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徽宗皇帝のブログ

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昭和天皇の戦争への関与の問題
「播州武侯祠遍照院」から抜粋転載。
「天皇の陰謀」という本の翻訳からの転載のようである。この本は或る外国人の手になるもののようだが、その一部を読んだだけでも、日本の現代史に関する重要著作であると判断してよさそうだ。
私自身は「尊皇主義者」であり、天皇の存在を活かすことしか、今の悲惨な日本を救う道は無いのではないか、と思っているが、昭和天皇が大東亜戦争(「太平洋戦争」よりは、この言い方の方が、あの戦争の性質を明確に示していると思う。)を主導したことには疑問の余地は無い、と思っている。だが、それと同時に、日本の戦後支配のためにマッカーサーが天皇を免罪し、天皇制を「象徴天皇制」として残したことは、最高に賢明な歴史的判断だったと思う。もちろん、それらの決定が今に続く米国の「属国」としての日本の運命(さらに言えば、犯罪を犯しても便宜により処罰を免れるという社会全体の「無責任」体制)を決めたのではあるが、それは、当時の日本人にとっては最高に幸福な運命だったのである。ただし、今の米国による日本からの富の収奪は目に余るものがあり、もはや属国でいることにはデメリットしかない、という状況の変化が起こっている、というのはもちろんだ。或る時期に長所であったことが、時代が変われば短所となるわけである。
日本史を概観して言えることは、天皇が政治の表に出た時期には日本は大きな戦乱に巻き込まれた、ということではないだろうか。もちろん、戦国時代のように、天皇とはほとんど無関係に起こった戦乱の時代もあるが、天皇自身が政治的野心を抱くとロクなことはない、ということは確実なようだ。大東亜戦争もその一つであり、この戦争の原因のひとつには、天皇自身の戦争への傾斜があったことは確かだろう。だが、天皇を「現人神」の座から降ろし、「人間天皇」、そして「象徴天皇」へと変えたことで、天皇という存在は日本にとって無害なものとなった。しかし、その権威は今上天皇の稀有の人格によって保たれている。これこそが、本来の天皇のあるべき姿である、と私は思う。できれば、こうした存在を日本の幸福のためにもっと活かす道はないのか、というのが私が常々考えていることである。
なお、この本の中には、心情的感覚的な「天皇好き」の人間にとっては耐え難い内容も多々含まれているようだから、そういう人々にはけっしてお勧めはしない。歴史の事実を冷徹に考究したい、という人々にとってはおそらく必読の書だろう。


(以下引用)


 こうした話から私が確信することは、裕仁が、少なくとも、そのように見せようとしているような、素直な歴史の被造物なぞでは決してないということである。彼の侍従の話では、彼は、強力な独裁制の主唱者として登場してきたという。彼は、卓越した知性の持ち主とも言われている。1945年までは、彼は、政府のあらゆる詳細に明るく、すべての分野の官吏と逐一協議しており、常時、世界情勢についての全体的視野を保持していたという。彼の、民事、軍事、宗教上の力は、絶対的なものと受け止められておりながら、彼はそれをただ儀礼的に、かつ国務大臣の推奨を追認するのみで執行していたとも言われている。また、どの話の中でも、彼は常に大臣の構想に遅れを取らずに助言を与え、そして、彼が受け入れられるような推奨案へと舵取りしていたことが次々と語られている。また、時には、反対する見解をも採用し、少数意見も受け入れ、あるいは、ひとつの推薦案を丸々無視したとすらも認められていた。
 私は、調査の最初までさかのぼり、すべてをやり直さなければならないことを覚った。裕仁天皇は、米国との戦争の布告に署名をしていた。それは、彼の意思にはそわずにされたものと言われていたが、戦争開始数ヶ月後の、近衛首相の退陣までに作成された記録には、そうした記述は残されていない。また、もし彼が戦争を差し止めようとしたならば、暗殺されたかもしれないとも言われている。しかし、こうした主張は、こじつけのようである。というのは、兵士も将校もすべて、天皇のために死ぬ備えをしており、彼を暗殺するほどにかけ離れた日本人は、戦争に反対の西洋化した銀行家や外交官だけであったからである。
 裕仁天皇は、1937年、軍隊を華北へ送る命令に判を押した。これも後に、意思にそわずに行われたものと言われ、また、その二ヵ月後には、華中、華南へ出兵する命令にも判を押した。彼は参謀本部の躊躇した「軍国主義者」の忠告に従い、華南の命令の執行を不本意に延期した。彼は、戦局を自ら掌握できるよう、皇居のなかに、大本営を設置した。当時の首相が天皇のあまりな傾倒に苦言を呈しているように、彼は戦争計画に没頭するようになった。そして遂に、彼の伯父は、中国の首都、南京攻撃の命令を引き受け、南京のあるホテルに居を移し、彼の軍隊が、10万人を超える無防備の軍民双方の捕虜を殺しているのを傍観していた。それは、第二次大戦でおこなわれた最初の集団虐殺で、この伯父が東京に戻った時、裕仁は、自らでかけて、伯父への名誉の勲章を与えた。
 それをさかのぼる1931年から32年、裕仁は、満州領有に許可を与えた。これも後になって、不承々々のものとされたが、彼は、自らが代表する天皇の統帥機関により生じた企ての全的責任を負うことに躊躇していた、と当時の記録は明確に記録している。そしてふたたび、この領有が完了した時、彼はその実行者たちに勲章をあたえ、その大将を自分の侍従武官兼軍事輔弼〔ほひつ:天皇への助言者〕の主席にさせている。
 こうした明白な諸事実より、天皇裕仁の行為と、後年、彼について語られた言葉との間には、大きな食い違いがあると結論付けうる。私は、資料文献を読みながら書き留めたノートのすべてを見直しかつ再考察し、日本の近世の歴史は、第二次大戦以来提起されているように、一部、参謀本部の逆諜報専門家や、一部、皇室取巻きの上層部によって、戦争末期に捏造された幻想に巧に由来している、と確信するようになった。
 こうした日本の表向きの物語は、何度も、すでに生じていたことがその結果にように引き合いに出され、論理的に逆転している。偶然な出来事や自然発生した大衆行動が、高官レベルで、それに先立つ数ヶ月あるいは数年前に、実際に議論されていたことを、その時々の資料は、一度となく示している。天皇の主席政治輔弼、内大臣(訳注)は、慣例のように次期首相を任命し、現職首相の職が危ういような政府の危機の際には、それに先立つ数週間ないし数ヶ月間は、「彼の特務期間」と呼ばれた。そのやり取りは記録として残されてもおり、その中で内大臣は、続く二代の政府の組閣構成やその成果を、正確に見通している。

(訳注)1885年(明治18年)内閣制度創設の時、宮中に設けられた重職。天皇の側近に奉仕して皇室・国家の事務について常侍輔弼の任に当たり、御璽・国璽〔天皇や国の判〕を尚蔵し、詔書・勅書、その他内廷の文書および請願に関する事務をつかさどった。1945年廃止。【広辞苑より。〔〕は訳者による】



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