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徽宗皇帝のブログ

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経済社会と経済人間
「経済中心社会」という言葉は、現在の社会を端的に表した言葉だと思う。要するにカネがすべてという社会であり、本来的には人間の無償で自発的な喜びであった芸術もすべての文化もカネを媒介としてのみ存在する。もちろん、カネを目的とするから、より優れたものが生まれてくるという側面はあるが、カネに結びつかないものはどんどん切り捨てられていく。いわゆる「生産性が無い」存在である。
子供は将来の生産と消費に結びつくからまだ許容されるが、老人や病人は、消費的存在としてのみ(医療のカネ儲け対象としてのみ)の意義しか認められなくなる。その消費を悪(国家的マイナス)と見做す人間からは憎悪の対象とすらなる。それが相模原19人殺しの犯人のような人間であり、その種の人間はネット界では普通の存在である。「老害」という言葉もその種の人間の口癖だろう。つまり、彼ら(ネトウヨ類)は「経済人間」なのである。ある意味、「国家的視野」で物事を自分は考えている凄い人間だ、とすら自分で自分のことを思っているのではないか。
逆に、左翼方面の人間は経済的観点がかなり少ない。カネはどこかから湧いてくるとでも思っているのか、政府に対して「弱者救済」「人道的政策」「福祉政策」などの、「非生産的政策」ばかり要求するwww だから、ネトウヨ的人間はイライラし、左翼を憎悪するのである。まるで自分が政府そのものであるかのようにwww

さて、フーテンの寅的存在はこの世に不要だろうか。この世に必要なのは死ぬほど働いて組織に貢献し、カネを生み出す人間ばかりなのだろうか。いくら働いても成果をあげられない人間は存在価値無し、ということで、あの電通の女子社員のように自殺するのが社会のためには良いことなのだろうか。それとも、そういう人間はたとえ東大卒だろうが、ソープででも働いてカネを稼ぐのが適材適所なのだろうか。「経済人間」の考え方を押し進めると、どうもそうなるのではないか、と私には思える。

まあ、過労死で死ぬと、死んでまで、どこかの大学教授に「100時間くらいの残業で死ぬとは情けない」と罵倒されたりするのがこの社会であるwww 経済社会とは一億総奴隷社会か。



(以下「混沌堂主人雑記」から引用)


経世済民の無い経済に、希望は無い。

Updated   
2016.10.23 (Sun)
中外日報 より

上記文抜粋
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戦後の希望の崩壊 経済中心社会への幻滅


2016年10月21日付 中外日報(社説)

戦後70年、変わったことは多々あるが、敗戦直後の世相は解放と混乱と無秩序の中に明るい希望を宿していた。人間らしく生きたいという切なる願いが至る所で感じられた。戦後間もなくヒットした並木路子の「リンゴの唄」は、貧しいながら明るく楽しい家庭生活のシンボルではなかったか。

60年安保の頃から、実存主義と共に思潮を二分した反体制の機運は、やがて学園紛争となって吹き荒れたが、この時期の世にはまだ思想と変革への関心が見られ、日本の将来に希望を抱く人がいたようである。

他方、ほぼ同時に始まった経済の高度成長は全国民の関心を奪った。田中角栄首相の日本列島改造論が一つのきっかけとなって始まった土地バブルの狂騒は、90年代初めにあえなく終わりを告げ、長い不況の時期に入る。この頃から人々の改革への意欲が色あせてきたように思われる。

この時期にヒットした映画に山田洋次監督、渥美清主演の「男はつらいよ」がある。この映画は様々な観点から見られるだろう。ドン・ファン物語の裏返しとみる人もいるだろうし、現れては人助けをして去ってゆく「聖者」伝説の構造をそこに見る人もいるかもしれない。

実は深い文学史的背景を踏まえているらしい作品だが、話の表層では、管理が強化された社会の外に出て気ままに生きる風来坊の寅さんの、無欲で人情に厚い楽天的な生きざまが多くの人を引き付けたのであろう。

「リンゴの唄」と「男はつらいよ」を比べてみると、世相の違いが浮かび上がる。後者では素朴で明るい希望が消えて、実家を出た寂しがり屋が、自らの家庭生活をつくろうとしては失敗し、それでもめげないという、失望と楽天性のないまぜが見られる。

戦後、「家」の伝統を失った家族は崩壊の危機にさらされた。いまや三世代家族はおろか、核家族まで分解してゆく状況だ。しかし問題は家族の崩壊という社会学的現象だけではない。

「リンゴの唄」は家族的なリンゴ摘みの労働歌だった。他方、寅さんは「労働者」ではない。生き残るために必死の競争に熱中する社会からはじき出され、そこで自由と人情を生きているのである。むしろ、人間らしさはそこにしかない、と言っているようにさえ見える。

今にして思えば、それは経済中心の管理社会に対する戦後世代の幻滅の始まりだったのではないか。幻滅は今も社会の深層で進んでいるようだ。




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抜粋終わり

>他方、寅さんは「労働者」ではない。生き残るために必死の競争に熱中する社会からはじき出され、そこで自由と人情を生きているのである。むしろ、人間らしさはそこにしかない、と言っているようにさえ見える。

>今にして思えば、それは経済中心の管理社会に対する戦後世代の幻滅の始まりだったのではないか。幻滅は今も社会の深層で進んでいるようだ。


経済学って、今では銭勘定だけだ。


でも、そのもとの概念は東洋では

「経世済民」と思うけど。

庶民が食えない経済は、経済でなく、悪政・略奪に過ぎない。


現今の経済学とは、「詐欺学」にすぎないのではないのか。いやそうだろう。


詐欺学進んで、格差広がる。詐欺学を経済学とは詐欺師なり。


お読みくださりありがとうございます。





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