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徽宗皇帝のブログ

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権利の上に眠っていた国民の末路
「晴耕雨読」から転載。
中身の濃い対談だが、特に前半に語られた「公職選挙法」の問題は、本来ならもっと前に解決しておかなければならなかった問題だろう。たとえば「供託金」のために、志のある人間が選挙に出られないという問題もある。その中でも一番の問題は「選挙公報」でしか候補者の政見が分からない、という問題だ。その「選挙公報」自体が、どこで見られるのかも分からない。各家庭に郵送されることになっているのか? 昔(私の子供時代)はそうだったように思うが、私はここ数十年、自分の家に郵送されたそれを見た記憶が無い。つまり、我々は候補者の政見を知らないままで投票するように強いられているわけである。これでは、候補者の属する政党が何かで投票するしかないが、マスコミが一部の政党に肩入れし、その政党に有利な情報を流し続けていれば、国民はそれに誘導されるだけである。
これが現在の選挙の状況であり、それに加えていざとなれば「不正選挙」もありだ、となれば、この国から民主主義はとっくに滅亡したと見るしかないだろう。
「霜を踏みて堅氷至る」とは「易経」にある言葉だが、現在の災厄は一朝一夕に現れたものではなく、前々からの蓄積が大きくなり、現在のような最悪の状況になったのである。
国民が「権利の上に眠っている」と、その権利(民主主義)はやがて奪われるぞ、という丸山真男の警告は、いわば予言として実現したわけだ。




(以下引用)

2013/7/17

「鈴木邦男×想田和弘「この国はどこへ向かっていくのか」その1:「寛容」と「謙虚」を失ったニッポン」  憲法・軍備・安全保障
2013-07-10up
マガ9対談:鈴木邦男さん(作家・評論家)×想田和弘さん(映画作家)「この国はどこへ向かっていくのか」その1:「寛容」と「謙虚」を失ったニッポンから転載します。

この夏、全国で公開中の映画、想田和弘監督の『選挙2』。ある地方議会選挙の様子を通じて、日本の政治の、そして社会の「今」を焙り出す内容に、 注目が集まっています。自民党圧勝との報道が続く参院選を経て、この国はどこに向かっていくのか。私たちは、それに対して何ができるのか。想田監督と、連載コラム「愛国問答」でおなじみ鈴木邦男さんとの対談から考えます。


鈴木 邦男(すずき・くにお)1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

想田 和弘(そうだ・かずひろ)映画作家。ニューヨーク在住。台本やナレーションを使わないドキュメンタリー「観察映画」作品に『選挙』(07年)、『精神』(08年)、『Peace』(11年)、『演劇1』『演劇2』(12年)がある。最新作『選挙2』が全国で公開中。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画』(岩波書店)がある。「マガジン9」では『映画作家・想田和弘の「観察する日々」』を連載中。公式サイト:映画作家・想田和弘 OFFICIAL WEBSITE
●選挙制度は、「有権者が関心を持たないように」つくられている

編集部  自民党圧勝の衆議院選挙から半年あまり。そして、参議院選挙ももうまもなくです。そんな中で公開中の想田さんの最新作『選挙2』は、東日本大震災直後の2011年4月に実施された川崎市議会選挙の様子を、完全無所属で出馬した「山さん」こと山内和彦さんを中心に追ったドキュメンタリー映画ですが、まずこれをごらんになっての鈴木さんの感想からお聞きできますか。

鈴木  この、(ポスターにある)街頭で防護服を着て演説するシーンが面白かったですね。どう見ても勝てそうにない闘いなんだけど(笑)、よくここまでやったなあ、と思って。
 あと、公職選挙法ってくだらない規定がいっぱいあるんだなあと思いました。
 よく駅前で、ビラも配らずにひたすら「おはようございます、○○です」ばっかり繰り返してる候補者を見て、「なんだこいつら」と思ってたんだけど、あれは法律に従って行われているものなんですね。有権者は誰もそんなこと知らないんじゃないですか。

想田  候補者の1人が、「本当なら政策をきっちり書いたビラを配りたいけれど、公職選挙法で禁じられている」とカメラの前で訴えるシーンですね(※1)。

編集部  候補者の選挙カーが名前だけを連呼して走っていくシーンも何度も出てきますが、あれも公職選挙法で、走りながら政策を訴えることはできないようになっていると聞きました(※2)。

