「株式日記と経済展望」の管理人氏コメントを一部転載。
昔、日本の会社とは交渉ができない、という外国の会社の話をよく聞いた。交渉役と会談をして、話がまとまったと思ったら「結論(決定)は、本社と相談してから」と日本側の交渉役が言い出し、「いったい、今までの交渉は何だったのだ。結論(決定)がその場で出せないような交渉役を日本側は何で出してくる!」と相手側を激怒させる、というような話であった。
今回の大島での台風被害の話も、最終責任者(町長)が不在で、現場での意思決定ができなかったのではないか、という風に思われる。
日本の組織の病弊の一つが、現場に決定権が与えられない、というものだ。それがしばしば大災害や大損害の原因になる。
改善方法は簡単であり、最高責任者が不在の時は次席の人間が決定権を持つ、(交渉などは決定権のある人間がやる)という原則を周知徹底すればいいだけである。戦場の軍隊ではこの原則は徹底されているはずである。戦場では一瞬でも意思決定不能という事態になれば身の破滅であるから、隊長が死亡したら副隊長が、副隊長が死亡したらその下の階級の者や古参の者が、というように意思決定権が即座に譲り渡されると思う。
自然災害に直面する、ということは、戦場にいるのと同じだ、という危機感をあらゆる自治体や国家の要路にいるひとたちはもう少し認識するべきではないか。そして、普段から危機に備えるシステムを構築しておくべきだろう。
こういう話は、本当は事故が起こってからでは遅いのだが、我々一般庶民にはどうしようもない事柄なので、「結果論」で片付けず、事後検証と今後の対策をしっかりとやっていくべきだろう。べつに大島だけの話ではないのである。
もっとも、日本の軍隊は、参謀などの軍事エリートはいかなる敗北でもまったく責任を取らないという「官僚免責組織」であったために太平洋戦争での悲惨な運命を招いたのだが、それは今の官僚支配国家日本にそのまま受け継がれているようだ。
日本の会社などにも似たところがあり、東電など、その代表だろう。東電に限らず、大会社のほとんどが「上の者の決定の責任を下っ端が取らされる」という不条理な社会だから、「半沢直樹」などが人気ドラマになったりしたのではないか。
(以下引用)
東日本大震災の時も書きましたが、あれほど大きな地震があり津波も予想できたのに、被災者たちはなぜ高台に避難しなかったのでしょうか。車で逃げて渋滞で巻き込まれた人もいますが、大災害時に車で逃げる事は渋滞で逃げられなくなることは常識です。ビルの二階以上に避難すれば助かったのにと思います。
今回の大島の土砂崩れの被害の大きさに驚きますが、火山灰地の山裾であり、大雨が降れば山崩れの危険性があるところだった。24時間に800ミリを超える豪雨が降ったのだから土砂崩れを警戒して避難すべきだったのに避難しなかった。気象庁や警察なども大島町に警戒を呼び掛けていたのに大島役場は避難指示を出さなかった。
このような非難は結果論だという事を言う人もいますが、大地震があれば大津波があるのが常識だし、記録破りの大雨が降れば山麓地域では山崩れが起きる可能性が高いのも常識だ。それなのにどうして避難しなかったのでしょうか? 大災害が予想されても「たぶん起きないだろう」という楽観論をどうしても信じてしまう。
台風が予想よりも東にそれて大島を直撃しましたが、台風が近づいているにもかかわらず大島町長と副町長は不在だった。会合があったからという事ですがどちらか一人大島に戻るべきだったのではないだろうか? 福島の原発災害の時も東電の会長も社長も不在だったことが決断の遅れになっていますが、中間管理職では責任のある判断ができない。
山崩れがあれば命の危険性があるにもかかわらず、避難命令を出せばかえって危険だという事で出さなかったという事ですが、結局は山崩れは起きないという楽観論になってしまったのだろう。防災無線も完備されていても生かされなければ意味がない。危険地域だからこそ防災無線も備えたのでしょうが、1日に800ミリの集中豪雨は山崩れは想定の範囲に入る。
結果論だから責任者の責任を追及しても意味がないという意見もありますが、大災害が起きた背景には多くの原因が重なり合っている。原因を浮かび上がらせて今後の災害に備える事が大切ですが、責任追及に偏りすぎれば責任者たちは問題点をずらしてごまかしてしまう。東日本大災害の時も大川小学校の悲劇がありますが、その時も校長が不在で決断が遅れた。
大災害の原因としては責任者の不在や誤った判断ミスがあったからですが、ではどうしたら責任者に不在の時の対応や緊急時の誤った判断ミスをしない仕組みづくりが大切です。いくら防災設備を作ったところで生かされなければ意味がない。東日本大震災の時も停電で防災警報が出されなかった。大災害が起きる時は当然停電も起きるのですが間の抜けた話です。
