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徽宗皇帝のブログ

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日本の少子化を考察する(笑)
「マガジン9」所載の、インターネットニュース配信会社「デモクラTV」社長のインタビューの一部である。長い記事なので、「権力がいかにしてジャーナリズムを利用するか」に話を絞った。山田社長は自分のこの苦い経験から、真のジャーナリズムを模索してきたようである。だが、六ヶ所村の原発施設は半永久的に残る。ジャーナリズムの妄動の罪は重い。

今、山本太郎が「16年前」の強姦(当の女性の主張)事件とやらでマスコミに騒がれているが、「16年前」の、自分の名誉でもない話をわざわざマスコミに訴えた女性の話を世間が信じるかどうか。そもそも、男女がそういう関係になる時、女性から「セックスしよ」などと申し出る例はほとんどない、と私は思うのだが、そうなると、和姦のほとんどは、後では強姦認定される可能性が大である、と私は思う。もちろん、本物の暴力的な強姦事件の場合は話がまったく別だ。
まあ、こういうことがあるから、男は滅多な事では女に手を出せない。日本で独身男女が増え、少子化が進むのも当然だろう。(笑)

ところで、強姦事件の時効は何年なのかね? 時効が無いにせよ、「16年前」の話に、いったいどういう証拠が出せるのだよ。まさか、その時の「体液」をまだ体内に保存していたとでも言うのか。(笑)当人が証言すればそれで「強姦事件確定」だとすれば、何とも恐ろしい話である。



(以下引用)*赤字部分は、言うまでもなく徽宗による強調。




●新米記者の苦い経験がジャーナリストとしての出発点
───山田さんご自身のことをお聞きします。ジャーナリストとしての山田さんの出発点は、大学を卒業されて朝日新聞に入社した時からでしょうか?
 私は関西の大学を卒業後、大阪の毎日放送に入社しましたが半年で辞め、朝日新聞社に入社。すぐに青森支局に配属になり5年いました。そこでいわゆる警察担当のサツまわりを2年、それから市役所の担当を2年、教育担当を1年、最後に県政担当を1年やりました。
 青森県は、ちょうどその頃、「原子力船むつ」の関係(※1)でおおいに揺れていましたね。それだけでなく、今の六ヶ所村の問題につながるむつ小川原開発計画や核燃料サイクル(※2)のこと、自衛隊の泊射撃場の問題、また農政も冷害のため収穫量が少なくて大変でした。厳しい気候条件のため、冬になると多くの人が出稼ぎにいく。当時の青森はそのような場所でした。
 新米記者の私は、サツまわりをやっていましたから、エネルギー問題なんて書ける立場にはありませんでした。でも、六ヶ所村関係で、警察がらみでも何か書きたいなと思って、休日に青森市から六ヶ所村まで自転車で往復したことがあります。まだ、車を持っていなかったので。
※1 「原子力船むつ」:日本初の原子力船として、1968年に着工。青森県むつ市大湊が母港だったが、太平洋沖での度重なる放射能漏れにより、住民・漁民らの大規模な反対運動が起こり帰港できず、16年に渡り日本の港を彷徨って改修を受ける。その後、新設されたむつ市関根浜に回航。原子炉部分は撤去された。
※2 むつ小川原開発計画や核燃料サイクル:1960年代より、六ヶ所村を中心とする一体に石油化学コンビナートや製鉄所などを主体とする臨海工業地帯を整備する開発計画が持ち上がった。しかし実現できず、代わりに大規模な原子力関連施設が進出することになった。現在の六ヶ所にある核燃料サイクル施設もその一つである。
───えっ、自転車でですか? 青森市内から六ヶ所村まで、かなりの距離ですよね。
 100キロぐらいありますかね。夜、青森市を出発して深夜に陸奥湾に面した漁場の小屋で仮眠して、朝日の中、またこぎ出すということをやってました。若かったね(笑)。特ダネを自分の力で見つけたい、という思いがあったんでしょう。そう、一生懸命やっていたんですね。
 そのころ、僕は、当時の青森市長の実弟が、収賄罪によって逮捕されたという記事を他に先駆けて書きました。いわゆるスクープです。市の議事堂を建てる時に、口利き代として、設計会社からお金をもらっていたんですね。警察は逮捕をしたのですが、それを発表しなかった。でも、僕が書いたことによって、青森市長は責任をとって辞任をしたのです。この市長は自民党を抜けて革新政党と組んで当選した人で、青森県では革新首長の中心にいた人でした。
 ちょうど同じ頃、六ヶ所村でも村長選挙がありました。いわゆる六ヶ所村の開発賛成、反対をめぐって対立をしていて、現職の革新村長は反対をしていた。しかし、僅差で開発賛成派の村長が当選。結局、青森市長の辞任をめぐるゴタゴタで、革新グループの足並みが揃わず、また選挙応援も六ヶ所村まで手が回らず、そのような結果になったのです。
 その後、親しい警察官に言われました。「担がれたね。あれは、六ヶ所村の村長選挙を見据えてやった捜査だったんだよ」と。
───え! そういうことだったんですか?
 僕としては「スクープ記事を書いてやった」と思っていたのに…まんまと「担がれた」というわけです。
 その時の青森県警捜査2課長が、漆間巌(うるまいわお)氏です。元警察庁長官で麻生内閣の内閣官房副長官でしたね。検事は、服部三男雄(はっとりみなお)氏で、自民党の国会議員にもなった人です。強引な捜査を指示した県警本部長の安田修氏は、山っけのある人で、革新つぶしで手柄をとりたいと思っていた、と現場の警察官は言っていました。
 新聞記者としていい仕事をしたと思っていたのに、結局は、彼らの手の上で踊らされていたんだなということがわかりました。己の功名心のために、どこか冷静さを失っていたというか…。これが僕の一生の不覚であり、今につづくジャーナリストとしての原点でもあります。
───そんなことがあるんですね。たしかに、六ヶ所村の当時を知る人から話をお聞きすると、様々なやり方で「反対派」の分断が行われたそうですから…。
 新聞記者やジャーナリストは、客観的な立場に立っているつもりでいるかもしれないけれど、実はまっ暗闇の中にいて、我々の知らないところで、いつの間にか大きな動きの中に乗せられてしまっている、ということがあるんです。


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