※1…公職選挙法142条で、地方議会選挙における頒布物は葉書のみとなっており、ビラは含まれないので配布できないとされている。
※2…公職選挙法141条の規定では、走行中の自動車の上からの「選挙運動」は禁止、ただし「選挙運動のための連呼行為」は許される、となっている。

想田  なんだかすごいことになっていますよね(笑)。公職選挙法というのは多分、有権者が政策や主張や人柄で候補者を選ぶための選挙制度を想定していない。むしろ、そういう選挙制度にしないための規定なんだと思います。
 例えば、選挙ポスターは税金を使ってつくられてるわけですけど、よく考えるとあれって、候補者の政策も主張も何も伝えてないですよね。それを伝えようとしたのが、政策提言を細かく書いた今回の「山さん」のポスターなわけですけど(笑)、普通の選挙ポスターには顔写真の他に名前と党名とキャッチフレーズくらいしか書いてませんから、それを投票先を選ぶための材料にするというのは実はすごく不条理です。でも、その不条理を当然のように制度化したのが今の選挙システムなんですよね。
 じゃあ、その他に候補者から政策を聞いたり、議論したりする場が設けられているかといったらそれもない。選挙公報と政見放送くらいですね。僕は川崎の市議選を2度観察しましたけど、一度も候補者同士の討論会は開かれませんでした。つまりは、構造的に政治や政策についての議論が起きないように、有権者が関心を持たないように、選挙制度がつくられているんだと思います。

鈴木  候補者同士が市民会館などに集まって討論する会というのは、昔はよくあったんですよ。社会党の委員長だった浅沼稲次郎が、選管などが主催した立会演説会で刺殺されるという事件があって以来、行われなくなってしまったようです。警備上の都合などがあるようですが、今もどんどんやったらいいのになあ、と思いますね。外国には選挙カーもないというし、立会演説会や討論会をちゃんと開けば、かわりに選挙カーを走らせるのを禁止したって十分選挙はできますよね。ネットでの選挙運動も解禁されたし、そのほうがうるさくなくていいかもしれないですよ。
 あと、想田さんが自民党のある候補者にカメラを向けていると、本人や周囲の選挙の運動員が「撮るな」と制止しようとするシーンもありましたけど、あそこまでよく出しましたね。あんなものを公開して訴えられるとかいうことはなかったんですか。

想田  今のところはないですけど、あり得ますね。すでにあれを撮ったその日、党の顧問弁護士から文書が来て「あのシーンは使うな」と要求されました。でも使ったんですけど(笑)。

鈴木  彼らは個人情報保護だとか言っていたけど、選挙なんだからね。誰にでもオープンにすべきものでしょう。盗み撮りしたわけじゃないんだし。

想田  はい。たすきを掛けて拡声器を使って演説していて、プライバシーも何もないだろう、と。しかも、それは税金を使って行われているわけで…弁護士とも相談したんですけど、訴訟になっても負けるはずはないし、ここで自主規制しちゃまずいな、と思ったんです。
 で、当の自民党が出してきた改憲案では、表現の自由を定めた憲法21条も骨抜きにされてますけど、ああいうシーンを出せるということこそがまさに表現の自由が守られている、憲法が生きているということだと思うんですね。今はまだ、憲法がちゃんと僕たちの権利を守ってくれている。それなのに自主規制してしまったら、自分から表現の自由を放棄して、自民党の改憲案を事実上認めてしまうことにもなる。だからここは恐れずに出して、もし物言いがついたら、憲法を使ってちゃんと反論しよう、憲法上認められている権利をちゃんと行使しようと思ったんです。表現の自由が憲法上は保障されていても、それを使わなかったら意味ないんですよ。
●「右翼」「左翼」というレッテル貼り

編集部  さて、改憲についてのお話も出ましたが、ここからはそれも含め、今の社会や政治状況のお話に移っていきたいと思います。

想田  まず、僕が鈴木さんにお聞きしたいのは、最近よく言われる「日本社会の右傾化」についてです。イメージとしては多分、在特会(※)に代表されるような排外主義、教育現場で日の丸・君が代が強制されるといった全体主義、あと例えば安倍首相が「国防軍をつくる」と言っているような、軍事化というかマッチョイズムのようなもの。そうしたことを指して「右傾化」と呼んでいると思うんですね。
 で、「右翼」を自称している鈴木さんからすれば、本来は社会の「右傾化」は望ましいことになるはずだと思うんですけど、どうもそうではないような気がします(笑)。こうした「右傾化」と言われる現象は、そもそも本当に右翼思想と関係があるんでしょうか。

