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徽宗皇帝のブログ

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真の敵を見失うな
「反戦な家づくり」から転載。明月氏は私が最大級に尊敬する人物だが、どちらかというと私はこの論旨には否定的である。いや、論旨そのものは正しいと思う。だが、それを「今」論じるということについては否定的だ、ということだ。戦闘そのものが間違っていた場合には、局地戦での勝利は無意味だ。「正論」にはしばしばそういう場合がある、と私は考えている。

私は「尊皇攘夷」論者であり、今の日本は夷狄(アングロサクソン・ユダ金・多国籍企業)の侵略を受けているのだから、彼らを打ち払うことが日本の急務である、と考えている。そして、天皇という存在(明治から1945年までの「天皇制」という政治形態は除いて)は日本文化の根幹であり、現在の「象徴天皇制」こそが、その本質に最も適合していると考えている。そして、日本人は天皇という存在を中心にした時に、もっとも一つにまとまることができるのであるなら、それを良い方向に政治利用してもいいのではないか、という「天皇機関説」が私の「尊皇論」だから、右翼的な尊皇論とは対極にある。
確かに、太平洋戦争の敗戦時に天皇の戦争責任を問わなかったことが、その下にいる権力亡者(天皇利用者)たち全員を免責してしまったということは事実だが、憲法1条と9条が矛盾するとは、私は思わない。そして、マッカーサーによる天皇免責は、最高度に賢明な「植民地統治」上の判断だったし、マッカーサーによる日本改革は日本国民を幸福にし、中でも最高の贈り物が日本国憲法であったと私は考えている。
問題は、憲法そのものが政治によって否定されていることであり、それを裁判所が容認していること、そして国民がそれに対し無力であることなのである。
すなわち、天皇や憲法を攻撃の対象とするのは「真の敵」を見失う、迷走行為にしかならない、と私は考えている。今大事なのは、TPPという日本国最大の国難において、「攘夷」をすることではないか。
明治維新そのものが海外勢力の陰謀によるものであったという認識が広がりつつある今、我々は明治維新、太平洋戦争の敗戦に続く、「第三の開国」が日本を最悪の奴隷国家としないように、誰が真の敵であるのかを広く世間に広めていく必要があると私は考えている。



(以下引用)




2013-03-22(Fri)
奴隷の民主主義と 奴隷頭の帝国


原発が爆発して、少なくとも何百万人もの人びとが被曝しても、じっと耐えておとなしく自民党を勝たせる日本人。

世界的に見ても、まれに見る稀少なるこの国民の現状を理解すること。
そこからしか、前に向くためのヒントが出てこないと思い、先日からのブログを書いている。

私自身のなかには、どうしようもなく日本的な部分と、いわゆる日本的な部分を否定してきたところが共存している。
だから、爆発した原発が今の今でも湯気を立てて放射能をまき散らしているのに、それをつくった自民党を圧勝させてしまう日本人を理解できる部分と、まったく信じられない部分が、やはり共存している。

それにしても、日本人の「忘れるチカラ」は、すごい。
自分のやってしまったことは、黙して語らず。無かったことにする。
強い立場の者からやられたことは、決して文句を言わず、自分の責任かのように思い込む。
弱い立場の者からやられたことは、嵩に懸かって大騒ぎする。(これだけは忘れない)

この日本的なる性格が、歴史的にどこから始まるのかよくわからないが、少なくとも1945年までは遡る必要がある。
政治家がやらかすことは色々ある。どんなことにも、かならず責任は問われる。一応は。
ところが、日本がいままでやらかした最大級の犯罪であった戦争について、この国はほとんど責任を問われなかった。
東京裁判や現地での軍事法定で、トカゲのしっぽ切りをした以外は、ほとんどの大物が戦争も大物のまま生き残った。

その際に、最高の大物をどうするかが最大の問題だった。
そう、天皇だ。

天皇が裁かれれば、それにぶら下がっていた連中は、転向か懲罰かを選択せざるを得なくなる。
だから、ぶら下がりは何よりも天皇制の護持を乞い願った。
終戦交渉もそれで難航し、降伏した後も、日本側がつくった松本案憲法などは、大日本帝国憲法と大差ない。

この段階で、占領国であるアメリカが取った手法こそが、その後の67年をつくってきたと言える。
尖った言い方をすれば、日本は67年間マッカーサーの手のひらの上で踊ってきたのである。
ここを理解せずして、日本をどうにかしようとしても、びくともしないのではないか。

■■
マッカーサー占領軍が日本に侵攻した時、何をまず考えたのだろうか。
戦争である以上、脅威を排除することだろう。

そこでの脅威は、戦争を止めようとしない右翼と、敗戦を機に革命を企てる左翼だったはずだ。
仮におおもとはアメリカ側が仕組んだ戦争だったとしても、常軌を逸した戦闘にうって出る日本軍は、なんとしても解体する必要があった。
特に、主戦論を唱え続けてきた右翼勢力はこの際一掃してしまいたい。
しかし、戦犯を片っ端から処刑し、右翼を武装解除して戦犯を釈放すれば、革命の危機が大きくなる。
革命勢力を叩くためには、右翼を完全に去勢するわけにいかない。

東欧諸国ではソ連軍によってナチスからの「解放」がなされ、中国では国共内戦が再び始まっていた。日本の革命ということには充分にリアリティがあった。
45年、46年の時点で、2.1ゼネストのような規模の運動が起きていれば、日本のありようもかなり違ったものになっていただろう。
しかし、そうした運動の代わりに生まれたのは、憲法だった。

