかいう女子大生が死んでもいる。ならば、その次に来るのは権力との死力を尽くした武力闘争のはずであった。それが、内ゲバに次ぐ内ゲバで学生運動そのものがどんどん弱体化し、そして「連合赤軍事件」と「あさま山荘事件」で学生運動は完全に国民に愛想を尽かされた。
私は以上のことをおぼろげな記憶で書いているので、事実誤認があるかと思うが、大筋はこんなものだろう。
結論は何か。
戦うべき相手(敵)を間違えた闘争ほど無意味なものは無い、ということである。もちろん、このすべて(学生運動の起承転結、一部始終)が最初から米国などによってコントロールされ、内部闘争が第五列(内部のスパイ的存在)によって仕組まれたものだとしたら、この論評も的外れではある。
だが、学生運動の失敗によって、日本国民は「下からの変革」は不可能だ、という敗北主義を骨身に叩き込まれたのである。その意味で、学生運動を主導した人々は、(その誠実さは認めたいが)日本の社会全体に対して、拭い難い大きな罪を犯したとも言えるのである。
これもまた「地獄への道は善意で舗装されている」ことの一つの例だろうか。社会改革の善意が、社会を一層悪化させたのだから。

我々が、「小泉改革」の悪虐さの総括をきちんとしていなかったために、民主党革命も不発に終わったのではないか。
あの時、小泉と竹中をちゃんと裁判にかけ、死刑にしておくべきだったのである。
そして、民主党の犯罪的内部クーデター(鳩山・小沢追放劇)も総括されないままである。
国民がこのような有様だから、大衆を騙すのも操縦するのも官僚やジャパンハンドラーズの意のままなのである。



(以下引用)



米国の夢を実現する日本の政治の劣化
投稿日:2013年4月4日 作成者: 兵頭 正俊




3月26日に、財団法人日本青少年研究所が、高校生の意識調査の結果を公表した。この調査は昨年9~11月、日本、中国、韓国、米国4か国の高校生計約6,600人にアンケートした。それによると日本の高校生の「出世欲」の低さが際だつとした。
同研究所はその理由として「不況の影響か、『とにかく就職さえできればいい』といった意識が垣間見える」と分析している。
バカな分析だ。「偉くなりたいと思うか」という質問に「強く思う」と答えたのは、中国37%、米国30%、韓国19%で、日本はわずか9%だった。
日本の若者が将来に夢を持たないというのは、これまでも様々な調査から明確になっている。何も「不況の影響か、『とにかく就職さえできればいい』といった理由のためではない。
若者が夢を持たないというより、夢を持てない社会を大人が作ったのである。正確にいうとこの国の既得権益支配層が、とりわけ自民党の政治が作ったのである。
高校生が将来偉くなりたいと思わないのは正しい。
なぜなら偉くなりたいと思っても、今の日本では不可能なことをよく知っているからだ。
米国や中国にはまだその可能性があるのである。だから高校生たちは夢を持てるのだ。
我が国の若者はデモひとつしない。デモをやって、もし警察に捕まったら、学校ににらまれ、「反社会的」 「危険人物」 「過激派」の烙印を押される。
デモは世直しの行為であり、この国を愛するからこそ立ち上がった、考える若者たちの行為であるという共通認識が、 68~69年の全共闘運動の敗北以来、既得権益支配層によって奪われた。そしてそういった若者の主張を決して社会が受け入れない時代が続いている。
60年安保闘争、全共闘運動では、まだそういった認識が政治家にも知識人にもマスメディアにも存在した。
今の若い人たちは意外に思うかもしれないが、新聞はもちろん、テレビ、週刊誌、月刊誌も、スクラムを組んで立ち上がり、政府に抗議のデモをする若者たちに理解を示していたのである。
路上の市民からの声援はもちろん、デモの若者にカンパする市民も大勢いた。
この国は変えられる、この社会は変えられる、という共通認識が若者にも大人にも存在した。それが今はもうない。
68~69年の全共闘運動の敗北以来、若者はもう立ち上がらない。むしろ資力さえあれば考えられるのは国外への脱出であり、移住なのだ。
大学知を批判した教え子たちを、警察権力に引き渡した大学教師は自信を失って沈黙し、消費税増税にも原発再稼働にもTPP参加にも何も発言しない。
大学知は国民との接点を失い、状況から逃げ回るばかりだ。たまにメディアに登場する大学教師はほとんど御用学者であり、既得権益支配層を支持することしかいわない。その理由は明白である。自分たちが既得権益支配層そのものだからだ。

(以下略)







拍手

PR

コメント

コメントを書く