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徽宗皇帝のブログ

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現代の視点で昔の人物や思想を論じる愚
「ヤフーニュース」から転載。
私は、雁屋哲にはいいところも多いと思うし、特にフクシマ問題では勇気ある発言もたくさんし、ネトウヨの矢面にも立ってきたことは高く評価しているが、この記事で彼が福沢諭吉について述べていることは、あまりにも「現代の視点で過去を論じ」すぎているように思う。

そもそも、当時は帝国主義の時代であり、他国を侵略することがけっして悪徳とは思われていなかった時代である。国を強くし、あわよくば他国を侵略併合して、国家の富を増やすことこそが善であり、国民たるもの、国家のために働くことが義務であり、栄誉である、とされていた時代である。
「報国心」の鼓吹は福沢の洗脳というよりも、当時の世界思潮であり、流行だったと言うべきだろう。もちろん、それを利用して我欲を満たす連中もいただろうが、それは陰の存在だ。庶民はもっと単純なものである。福沢などは庶民の無知を歯がゆく思っていたのであり、学問や教養が無いことは当人の不幸だから、そういう「動物レベルの連中」を救いたい、という親切心から「学問のススメ」を書いたのであって、庶民侮蔑の文言は、むしろ叱咤激励だと取るべきではないか。
要するに、当時は、欧米国家の侵略から日本を守るには、日本も欧化することで文明化し、国力をつけることが火急の要とされていたのである。そして、国家有為の人物となることこそが、男の在るべき姿、とされていたのだ。
「末は博士か大臣か」というのは、単に立身出世を意味したのではない。国家有為の人物たれ、という思想である。そして、庶民にとっては、努力次第で博士にも大臣にもなれる、というのが明治維新の最大の恩恵であり、当時の庶民には、その四民平等と天皇制国家(君主制国家)とが矛盾する、という考えなど、ほとんど無かったはずだ。つまり、「一君の下の万民平等」が当然視されていたのであって、現代的な民主主義など、誰の頭にも無かっただろう。(「民約論」を訳した中江兆民やその読者は多少知っていたかもしれない。)どの国も君主国家であり、アメリカだけが珍例だったにすぎない。
まあ、漱石だろうが鴎外だろうが正岡子規だろうが、べつに民主主義者でも何でもないし、天皇制への疑問もほとんど持っていなかっただろう。漱石の皇室尊崇の気持ちは「こころ」などからも分かる。明治の精神に殉じて死ぬ、とは明治天皇の存在とは切り離せない言葉だろう。
まして、彼らより先輩の福沢諭吉にとって、「封建主義は親の仇でござる」という言葉が示すように、幕藩体制や身分制度こそが敵であるならば、それを倒す旗印となった皇室や天皇の側に彼が立つのは理の当然ではないか。そこから進んで尊皇思想広報役を買って出たのも自然だろう。
いったん明治政府が樹立した以上は、国民のほとんどの人は、天皇の存在と明治政府と文明開化と四民平等はひとまとめになって、「何だかありがたい御代だ」という気持ちになったのも不思議は無い。べつに福沢が洗脳したから皇国思想になったわけではない。皇国思想は、はるか後になって、日中戦争太平洋戦争のころから、無理な戦争を遂行するために誇張された思想にすぎないのである。


(以下引用)


福澤諭吉は民主主義者ではなく軍国主義者だった
 
 



「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。人間の自由平等を説いた福澤諭吉。明治の偉人だが、その実体は超国家主義者だとしたら……。『マンガまさかの福澤諭吉』(遊幻舎)の作者・雁屋哲氏が、検証した福澤のウラの顔を本誌に語った。


──「美味しんぼ」の原作者がなぜ福澤諭吉に関心を持ったのですか。


 中学高校で教わった通り、福澤諭吉は民主主義の先駆者だと思い込んでいました。ところが30年ほど前にあるきっかけから福澤の「帝室論」「尊王論」を読むと、日本国民は「帝室の臣子(家来)なり」と書かれていて驚いた。世間の福澤諭吉像を覆すような文章がどんどん出てくる。それが興味を持った始まりです。


──あの名言も実は福澤の言葉ではなかった。


 代表作「学問のすすめ」の冒頭には「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言えり」とあります。「言えり」は伝聞体で、本人の言葉ではない。一説によるとアメリカの独立宣言の一部を意訳したとも言われている。つまり、もともと福澤の思想から出た言葉ではないのです。このことは福澤が創立者となった慶応義塾大学のウェブサイトにも明記されています。


──「まさか」ですね。


 まさに、まさかの連続でした。「学問のすすめ」だけを読んでも「分限(身の程)を知れ」「(自分の)身分に従え」など、およそ自由平等とは程遠い言葉が次々に出てくる。教育のない者を「無知文盲の愚民」と呼び、そうした人々を支配するには力ずくで脅すしかないと言いきっています。独裁者でもここまで露骨なことは言えません。



