「東海アマ」ブログ記事で、勉強家のアマ氏らしく、経済学についても立派に弁じていて、その言説の8割くらいは傾聴に値すると思う。2割くらいは僻見と誤解だろうが、全体を読む価値は十分以上にあると私は思うし、実に分かりやすいので、経済学の初心者にお勧めである。
マルクス経済学を私はよく知らないが、ここに書かれた内容が事実なら、マルクスというのは馬鹿だとしか思えない。その論証をする。
1: マルクスは、商品の価値はその生産に費された労働の量によって決まる、という古典派経済学の労働価値説を認めた。
2: マルクスによれば、商品は二つの価値、「使用価値」と「交換価値」を持っている。
ということで、これが白痴的言説であるのは一見して分かるだろう。1と2は明白に矛盾している。2の「使用価値」と「交換価値」のどれも、「その商品に費やされた労働の量」とは無関係であるのだから。1自体がナンセンスであり、無能な画家が一生をかけて制作した絵も、ピカソやダリが数秒で描いたいたずら描きの足元にも及ばないのである。これは東海アマ氏の間違いではないと思う。この二つの言説は私も聞き覚えがあるからだが、こうして並べることでその愚かしさが明示化されただけである。2は正しいというか、卓見だと思うが、1はマルクス経済学の根幹である「労働者からの搾取」の土台なのでマルクスはこれを自分の経済学に入れる必要があったわけだ。
(以下引用)
ここで、それを前提にしたマルクス主義経済学の原理にかすかに触れる。
マルクスは、商品の価値はその生産に費された労働の量によって決まる、という古典派経済学の労働価値説を認めた。そして、労働力の概念を用いて「剰余価値説」を打ち立てた。
資本家と労働者の間で売買されるのは労働ではなくて労働力であり、資本家は労働力を使って賃金分を越える価値を生み出す。
その超過分である剰余価値こそ資本の利潤の源泉=資本主義の本質であることを明らかにした。
マルクスによれば、商品は二つの価値、「使用価値」と「交換価値」を持っている。
これは、文明草創期においてはまったく同じ重さの価値なのだが、「商業と金融」の生成によって、交換価値が使用価値を上回ってゆく。
交換価値とは、使用価値と剰余価値を足したものだ。これが、商業と金融のシステムを通じて膨らんでゆき、商人と金貸しの懐を、必要以上に豊かにする仕組みが、資本主義の本質である。
新約聖書に、イエスが市場でパリサイ人の金融=金貸しが利息をとること……を見て「マムシの子ら」と激怒し、殴り込みをかけるシーンがたくさん出てくるが、ユダヤ教では、「利息をとってはならない」つまり、「剰余価値を作ってはならない」と定めているのに、パリサイ人が銀行業務を通じた剰余価値で膨れ上がってゆく姿を見て怒り狂ったわけだ。
この意味で、イエス・キリストは、最初のマルクス主義者だったといえるかもしれない。
マルクス主義は、結局のところ、剰余価値を適切にコントロールできる労働者階級の権力=共産主義が人類を救うことになると結論づけるのだが、残念ながら、マルクスは、人間組織が膨れ上がり、権力と組織内差別の構造性が成立することで、共産主義権力が特権階級化し、かつてのソ連邦や、今の中国共産党のような独裁権力の利権共同体に変化して、差別の下層を搾取する強固な構造に至る必然性を理解できなかったと私は考えている。
これに対し、ケインズは、社会革命を主張したわけではないが、マルクス経済学から多くを学び、自らの視点で、経済活動の原理を明らかにしている。
ケインズ経済学の根幹は、需要である。
経済は、需要によって成立する。古典経済学=セイの法則では、逆に供給によって経済活動が定まると考えられた。
「ものを作って、商品が生みだすから、売れて金が儲かる」ことが経済であるというのが、初期資本主義の価値観だった。
これに対して、ケインズは、
「違うんだよ、あれが欲しい、これが欲しいという欲求が商品需要を生成し、これに答えて商品を生み出すことで経済が始まる」
とその本質を明らかにした。
フリードマンや竹中平蔵の現代新自由主義は、ケインズを否定し、古典経済学に立ち戻って、「資本家が商品を作ることが経済を作る」という価値観に回帰しているともいえる。
これは、恐慌=不景気になったとき、そこから脱出するための方法論に決定的な違いが出る。
ニューデール大恐慌からの回復をめぐって、ケインズは、「需要を生み出すため、底辺の労働者階級に購買力を与える」施策を提起した。
しかし、当時の資本家たち(共和党)の大半は、労働者を富ませることは、奴らをつけあがらせることだ……と決めつけ、大反対した。