ここで、マッカーサーは実に巧妙な手をうった。

革命の代わりに9条を与え、帝国の代わりに1条を与えたのである。
そして、それぞれの勢力が、角逐しながら憲法の半分づつを守るという体制を築き上げた。
奴隷の民主主義と、奴隷頭の帝国を共存させたのである。

右翼が調子に乗って、「自主独立だ」と騒げば、「民主勢力」が牽制してくれる。
「民主勢力」が、戦争責任を言い出せば、右翼がたたきつぶしてくれる。

こうして、1条と9条という、絶対的に矛盾する内容をもった日本国憲法はできあがった。
たしかに、象徴天皇という言葉は在野の「憲法研究会」の発案だったが、その骨格と方向性を決めたのは占領軍だったことは明らかだ。
占領とはそういうことだ。

現行憲法は、「戦争責任を問わない代わりに、形だけの民主主義をあげますよ」という、日本人民と占領軍との間の契約だったとも言える。
革命派は、結局この契約に暗黙のサインをしてしまった。その後、ほとんどは護憲派になっていく。その意味では、一部の右翼が言っているように「護憲とは思考停止だ」というのも正しい。

しかし、言葉では「自主憲法制定」などと言っているような右翼連中も、ほぼ全部が親米右翼という訳の分からない生き物になり果てている。
それは、占領軍に戦争責任を見逃してもらった連中に他ならないからだ。9条をのむ代わりに、無罪放免になったばかりか、植民地化した大陸でしこたま溜め込んだ財産を保全してもらった笹川良一や児玉誉士夫などなど、こうした人びとによって日本の「保守」勢力はつくられた。
政治だけでなく、財界も学会もしかりである。

悪魔の飽食の731部隊も、石井隊長はじめ誰一人戦犯に問われずに、むしろ日本の戦後の医学会を牽引した。
人体実験のデータを米軍に提供することと引き替えに、無罪放免になり、米軍の原爆「成果」研究である放影研(当時ABCC)の研究の主力になったという話は、つとに有名だ。
その末裔が、あの福島の悪魔とも言われる山下俊一である。

そんなわけで、右翼の言う「自主独立」は「民主主義」に対立させるためだけの虚仮威(こけおど)しであり、改憲をいう勢力もまた「思考停止」であり、さらに「利権まみれ」というおまけも付いている。

■■
護憲VS改憲 という構図自体が、67年前に巧みに仕組まれた占領政策だと分かった今、安倍晋三がことさらに騒ぐ改憲についても、注意深く見ておく必要がある。

もちろん、現憲法には9条を始め、これ以上絶対に悪くしてはいけないという部分が多い。
戦後直ぐの、日本も革命が起きるかもしれないというリアリティの中では、米国もかなり妥協したけれども、今になってみればこんなに自由を与える必要も無いな と考えているのは確かだろう。
だから、安倍晋三が改憲を言うのも、それなりに本気なのだとは思う。

ただ、歴史的に憲法が果たしてきた属国支配の有効性を省みれば、いたずらに変えることよりも、あまり厳密に守らなくてもいい、という現状でもさほどの不自由は感じていないはずだ。
なにせ、9条があっても軍隊があって他国の戦争にも出かけていくのだから。
司法に違憲だと断じられても国会は知らん顔なのだから。
実質的に、今の日本には憲法は無いも同然だ。

それでもなお、安倍晋三が改憲を声高に言うということは、目くらましである可能性が高い。
憲法をいじれば、「民主勢力」は他の課題をそっちのけにしても、憲法にかじりついてくる。それを狙っているのではないか。

安倍晋三が抱えている課題で、本当に深刻な問題は、原発(含む被曝)とTPPだ。
現実に数百万人が被曝し、これから数年で恐ろしい結果が隠しきれなくなってくる。しかも、ふくいちは穴が開いたままで、先の見通しなんて無い。
TPPは、そんな日本から、速攻で獲れるものは獲ってしまえという狩猟型の収奪システムだ。8000兆円の国民資産をごっそり削り取っていく。

この目に見えて国民の悲惨な状態を突きつけられる課題から、なんとかして目をそらそうとして、国防軍だ96条だと騒いでいるのではないか。
もちろん、あわよくば本当に改憲してやろうと思っているだろうから、油断はできないが、その本質は見ておくべきだ。

■■
戦後の革命期だったから、まがいなりにもこの憲法という代替が与えられたし、かつてはそれなりに国民運動があったから海外派兵まではされなかった。
結局は、力関係なのである。

そして、その本質的な対立軸は、憲法ではない。
「責任を問う」ということだ。

戦争責任から原発事故責任に至る、その責任を問う ということだ。
もちろん、戦争責任は日本の責任もあるし、アメリカの責任もある。
日本の侵略も、アメリカの大殺戮も、ともに責任を問わなくてはならない。
日本の侵略の責任を徹底的に明らかにすることで、アメリカの責任をも問えるのだ。

大虐殺された広島で、虐殺された側が「二度と過ちは繰り返しません」と言う矛盾を、いつまでも抱えていてはいけない。

責任を問う能力、思考力を奪うために、「戦後民主主義」は与えられ、機能してきた。
しかし、いまや戦後民主主義は良くも悪しくもその機能を失いつつある。

今こそ、自分の目で見る、頭で考える、足で立つ時だ。
利権まみれの親米右翼どもの言う「自主独立」とは、まったく次元の違う意味で、自立する以外に、先へ進む道は無い。






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