──「学問のすすめ」は、教育の大切さを説く本です。なぜ、そんなことを言ったのでしょうか。


福沢諭吉 (c)朝日新聞社© dot. 福沢諭吉 (c)朝日新聞社

 教育といっても、福澤は政府が政治をしやすいような人間になるために学問を推奨し、その結果、国民に報国心を抱かせようとしていた。そうなると「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は単なるキャッチコピーに過ぎません。最初にこの言葉に興味を持った人を、民主主義とは反対の方向へ導こうとする。これでは思想的な詐欺と変わりありません。「学問のすすめ」では「大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり」など、人間本来の平等を説いている部分も何カ所かある。これは人が経済的、社会的に成功するかどうかは智を持っているかどうかで、生まれつきの違いはないと福澤が考えていたからです。こうした思想は、中津藩の下級藩士だった父親が身分格差から名を成すことができなかったことが影響しているといわれています。一方で智なき愚人は嫌悪の対象とし、当時の平民を「表向きはまず士族と同等のようなれども、(中略)その従順なること家に飼いたる痩せ犬のごとし」と見下しています。



──福澤が明治15年に立ち上げた時事新報は、当時の新聞が政党機関紙化していたなかで独立を掲げ、一躍日本を代表する新聞になりました。


 ところが福澤はその新聞発行の趣旨で、自分が一番やりたいことは国権皇張だと言っています。これは日本の権力を他の国に及ぼすという意味。つまりアジア侵略です。侵略される側からしたらたまったものではありません。日本最大の新聞を発行し、慶応の塾長も務めた人間がこんなことを堂々と述べていたのです。もともと福澤の大本願は日本を「兵力が強く」「経済の盛んな国にする」こと。そのために天皇を国民の求心力の象徴として利用しました。


──富国強兵ならぬ強兵富国とは。つまり民主主義者とは正反対の考えを持っていたということですか。


 実際に、日本が朝鮮支配を進めるために福澤が果たした役割は小さくなかった。詳しくはマンガを読んでほしいのですが、朝鮮宮廷内で起きたクーデターを計画したうえで実行にも加担し、明治政府が仕掛けた日清戦争では言論であおりまくった。戦争に勝つと国権皇張ができたと嬉し泣きしています。そのうえ軍は天皇直属であり、日清戦争は外交の序開きだと言うなど、侵略している意識すらなかったのです。戦争になったら国のために死ぬことが大義だと言い、教育勅語を歓迎した人物が民主主義者のわけがありません。福澤は天皇制絶対主義や皇国思想を日本人に浸透させ、朝鮮人、中国人への激しい侮蔑心をあおった。そのレールの上を走り、日本は第2次世界大戦に負けました。アジア蔑視は、現代の日本人にまで尾を引いています。



──しかし、福澤はそうした軍国主義的な思想を自分の新聞で堂々と述べています。それがなぜいまや民主主義の礎を築いた偉人に?


 昭和に入り福澤諭吉を高く評価し、その研究に多くの時間を割いた丸山眞男氏の罪です。丸山氏は福澤の言葉のなかから、自分の都合の良い部分だけつまみ食いしました。例えば「市民的自由主義」という言葉を使っていますが、福澤の文章のどこをとってもそんな表現はない。逆に福澤が「人民は政府の馬だ」と述べた部分は一切省いている。丸山氏は福澤の文章の行間を重視したり、著書をバラバラにして再構築する方法を採ったと述べています。それでは一体、福澤が何を言いたかったのかわからなくなります。


──なんのためにそんなことを?


 丸山眞男は戦後を代表する知識人。日本に民主主義を根付かせるために、あえて福澤を誤読したとも言われています。ですが、そのためにオリジナルの主張を捻(ね)じ曲げているとしたらとんでもない。多くの人は原本を読まず、丸山氏ら学者の権威に従って福澤を偉人と思い込んでいるのです。

 


──日本会議は皇室を敬愛する国民の心が日本の伝統にあるといいます。でも明治時代前の日本人は、殿様は知っていても天皇は知らなかった時代が長かったのでは?


 日本会議の言う日本の伝統とは討幕後の明治時代に意図的につくられたもの。大日本帝国時代のわずか80年の歴史だけをもって、日本の伝統ということ自体がおかしいのです。


──いま福澤を知る意味はなんでしょうか。


 日本がなぜこうなってしまったのか。まずそれを考えるには、その大本の思想をつくりだし、日本人を洗脳した福澤を正しく理解することが必要です。そのうえで真の日本のあるべき姿を議論できると考えています。(構成 桐島 瞬)


※週刊朝日  2017年1月27日号




























































 

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