現代を「新帝国主義の時代」と規定すれば世界政治の真の姿が見えてくる。新帝国主義とは、要するに「カモフラージュされた帝国主義」であり、戦いの内容が植民地争奪の戦争(土地そのものを奪い合う戦争)から石油利権や貿易利権などの実質的利権争奪の戦争に変わり、口では詭弁的弁明を述べながら実際には強盗行為を行う帝国主義である。
かつては「力は正義であり、強い国が弱い国を切り取るのは当然である」と考えられていた。これが帝国主義である。今は強盗行為をする際にいろいろと口実を言うようになっただけである。
佐藤優氏は自らを右翼と規定している人物で、私と思想的立場は反対だが、世界政治認識においてはまったく同一である。つまり、現代世界は「新帝国主義の時代」であるという認識だ。
書かれた本の一部だけを引用されるのは不本意だろうが、該当部分だけを引用する。
(以下引用)*原文は縦書きのため数字表記のみ変更。
2008年9月のリーマン・ショック以降、米国発の新自由主義経済の限界が明らかになった。主要国(少し昔の言葉で言えば列強)は、口先では「保護主義に反対する」と言いながら、実際には保護主義的傾向を強めている。主要国はエゴイズムを露骨に示し、まず、自国の要求を最大限に提示する。そしてそれに対して他国からの反発が大きく、結果として国益を毀損することになる場合にだけ、国際協調に転じるという勢力均衡外交が復活している。かつての帝国主義外交の復活だ。もっとも、19世紀後半から20世紀前半の帝国主義外交では、植民地の獲得が大きな争点だった。植民地の時代は過ぎ去った。それは、世界が文明化し、人道的になったからではなく、植民地を維持するコストよりも、主権国家間の貿易や外交という手段の方が、主要国の国益に適うからである。それだから21世紀は、新帝国主義の時代であると私は考える。日本は、米国、ロシア、中国、イギリス、ドイツ、フランスなどとともに、周辺国に決定的な影響を与える帝国主義国である。帝国主義国としての責務を自覚し、品格のある形で国家の生き残りについて考えなくてはならない。
国家には生き残り本能がある。新帝国主義のゲームのルールも、帝国主義と同様に「食うか、食われるか」だ。日本国家としては、自国と自国民が食われることがないように総力を結集しなくてはならない。
(引用終わり。以上、「日本国家の神髄」のまえがきより)
この後に、「日本の国家体制を強化する思想が必要なのである。その思想は、現実に役立たなくてはならない。日本国家と日本国民の生き残りに資する思想でなくては意味がない」と続けて、『国体の本義』という書物の研究に入っていくわけだが、そこで述べられた皇室中心の国体がはたしてこれからの日本にとっての最適解かどうかは問題だろう。ただし、それも解の一つである、というのは心情左翼の私も認める。つまり、日本の歴史は天皇を中心とした歴史であり、歴史の転回点で天皇の存在が大きな意義を持ってきた、というのは確かである。そして、政治的「権力」を持たない天皇が、ある種の「権威」となって、揺れ動く社会のバランスを取る重心のような存在になってきたというのは、世界史的にみてもまったくユニークであり、あるいはこれは日本という国の貴重な財産ではないかと思っている。
しかし、そういう皇室尊重の姿勢が行きすぎて「国家神道」まで復活されると、これはまた最悪の事態であるとも思う。すなわち、国民全員がマインドコントロールされた社会は、確かに「国家維持」や「国家生き残り」の面では有効だろうが、それが国民にとって幸福な社会だとは言えないだろう、ということだ。もちろん、明治から昭和前半までの天皇支配下(実質的には天皇を神輿とした官僚支配だが)の社会でも国民はマインドコントロールされながらも幸福であったと考えることもできる。それはカトリック支配の西欧中世でも同様だろう。いや、マインドコントロールの無い社会は存在しない、とも言える。では、そういう社会を容認するべきか?
