「ちきゅう座」掲載の浅川修史という人の記事の一部である。
ここに引用された某エコノミストの言葉の通り、「日本では革命は起こらない」かもしれない。だが、それは「解脱」と言うよりは「無知」「無気力」「ニヒリズム」「あきらめ」のためだろう。確かに、与えられたもの(与件)をそのまま受け取り、それに満足して、あるいは我慢して生きていけば、周囲に波風を立てずに平穏無事に生きていくことはできる。世の中の人間の大半はそういう生き方をしている。そして「変革」を叫ぶ人間を冷ややかに見て、自分の生き方こそ大人の生き方だと考える。だが、それは自分の臆病や無気力を正視する勇気が無いからである。
東洋的諦念は、為政者にとっては都合の良いものだ。
日本人はあらゆる物事に対し、変革する気力を持たず、ウォルフレンの言う「シカタガナイ」ですべてを片づける。まあ、生ける屍に近い。特に若者ほどそうである。実際、それ自体は当然なのであり、先の無い老人とは違い、彼らはこの奴隷的社会でこれから生きて行かねばならないのだから「革命」などという無謀な行為は彼らにはできないのだ。
だが、やはりそれは臆病だという自覚は持った方がいい。その屈辱を心に抱くことが大事なのだ。特に、社会の底辺にいる人間は、下の人間はどうあがいても絶対に上に行けない、この社会システムを自覚するべきだ。
また、中年以上の人間は、自分たちの政治的無関心や無知、無気力が東日本大地震や福島原発事故の処理、いや放置に見られる最低の政治システムを自分たちが作ってきたことを自覚しなければならない。
我々は官僚(為政者)を監視し、コントロールする義務があったのである。(その逆ではない。現実は官僚に国民が支配されているが、それは正しい姿ではない)その義務を怠ってきたツケがこの、弱者を踏みつけにし、悪を放置する残酷な社会なのである。
「革命」はまず心の中から始まる。国民の一人一人が社会悪を正しく認識し、それに対する自分の責任(選挙における投票の義務)を考えるだけでも、この社会は変わるだろう。そういう意味では「革命」は可能である。
下記記事の最後の「解脱とはノーリタンという意味である」という言葉は意味不明だが、私に言わせれば、社会悪に目をつぶって自分だけ無事に生きようとし、結局はその社会悪に自分も飲み込まれる生き方は「ノータリン(脳足りん)」とまでは言わないが、あまり賢い生き方でもないのである。「気が飢える」という言葉があるが、表面的には満足できても心の底に忸怩たるものがある生き方で、気持ちのよい生き方でないことは確かだ。
いや、卑怯なら卑怯でもいい。自分がそうだという自覚を持って生きるなら、いざと言う時に行動できる。自分で自分を騙すことだけはしないことが大事だ。
オスカー・ワイルド曰く「意識してなされたことはすべて正しい」。逆に言えば、自分で自分を騙すことこそが悪なのである。
(以下引用)
しかし、奇妙な現象がある。世界恐慌になれば、日本も当然影響を受ける。だが、日本は先にバブル発生と崩壊を経験して地獄を見ているので、「時限爆弾がない」ということだ。国民も若い世代を中心に、「モノ離れ、不況慣れ」という状況だ。
スペインの有名リゾート地であるコスタ・デル・ソル。熱海や伊豆とあまり変わらない景観だ。ここのリゾートマンションは、20年前には筆者の記憶では1000万円程度(当時のペセタと円で換算)だった。だが、欧州バブルの最盛期、ユーロ高の時期には2億円くらいに上昇した。
コスタ・デル・ソル以上にインフラが整い、景観も豊かな伊豆の中古リゾートマンションは1000万円以下で買えるだろう。数百万以下かもしれない。
「日本は世界経済の負け比べ競争の勝ち組になる」というのが、筆者の見立てだ。
とはいえ、生活者にとってはさらに厳しい時期を迎える。インフレ、増税、年金・医療など社会保障の縮減などが容易に想像されるからだ。
余談になるが、世界恐慌になっても、少なくとも日本では、団塊の世代の一部が期待するような革命運動は起こらないというのがこのエコノミストの見立てである。その理由は、就職氷河期や、ワーキングプアなどの経験で痛めつけられた若い世代が、「モノ離れ」「贅沢をしない」「他人やイデオロギーを受け付けない」ということで悟りを開き、解脱しているからだという。解脱とはノーリタンという意味である。
