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徽宗皇帝のブログ

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新国富論6
6 金は貧しい者の懐から金持ちの懐に流れる

 言うまでもなく、日本の庶民は貧しい。高度経済成長期には、企業が稼いだ金のうち労働者への給与となる支出、つまり労働分配率はかなり高いものだった。しかし、1980年代のバブルの頃から、それは著しく下がり始めたのである。「悪平等」がマスコミで批判され、能力主義がもてはやされた結果、同じ会社内での幹部社員と平社員の給与格差はどんどん広がっていった。幹部社員になれる数は一握りであり、国内消費のほとんどは貧しい庶民が生活の必需品を買うという「生存のための消費」であるから、給与格差の広がりと共に、消費は低迷し始めたのである。(モデル的に考えよう。100名の社員の中でもっとも優秀な人間には2倍の給料を与え、それ以外の社員は1割減俸とする。最初全員が20万円の給与ならば、一人は40万円に昇給し、その他は18万円に下がる。では、収支決算はどうなるか。会社は最初2000万円の人件費だったが、この処置で人件費はどうなったかというと、1822万円となり、178万円節約できたわけである。これが「能力主義・成果主義」の実体であろう。もちろん、全員に1割減俸を言い渡してもいいが、それだと社員が会社に反抗する。ところが、一部だけでも昇給した人間がいれば、「能力と実績の差で給与に差がついたのであり、それに文句を言うのは焼餅であり、見苦しい」ということになる。これが「能力主義」や「成果主義」の一つの側面である。そして、言うまでもなく、減俸された99人の消費活動の減退は、たった一人の昇給者の贅沢ではカバーできないのである。)そして、バブルが崩壊した後は、金持ちによる贅沢品の需要までも無くなり、日本は長期に渡るデフレ時代となった。
 繰り返すが、庶民の懐に金が無いという、この一事が、現在の日本の長期不況の根本原因なのである。特に、小泉政権において、(「痛みを伴う改革」! それは、庶民にだけ痛みを強要する改革でしかなかった。)様々な福祉予算の削減と公共料金の値上げが行われ、金持ちはより金持ちになり、貧しい者はより貧しくなる政策が取られた結果、日本がアメリカ的な「格差社会」になりつつあるのは誰でも知っていることである。
 金持ちは消費をしない。これは不思議な話だが、彼らは金を使わないのである。いや、使わないで済むように政治を動かし、いつでも損をせず得をするようなシステムを作った結果、金持ちは金を使わなくても済む社会ができるのである。(あらゆる法律の背後には、それで利益を得る一部の人間の姿があると見てよい。)彼らにとって金とは紙の上の数字でしかない。消費をするのは、それが生存と直結している中流から下流の人間たちだけだ。そして、資本主義の原理が、「相手に損をさせて自分が得をするゲーム」である以上、庶民は消費行為によって一層貧しくなり、資本家は一層豊かになっていくわけだ。これは、膨大な金を持った人間と、わずかな金しか持たない人間がポーカーでもする場合を考えればよい。どんなにいい手が来ても、相手がレートを吊り上げれば、資本の無い人間は勝負から下りるしかないのである。これは企業対企業でも同じであり、資本の無いライバル企業が相手なら、こちらは幾らでも安売りすればよい。そして、相手が潰れたら、今度は(ライバルはいないのだから)いくらでも商品の値段を吊り上げることができるわけだ。
 要するに、法律による歯止めの無い資本主義とは、弱肉強食のジャングルなのだが、そこにいる猛獣たちは、きれいな身なりをして上品な風をする紳士淑女たちなのである。
 もちろん、それで資本主義を否定するわけにはいかない。だが、金持ちという、圧倒的な力を持った存在と、無力な庶民を同じ土俵で戦わせるのは、「公平」な方法かもしれないが、「正義」にかなっているとは言えないだろう。それが、20世紀前半に労働者保護の法律が各国で次々に作られた理由であり、労働組合などができた理由なのである。ところが、日本では貧乏人までが「俺は、労働組合は嫌いだ」と公言する始末だ。あまつさえ、選挙では自分たちから徹底的に収奪し、自分たちをいじめ抜いている与党政権(注:この文章の土台部分が書かれたのは自公政権の頃である。)に投票する始末である。奴隷制度が盛んだったころ、黒人は奴隷であることが幸せなのだという発言をする連中が黒人の中にいたという。これはつまり、「内面化された制度」という奴である。奴隷自身にそう思わせることができれば、それは支配が最高水準に達したということである。

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