山上たつひこが初期の短編「光る風」で描いたように、争闘の無い究極のユートピアは社会構成員全員が同じ思想になることである。つまり、まったくの機械になることだ。言い換えれば「時計仕掛けのオレンジ」になることである。それは為政者が望むユートピアだ。だが、そんな社会での人間は、生きた人間ではない。
かつては「力は正義であり、強い国が弱い国を切り取るのは当然である」と考えられていた。これが帝国主義である。今は強盗行為をする際にいろいろと口実を言うようになっただけである。
佐藤優氏は自らを右翼と規定している人物で、私と思想的立場は反対だが、世界政治認識においてはまったく同一である。つまり、現代世界は「新帝国主義の時代」であるという認識だ。
書かれた本の一部だけを引用されるのは不本意だろうが、該当部分だけを引用する。
(以下引用)*原文は縦書きのため数字表記のみ変更。
2008年9月のリーマン・ショック以降、米国発の新自由主義経済の限界が明らかになった。主要国(少し昔の言葉で言えば列強)は、口先では「保護主義に反対する」と言いながら、実際には保護主義的傾向を強めている。主要国はエゴイズムを露骨に示し、まず、自国の要求を最大限に提示する。そしてそれに対して他国からの反発が大きく、結果として国益を毀損することになる場合にだけ、国際協調に転じるという勢力均衡外交が復活している。かつての帝国主義外交の復活だ。もっとも、19世紀後半から20世紀前半の帝国主義外交では、植民地の獲得が大きな争点だった。植民地の時代は過ぎ去った。それは、世界が文明化し、人道的になったからではなく、植民地を維持するコストよりも、主権国家間の貿易や外交という手段の方が、主要国の国益に適うからである。それだから21世紀は、新帝国主義の時代であると私は考える。日本は、米国、ロシア、中国、イギリス、ドイツ、フランスなどとともに、周辺国に決定的な影響を与える帝国主義国である。帝国主義国としての責務を自覚し、品格のある形で国家の生き残りについて考えなくてはならない。
国家には生き残り本能がある。新帝国主義のゲームのルールも、帝国主義と同様に「食うか、食われるか」だ。日本国家としては、自国と自国民が食われることがないように総力を結集しなくてはならない。
(引用終わり。以上、「日本国家の神髄」のまえがきより)
この後に、「日本の国家体制を強化する思想が必要なのである。その思想は、現実に役立たなくてはならない。日本国家と日本国民の生き残りに資する思想でなくては意味がない」と続けて、『国体の本義』という書物の研究に入っていくわけだが、そこで述べられた皇室中心の国体がはたしてこれからの日本にとっての最適解かどうかは問題だろう。ただし、それも解の一つである、というのは心情左翼の私も認める。つまり、日本の歴史は天皇を中心とした歴史であり、歴史の転回点で天皇の存在が大きな意義を持ってきた、というのは確かである。そして、政治的「権力」を持たない天皇が、ある種の「権威」となって、揺れ動く社会のバランスを取る重心のような存在になってきたというのは、世界史的にみてもまったくユニークであり、あるいはこれは日本という国の貴重な財産ではないかと思っている。
しかし、そういう皇室尊重の姿勢が行きすぎて「国家神道」まで復活されると、これはまた最悪の事態であるとも思う。すなわち、国民全員がマインドコントロールされた社会は、確かに「国家維持」や「国家生き残り」の面では有効だろうが、それが国民にとって幸福な社会だとは言えないだろう、ということだ。もちろん、明治から昭和前半までの天皇支配下(実質的には天皇を神輿とした官僚支配だが)の社会でも国民はマインドコントロールされながらも幸福であったと考えることもできる。それはカトリック支配の西欧中世でも同様だろう。いや、マインドコントロールの無い社会は存在しない、とも言える。では、そういう社会を容認するべきか?
山上たつひこが初期の短編「光る風」で描いたように、争闘の無い究極のユートピアは社会構成員全員が同じ思想になることである。つまり、まったくの機械になることだ。言い換えれば「時計仕掛けのオレンジ」になることである。それは為政者が望むユートピアだ。だが、そんな社会での人間は、生きた人間ではない。
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