ルーズベルトはケインズを評価し、社会投資(財政投資)=「労働者の仕事を作る」、「銀行の貸出金利を引き下げる」という政策を実現しようとした。
結局、資本家たちの強硬な反対姿勢のため、ケインズの提案はうまくゆかなかったが、そこで、ケインズは「戦争が究極の需要を生み出す」と大統領に吹き込んで、太平洋戦争に誘導した。
日本軍を暴走させ、偽旗作戦の真珠湾攻撃で戦争に誘い込んだ背後には、ケインズらの思惑があった。
結局、この作戦は大成功し、戦後(1950年代)アメリカは史上最大の繁栄に至った。
アメリカの歴代政権が戦争に執着する事情は、これが景気を支える本質=需要を生み出すからである。
同時代、第一次世界大戦で敗北したドイツは、最悪の不況に陥り、国民は貧苦を極めたが、ヒャルマル・シャハト経済相は、アウトバーン建設という巨大な社会資本投資によって、労働者の仕事を作り出すことで、彼らを富ませ、ドイツ経済の需要を劇的に飛躍させ、見事に経済を再興させてみせた。
これも、「需要こそ経済の本質」というケインズ理論の正しさを証明している。
シャハトの経済政策の要は、労働者に対し、国家が直接、賃金を支給したことだった。
これは、支給途中に企業を介在させると、必ず竹中平蔵のような「中抜き野郎」が登場して、労働者に金が行き渡らないからである。
「貧しい労働者が直接、豊かになること」が経済復興の本質だったのだ。
こうした「需要が経済を作る」というケインズ理論からすれば、最悪の選択が消費税導入である。
消費税こそは、消費罰金税であり、需要抑圧税なのだ。これで自民党が30年前から行ってきた消費税のせいで、日本経済が沈没したまま復帰できないことの本当の理由を理解することができる。
実は、岸田政権も含めて、自民党は、竹中平蔵の新自由主義屁理屈を信奉し、未だに100年前の「セイの法則」に固執して、「大企業を富ませることで、商品を供給しやすくすれば景気が回復する」
という、とんでもないピンボケのゴミ理論に洗脳されたままであり、消費税を廃止すれば、たちまち日本経済が劇的に回復するにもかかわらず、それがまったく見えないのだ。
ここで、現在見える経済評論家のなかで、数少ないマシな人物である加谷珪一の今朝の記事を紹介する。
また負担増なの…? 盛り上がる「増税議論」、所得税・消費税じゃなく、まず「法人税」を上げるべき理由 現代ビジネス 11月17日
マルクス経済学を私はよく知らないが、ここに書かれた内容が事実なら、マルクスというのは馬鹿だとしか思えない。その論証をする。
1: マルクスは、商品の価値はその生産に費された労働の量によって決まる、という古典派経済学の労働価値説を認めた。
2: マルクスによれば、商品は二つの価値、「使用価値」と「交換価値」を持っている。
ということで、これが白痴的言説であるのは一見して分かるだろう。1と2は明白に矛盾している。2の「使用価値」と「交換価値」のどれも、「その商品に費やされた労働の量」とは無関係であるのだから。1自体がナンセンスであり、無能な画家が一生をかけて制作した絵も、ピカソやダリが数秒で描いたいたずら描きの足元にも及ばないのである。これは東海アマ氏の間違いではないと思う。この二つの言説は私も聞き覚えがあるからだが、こうして並べることでその愚かしさが明示化されただけである。2は正しいというか、卓見だと思うが、1はマルクス経済学の根幹である「労働者からの搾取」の土台なのでマルクスはこれを自分の経済学に入れる必要があったわけだ。
(以下引用)
ここで、それを前提にしたマルクス主義経済学の原理にかすかに触れる。
マルクスは、商品の価値はその生産に費された労働の量によって決まる、という古典派経済学の労働価値説を認めた。そして、労働力の概念を用いて「剰余価値説」を打ち立てた。
資本家と労働者の間で売買されるのは労働ではなくて労働力であり、資本家は労働力を使って賃金分を越える価値を生み出す。
その超過分である剰余価値こそ資本の利潤の源泉=資本主義の本質であることを明らかにした。
マルクスによれば、商品は二つの価値、「使用価値」と「交換価値」を持っている。
これは、文明草創期においてはまったく同じ重さの価値なのだが、「商業と金融」の生成によって、交換価値が使用価値を上回ってゆく。
交換価値とは、使用価値と剰余価値を足したものだ。これが、商業と金融のシステムを通じて膨らんでゆき、商人と金貸しの懐を、必要以上に豊かにする仕組みが、資本主義の本質である。