昔、日本の会社とは交渉ができない、という外国の会社の話をよく聞いた。交渉役と会談をして、話がまとまったと思ったら「結論(決定)は、本社と相談してから」と日本側の交渉役が言い出し、「いったい、今までの交渉は何だったのだ。結論(決定)がその場で出せないような交渉役を日本側は何で出してくる!」と相手側を激怒させる、というような話であった。
今回の大島での台風被害の話も、最終責任者(町長)が不在で、現場での意思決定ができなかったのではないか、という風に思われる。
日本の組織の病弊の一つが、現場に決定権が与えられない、というものだ。それがしばしば大災害や大損害の原因になる。
改善方法は簡単であり、最高責任者が不在の時は次席の人間が決定権を持つ、(交渉などは決定権のある人間がやる)という原則を周知徹底すればいいだけである。戦場の軍隊ではこの原則は徹底されているはずである。戦場では一瞬でも意思決定不能という事態になれば身の破滅であるから、隊長が死亡したら副隊長が、副隊長が死亡したらその下の階級の者や古参の者が、というように意思決定権が即座に譲り渡されると思う。
自然災害に直面する、ということは、戦場にいるのと同じだ、という危機感をあらゆる自治体や国家の要路にいるひとたちはもう少し認識するべきではないか。そして、普段から危機に備えるシステムを構築しておくべきだろう。
こういう話は、本当は事故が起こってからでは遅いのだが、我々一般庶民にはどうしようもない事柄なので、「結果論」で片付けず、事後検証と今後の対策をしっかりとやっていくべきだろう。べつに大島だけの話ではないのである。
もっとも、日本の軍隊は、参謀などの軍事エリートはいかなる敗北でもまったく責任を取らないという「官僚免責組織」であったために太平洋戦争での悲惨な運命を招いたのだが、それは今の官僚支配国家日本にそのまま受け継がれているようだ。
日本の会社などにも似たところがあり、東電など、その代表だろう。東電に限らず、大会社のほとんどが「上の者の決定の責任を下っ端が取らされる」という不条理な社会だから、「半沢直樹」などが人気ドラマになったりしたのではないか。
(以下引用)
東日本大震災の時も書きましたが、あれほど大きな地震があり津波も予想できたのに、被災者たちはなぜ高台に避難しなかったのでしょうか。車で逃げて渋滞で巻き込まれた人もいますが、大災害時に車で逃げる事は渋滞で逃げられなくなることは常識です。ビルの二階以上に避難すれば助かったのにと思います。
今回の大島の土砂崩れの被害の大きさに驚きますが、火山灰地の山裾であり、大雨が降れば山崩れの危険性があるところだった。24時間に800ミリを超える豪雨が降ったのだから土砂崩れを警戒して避難すべきだったのに避難しなかった。気象庁や警察なども大島町に警戒を呼び掛けていたのに大島役場は避難指示を出さなかった。
このような非難は結果論だという事を言う人もいますが、大地震があれば大津波があるのが常識だし、記録破りの大雨が降れば山麓地域では山崩れが起きる可能性が高いのも常識だ。それなのにどうして避難しなかったのでしょうか? 大災害が予想されても「たぶん起きないだろう」という楽観論をどうしても信じてしまう。
台風が予想よりも東にそれて大島を直撃しましたが、台風が近づいているにもかかわらず大島町長と副町長は不在だった。会合があったからという事ですがどちらか一人大島に戻るべきだったのではないだろうか? 福島の原発災害の時も東電の会長も社長も不在だったことが決断の遅れになっていますが、中間管理職では責任のある判断ができない。
山崩れがあれば命の危険性があるにもかかわらず、避難命令を出せばかえって危険だという事で出さなかったという事ですが、結局は山崩れは起きないという楽観論になってしまったのだろう。防災無線も完備されていても生かされなければ意味がない。危険地域だからこそ防災無線も備えたのでしょうが、1日に800ミリの集中豪雨は山崩れは想定の範囲に入る。
結果論だから責任者の責任を追及しても意味がないという意見もありますが、大災害が起きた背景には多くの原因が重なり合っている。原因を浮かび上がらせて今後の災害に備える事が大切ですが、責任追及に偏りすぎれば責任者たちは問題点をずらしてごまかしてしまう。東日本大災害の時も大川小学校の悲劇がありますが、その時も校長が不在で決断が遅れた。
大災害の原因としては責任者の不在や誤った判断ミスがあったからですが、ではどうしたら責任者に不在の時の対応や緊急時の誤った判断ミスをしない仕組みづくりが大切です。いくら防災設備を作ったところで生かされなければ意味がない。東日本大震災の時も停電で防災警報が出されなかった。大災害が起きる時は当然停電も起きるのですが間の抜けた話です。
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