※在特会…在日特権を許さない市民の会。日本社会において在日コリアンが不当な「特権(在日特権)」を得ていると主張し、その撤廃を目標に掲げる市民団体。各地でデモや街宣活動を展開してお り、その中では「在日を殺せ」「朝鮮人を叩き出せ」といった過激な排外主義的発言も多く見られる。

鈴木  いや、無縁だと思いますね。在特会も、あれは右翼ではまったくない。そもそも、右翼の世界には民族差別はないですよ。以前から、「日本と韓国と台湾は共産主義に対して連帯して戦わなきゃいけない」といった反共インターナショナリズムが、ナショナリズム以上に強いですから。在日コリアンで右翼団体に入っている人も何人もいますよ。一水会にもいました。
 それから、日の丸・君が代や国防軍の話の前に言っておくと、実は僕は自分で右翼だと名乗ってるわけじゃないんです(笑)。

想田  あれ、そうなんですか。

鈴木  そう。テレビなどに出るときは、「この人は右翼です」と説明が入るんですけど、自分で名乗ることはありません。

想田  でも、否定はなさらないですよね。

鈴木  そうですね。あだ名みたいなものだし、いちいち訂正するのも大変だから「まあいいや」と。勝手に何とでも呼んでくれ、と思っています。
 そもそも、大学時代に政治団体に入ったときも、僕は自分が右翼になったという意識はなかったんですよ。学内で、あまりにも左翼の学生団体が横暴だから、それに対抗して自由を求めて闘うんだ、という感覚だった。今でも、自分は右翼だとかいうつもりはなくて、左右の全体主義に対して闘ってるんだと思っているんですよ。なかなか理解されないんですけど(笑)。
 本来は、人にはそれぞれ、いろんな問題についていろんな考え方がある。原発について、TPPについて、憲法について、夫婦別姓について、意見はみんな違うはずです。でも、テレビ番組などは、それだと大変だから、「この人は右翼」「この人は左翼」とレッテルを貼る。そうすると楽じゃないですか。見てる人もそのほうが安心できるし楽なんでしょうね。
●「思い上がり」よりも「自虐」のほうがずっといい

編集部  鈴木さん、「右翼」を自称されているわけではないとのことですが、「愛国者」という言い方はされていますよね。マガ9での連載コラムのタイトルも「愛国問答」ですし、『愛国者は信用できるか』というご著書もありました。

想田  鈴木さんの「愛国」ってどんなことですか?

鈴木  僕が日本という国で好きなのは、文化についても人的交流についても、非常に寛容である意味アナーキーなところなんです。
 かつては中国、朝鮮、あるいは明治維新以降は欧米と、あらゆる国々の文化を取り入れてきて。たいていの国なら多分もう、文化の洪水状態になっちゃって自分たちの文化がなくなっちゃってるんじゃないかと思うんですよ。実際、ヨーロッパなどはかなり受け入れを限定しているように思えますが、日本はそこを相当無制限に受け入れて、それでも自分たちの文化も守り続けてきたわけで。

想田  包容力がある。

鈴木  包容力と、あと咀嚼力があったということでしょう。ただ、最近は「外国人を追い出せ」みたいなデモが堂々とやられていたりと、どんどん寛容性がなくなってきている感じがしますが…。
 あと、非常に「謙虚」な文化のある国だったとも思うんですね。例えば古事記とか日本書紀とか、建国にまつわる神話を見ても、神様やその子孫の天皇が、闘ったり殺し合いをしたり、悪いこともたくさんやっている。神話なんだから、もっと立派な、きれいなだけのものにしようと思えばいくらでもできたはずなのに、そこをあえて…

想田  矛盾を含めたまま残している。弱さとか誤りをも抱擁するというか、受け入れるということですよね。

鈴木  そう。そしてそこには、神様も天皇もこれだけ過ちを犯す、ましてや我々は神でも天皇でもないんだからもっと謙虚になろうよ、という教えがあったように思うんですね。
 ところが明治維新以降、西洋列強と肩を並べて「強力な国家をつくろう」とする中で、だんだんと思い上がりが生まれて、そうした「謙虚さ」はどんどん失われていった気がします。そして今、日本人は何も悪いことをしてないとか、謝れと言うなんて反日だとか言う人が増えてきている。本来、そこでちゃんと誤りを認めて謝れるのこそが日本人だと思うんですけどね。

想田  最近、橋下(大阪)市長の従軍慰安婦をめぐる発言が波紋を呼びましたけど、その議論の中でも、彼の発言を擁護して「過去の戦争を侵略だと認めるのは自虐的だ」「売国奴だ」という声が、けっこう聞かれましたよね。それは鈴木さんからすれば、本当の意味の「愛国」とはいえない?