新約聖書に、イエスが市場でパリサイ人の金融=金貸しが利息をとること……を見て「マムシの子ら」と激怒し、殴り込みをかけるシーンがたくさん出てくるが、ユダヤ教では、「利息をとってはならない」つまり、「剰余価値を作ってはならない」と定めているのに、パリサイ人が銀行業務を通じた剰余価値で膨れ上がってゆく姿を見て怒り狂ったわけだ。
この意味で、イエス・キリストは、最初のマルクス主義者だったといえるかもしれない。
マルクス主義は、結局のところ、剰余価値を適切にコントロールできる労働者階級の権力=共産主義が人類を救うことになると結論づけるのだが、残念ながら、マルクスは、人間組織が膨れ上がり、権力と組織内差別の構造性が成立することで、共産主義権力が特権階級化し、かつてのソ連邦や、今の中国共産党のような独裁権力の利権共同体に変化して、差別の下層を搾取する強固な構造に至る必然性を理解できなかったと私は考えている。
これに対し、ケインズは、社会革命を主張したわけではないが、マルクス経済学から多くを学び、自らの視点で、経済活動の原理を明らかにしている。
ケインズ経済学の根幹は、需要である。
経済は、需要によって成立する。古典経済学=セイの法則では、逆に供給によって経済活動が定まると考えられた。
「ものを作って、商品が生みだすから、売れて金が儲かる」ことが経済であるというのが、初期資本主義の価値観だった。
これに対して、ケインズは、
「違うんだよ、あれが欲しい、これが欲しいという欲求が商品需要を生成し、これに答えて商品を生み出すことで経済が始まる」
とその本質を明らかにした。
フリードマンや竹中平蔵の現代新自由主義は、ケインズを否定し、古典経済学に立ち戻って、「資本家が商品を作ることが経済を作る」という価値観に回帰しているともいえる。
これは、恐慌=不景気になったとき、そこから脱出するための方法論に決定的な違いが出る。
ニューデール大恐慌からの回復をめぐって、ケインズは、「需要を生み出すため、底辺の労働者階級に購買力を与える」施策を提起した。
しかし、当時の資本家たち(共和党)の大半は、労働者を富ませることは、奴らをつけあがらせることだ……と決めつけ、大反対した。
ルーズベルトはケインズを評価し、社会投資(財政投資)=「労働者の仕事を作る」、「銀行の貸出金利を引き下げる」という政策を実現しようとした。
結局、資本家たちの強硬な反対姿勢のため、ケインズの提案はうまくゆかなかったが、そこで、ケインズは「戦争が究極の需要を生み出す」と大統領に吹き込んで、太平洋戦争に誘導した。
日本軍を暴走させ、偽旗作戦の真珠湾攻撃で戦争に誘い込んだ背後には、ケインズらの思惑があった。
結局、この作戦は大成功し、戦後(1950年代)アメリカは史上最大の繁栄に至った。
アメリカの歴代政権が戦争に執着する事情は、これが景気を支える本質=需要を生み出すからである。
同時代、第一次世界大戦で敗北したドイツは、最悪の不況に陥り、国民は貧苦を極めたが、ヒャルマル・シャハト経済相は、アウトバーン建設という巨大な社会資本投資によって、労働者の仕事を作り出すことで、彼らを富ませ、ドイツ経済の需要を劇的に飛躍させ、見事に経済を再興させてみせた。
これも、「需要こそ経済の本質」というケインズ理論の正しさを証明している。
シャハトの経済政策の要は、労働者に対し、国家が直接、賃金を支給したことだった。
これは、支給途中に企業を介在させると、必ず竹中平蔵のような「中抜き野郎」が登場して、労働者に金が行き渡らないからである。
「貧しい労働者が直接、豊かになること」が経済復興の本質だったのだ。
こうした「需要が経済を作る」というケインズ理論からすれば、最悪の選択が消費税導入である。
消費税こそは、消費罰金税であり、需要抑圧税なのだ。これで自民党が30年前から行ってきた消費税のせいで、日本経済が沈没したまま復帰できないことの本当の理由を理解することができる。
実は、岸田政権も含めて、自民党は、竹中平蔵の新自由主義屁理屈を信奉し、未だに100年前の「セイの法則」に固執して、「大企業を富ませることで、商品を供給しやすくすれば景気が回復する」
という、とんでもないピンボケのゴミ理論に洗脳されたままであり、消費税を廃止すれば、たちまち日本経済が劇的に回復するにもかかわらず、それがまったく見えないのだ。
ここで、現在見える経済評論家のなかで、数少ないマシな人物である加谷珪一の今朝の記事を紹介する。
また負担増なの…? 盛り上がる「増税議論」、所得税・消費税じゃなく、まず「法人税」を上げるべき理由 現代ビジネス 11月17日
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