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徽宗皇帝のブログ

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我々は天皇の所有物(家畜)か?
私は孔徳秋水さんのブログやツィッターをよく読むし、引用もよくやるが、それは思想が同じだからではない。引用に値する知見や意見が彼の文章の中には多いからだ。
彼と私の一番の意見の相違は、「天皇(制)」に関するもので、彼は日本国憲法における「象徴としての天皇」にすら反対し、シンボル(象徴)=君主と看做し、天皇が現在でもこの日本の実質的な所有者である、と思っているようだ。そして、多くの財閥を「天皇財閥」と呼んでいる。
私は、まったくそうは思わない。
天皇が政治的権力と無縁であることは、日本国憲法制定以来の日本社会の現実が示している。憲法でも、そう規定されているはずだ。もし、それを否定するならば、憲法そのものが無力で無意味、現実政治は法や憲法とは無関係な「背後の陰謀だけで動いている」という見方をしていることになるだろう。実際、彼はそういう「ロマンチックな」見方をしているようだ。
いわば、マキャベリの時代の政治、つまり民主主義という理念の登場する以前の「(武力闘争ではなく陰謀による闘争を主とする)権力闘争としての政治」が、今でも世界の政治の実相だ、と見ているわけだ。
私が彼のブログやツィッターを読んで思うのは、彼のような考え方をするなら、「(選挙での投票行為も含め)下からの政治活動のすべてが無意味」ということになるしかないのではないか、ということだ。実際、そういう趣旨のことを彼は書き続けているようだ。それでいて、日本国民を家畜呼ばわりし、日本国の滅亡を願う、というのは何なのか。何を呪詛し、何が狙いでブログやツィッターを書いているのか。彼は誰に向かって書いているのか。何を求めているのか。
私は彼にぜひ、「実現可能な未来の政治の姿」を示してもらいたい。それは、「家畜呼ばわりされた」一員として当然の権利だと思うのだが。
なぜ彼(やその同調者?)だけが人間で、我々は家畜なのだろうか。いや、彼は「人間という畜生」と言い、文明とは「畜生を家畜化することだ」と言っている。そのようなスイフト的な人間観は嫌いではないが、そうした厭世主義、絶対悲観主義から生まれるものは、絶望しかありえないだろう。
たまたま昨夜読んだ、村岡花子(「赤毛のアン」の最初の翻訳者)のエッセイ(「曲がり角のその先に」所載「一つの心境」)の一部を(引用2)に引用しておく。


(以下引用)




>>あ* それってもろ「天皇(制)の家畜」じゃん?…そんなもんを”日本文化”とか”和のこころ”とか言う?…そもそも”文明”とか”国家”というものが、人間という畜生を”家畜”として”飼育”するシステム。家畜になると、まず”自由”ということが何かがわからなくなる…

  1. あ* quae [11/1 06:23] 君主という権威にすがり「私らはバカなので国民 #主権 を返上します」人々は、#保守本流 ではありません。本当の #保守 なら #日本文化 を尊重して #象徴 が見えるハズだし、#和の心 で #PTSD #予防 & 克服もできるから、#象徴 #天皇 #システム が理解できるハズ。なう速アプリから


  2. 孔徳秋水 [11/1 02:23] そうそう…だから、シンボル=君主を定めた第一条にも疑問を持たない…「国の正体」にも気づかない。テレビでみたまんまを”事実”、”現実”と思い込んでいる…


  3. あ* quae [11/1 02:06] 「主権のある日本国民の総意に基づいて決定される」ようにならないとダメですが、「私らはバカなので、主権は放棄します」という人たちが結構おいでなので困ります。なう速アプリから



(引用2)


さて、悲観は決して単なる個人的な一つの心境であり、何にも害をもたらすことのないなどと安心していられるような消極的のものではない。悲観につづくものは憂うつと頑固と怠慢と不勉強と、あらゆる不愉快有害な生活態度である。悲観的であるということは何にも周囲に影響を及ぼすことのない単独なる一つの性格ではありえない。
希望を失うところにさまざまな悪が入り込んでくる。無気力になり、非協力的になり恨みと怒りとしっ妬(注:原文ママ)と、そのほかすべての不愉快な人情が生じて来て、そして我々の住んでいる社会を住みにくい、文化性のない、低俗なものにするのに拍車をかけるのである。
中世期の歴史をひもとく時に感ずるあの暗さと悲観は決してあの時代だけに限られたものではない。現代の我々にしても、ひとたび、この悲観的なものを心の中に持ち始めると、次から次へと暗いものが続いてきて、新しい建設をむずかしくする。
希望なき時代ということをしばしば耳にしまた口にもするのだが、それは軽々しくいったり聞いたりできない重大な意義を含んでいる。希望なき時代たらしめないためにこそ努力しなければならない。得々として絶望を叫んでいるべきではないと思う。

(1953年[昭和28年])







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