ここに引用された某エコノミストの言葉の通り、「日本では革命は起こらない」かもしれない。だが、それは「解脱」と言うよりは「無知」「無気力」「ニヒリズム」「あきらめ」のためだろう。確かに、与えられたもの(与件)をそのまま受け取り、それに満足して、あるいは我慢して生きていけば、周囲に波風を立てずに平穏無事に生きていくことはできる。世の中の人間の大半はそういう生き方をしている。そして「変革」を叫ぶ人間を冷ややかに見て、自分の生き方こそ大人の生き方だと考える。だが、それは自分の臆病や無気力を正視する勇気が無いからである。
東洋的諦念は、為政者にとっては都合の良いものだ。
日本人はあらゆる物事に対し、変革する気力を持たず、ウォルフレンの言う「シカタガナイ」ですべてを片づける。まあ、生ける屍に近い。特に若者ほどそうである。実際、それ自体は当然なのであり、先の無い老人とは違い、彼らはこの奴隷的社会でこれから生きて行かねばならないのだから「革命」などという無謀な行為は彼らにはできないのだ。
だが、やはりそれは臆病だという自覚は持った方がいい。その屈辱を心に抱くことが大事なのだ。特に、社会の底辺にいる人間は、下の人間はどうあがいても絶対に上に行けない、この社会システムを自覚するべきだ。
また、中年以上の人間は、自分たちの政治的無関心や無知、無気力が東日本大地震や福島原発事故の処理、いや放置に見られる最低の政治システムを自分たちが作ってきたことを自覚しなければならない。
我々は官僚(為政者)を監視し、コントロールする義務があったのである。(その逆ではない。現実は官僚に国民が支配されているが、それは正しい姿ではない)その義務を怠ってきたツケがこの、弱者を踏みつけにし、悪を放置する残酷な社会なのである。
「革命」はまず心の中から始まる。国民の一人一人が社会悪を正しく認識し、それに対する自分の責任(選挙における投票の義務)を考えるだけでも、この社会は変わるだろう。そういう意味では「革命」は可能である。
下記記事の最後の「解脱とはノーリタンという意味である」という言葉は意味不明だが、私に言わせれば、社会悪に目をつぶって自分だけ無事に生きようとし、結局はその社会悪に自分も飲み込まれる生き方は「ノータリン(脳足りん)」とまでは言わないが、あまり賢い生き方でもないのである。「気が飢える」という言葉があるが、表面的には満足できても心の底に忸怩たるものがある生き方で、気持ちのよい生き方でないことは確かだ。
いや、卑怯なら卑怯でもいい。自分がそうだという自覚を持って生きるなら、いざと言う時に行動できる。自分で自分を騙すことだけはしないことが大事だ。
オスカー・ワイルド曰く「意識してなされたことはすべて正しい」。逆に言えば、自分で自分を騙すことこそが悪なのである。
(以下引用)
しかし、奇妙な現象がある。世界恐慌になれば、日本も当然影響を受ける。だが、日本は先にバブル発生と崩壊を経験して地獄を見ているので、「時限爆弾がない」ということだ。国民も若い世代を中心に、「モノ離れ、不況慣れ」という状況だ。
スペインの有名リゾート地であるコスタ・デル・ソル。熱海や伊豆とあまり変わらない景観だ。ここのリゾートマンションは、20年前には筆者の記憶では1000万円程度(当時のペセタと円で換算)だった。だが、欧州バブルの最盛期、ユーロ高の時期には2億円くらいに上昇した。
コスタ・デル・ソル以上にインフラが整い、景観も豊かな伊豆の中古リゾートマンションは1000万円以下で買えるだろう。数百万以下かもしれない。
「日本は世界経済の負け比べ競争の勝ち組になる」というのが、筆者の見立てだ。
とはいえ、生活者にとってはさらに厳しい時期を迎える。インフレ、増税、年金・医療など社会保障の縮減などが容易に想像されるからだ。
余談になるが、世界恐慌になっても、少なくとも日本では、団塊の世代の一部が期待するような革命運動は起こらないというのがこのエコノミストの見立てである。その理由は、就職氷河期や、ワーキングプアなどの経験で痛めつけられた若い世代が、「モノ離れ」「贅沢をしない」「他人やイデオロギーを受け付けない」ということで悟りを開き、解脱しているからだという。解脱とはノーリタンという意味である。
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コメント
1. ノーリタンの意味
「解脱とはノーリタンを意味する」は、一部誤植がありまして、「解脱とはノーリターンを意味する」、つまり立場を変えない、引き返さないという意味を込めました。舌足らずですいません。