鈴木  だって、個人だっていっぱい失敗もあるし、「あのときああすればよかった」ということはたくさんありますよね。集団だったらなおさらですよ。それが一点の過ちもなかったかのように言い張って、過ちを指摘することが反日だなんて、おかしいですよ。それなら「自虐」のほうがずっといい。  「謝れというなんて自虐だ」という人の中には、自分自身は普段弱いけれど、国家が強くなったら自分も強くなれるかのように錯覚している人が多いような気もします。それがそもそも間違っているんですよね。
●「富国強兵」から抜け出られていない日本

想田  いま、明治維新以降に思い上がりが生まれてきてしまった、とおっしゃいましたけど、たしかにそのころから、日本はどんどん「日本的」じゃない方向に進んできてしまった、そしてその延長上に今があるんじゃないかというのは僕も感じます。
 例えばTPP。普通に考えれば、あれは日本には相当不利な条約です。TPPに参加すれば、農林水産物の4割くらいは駆逐されてしまうといわれていて、ということは僕たちが慣れ親しんできた田園風景も破壊されて、国土も荒れてしまうだろう。日本はさまざまな面で主権行使さえできなくなるかもしれない。そんな条約であるにもかかわらず、世論調査ではTPP参加を支持する人のほうが多いという結果が出ていますよね。
 なんでなのかなと考えていたんですけど、当然ながらTPPに参加すると、得もいっぱいありますよという宣伝がされているわけですが、その「得」って何かというと、関税障壁がなくなるから外国に進出しやすくなるということですよね。つまりTPP賛成派が多いということは、自分もそれによって得をする、収奪される側ではなくて収奪する側になれると期待している人が多いのかなという気がしてきて。それって実は、明治時代の「富国強兵」と同じ発想なんじゃないかと思ったんです。富国強兵も、産業を興して軍隊を強くして収奪する側に回るぞっていうことですよね。その路線が敗戦後も払拭しきれず、潜在的に残されているから、これだけTPPに対する受容的な雰囲気があるのかな、と。

鈴木  原発もそうですね。あれだけ「危ない」とわかっていながら、よその国に輸出しようとする、それでもみんな何も言わない、という。

想田  日本の精神、日本的な美徳の一つだったはずの「謙虚さ」にも大きく反しますよね。

鈴木  明治維新以降も、日清戦争くらいまではまだ謙虚な部分があったと思うんですけどね。日露戦争で勝った――本当に勝ったかどうかは別にして、勝ったということになって、そこから思い上がりが生まれたんじゃないですか。あんな不利な状況でも勝った日本は神の国だ、と。そこから、アメリカと戦争するときも、「我々は神の国なんだから」と、精神力だけで勝てるかのように暴走してしまった。今もだんだんとそうなってるんじゃないかと思うことがあります。

想田  『坂の上の雲』がブームになったりするのを見ていても、あの日露戦争「勝利」の時期に、すごく郷愁を覚える人はいるんだろうなと感じますね。
 でも、よく考えたらおかしな話ですよね。日清も日露も、勝った戦争は私たちの中にどちらかというと「いい戦争」のイメージがある気がする。一方、負けたアジア太平洋戦争は「悪い戦争」というか、基本的にネガティブなイメージ。勝った戦争はいい戦争、負けた戦争は悪い戦争と、そういう感覚がどこかにあるんでしょうか。

鈴木  僕らが学生のときも、右翼学生は「次の戦争で勝てばいいんだ」とよく言ってましたよ。

想田  戦争ってそういうものなのかもしれないですね。橋下市長も、あの慰安婦に関する暴言の中で「敗戦国として、侵略したということは受け入れなくてはならない」と言っている。翻れば、同じことをやっていても勝っていたら侵略だと認めなくていい、ともいえます。

鈴木  そうすると、もし日本があの戦争に勝っていたら、どうなってたんでしょうね。東京裁判じゃなくてワシントン裁判があって、アメリカを日本が占領して…そして、アメリカに天皇制を押しつける。今度、そんな映画を撮ってみたらどうですか。ドキュメンタリーじゃなくなっちゃうけど(笑)。

(構成/仲藤里美 写真/塚田壽子)

その2へつづきます




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