「阿修羅」投稿記事に引用されていたあっしら氏のコメントを孫引き転載する。
「菅総理下ろし」については、あっしら氏と私は同じく反対をしている。菅総理の人格、人間性はどうでもいい。彼が「脱原発」を明言した、そのことだけが重要なのである。詳しくは下記記事で明確に論評されているから、私が言うまでもない。(もっとも、下記記事では「菅総理」が「管総理」になっているが、「棺(桶)」だの「(空き)缶」だの書かれてきた総理だから、気にすることでもないだろう。)
このあっしら氏のコメントについて、ネット右翼によるものかと思われる批判コメントが早速届いているのを見たが、その汚らしい罵倒の言葉を見ると、私のような気の弱い人間は、他人ごとだのにひどく落ち込んだ気分になる。言論の場が討論の場ではなく、罵詈雑言の場になるのは耐えがたい。
私のこのブログにコメント欄がついていないことに不満のある人もいるかと思うが、これは私の精神衛生のためであるので、悪しからずご承知願いたい。
私自身、他人の批判はやるが、罵倒する場合は、相手が小泉や前原などの、保証書付きの悪党・売国奴に限られているのである。一般の人に対して、たとえここが匿名ブログであっても罵倒することはほとんどない。
下記記事について少しだけ言おう。
菅総理の「脱原発」発言は、民主党と自民党内の「原発利権政治家」を炙り出す働きをした。枝野などもこれまでは調子の良い、よく回る口で有能さをアピールしてきたが、正体は原発推進派であることが明らかになっている。岡田その他の民主党執行部もそうだし、自民党に至っては河野太郎というわずかな例外を除いては丸ごと原発利権議員の集団である。
国民はそれをちゃんとわかっているから、民主党支持率がどんなに下がっても、自民党支持は増えないのである。
(以下引用)
70. 2011年7月16日 22:50:19: esmsVHFkrM
いやはや、次から次から、「脱原発」はどうでもいい、とにかく管を下ろせというコメが良く湧いてくるものだ。
ここで、その特徴をまとめて、論評してみたい。
1.管が原発を止めているという事実を認めない [管猫はねずみを捕っていない] 不思議だが、この事実が見えないか、よっぽど認めたくないらしい。
事実は管が浜岡を止めた。
しかし、「いや、あれはすでに経済産業省と海江田がこれはしょうがないと認めていたもので、管は発表だけやっただけだ」と言う反論が、マスゴミ報道(これが信頼に値するか否か大いに問題だが)を根拠にして可能かもしれない。
では、玄海原発はどうか。
これは、経済産業省の言いなりの海江田が奔走して、玄海町長、佐賀県知事まで国の安全保障を信頼して同意するとの茶番が用意されたが、土壇場で、管が佐賀県知事と会うことを拒否し、突如ストレステストを持ち出すことで阻止された。
おかげで、これに続くはずの他の停止中原発の再稼動もめどが立たなくなっている。
ストレステストは唐突で管の思い付きだから、中央ならびに地方政治に混乱をもたらしたと散々マスゴミや関係政治家が非難したんだから、少なくともこれが管の個人的功績に帰すことに疑問はないだろう。
さらに、史上初の日本国首相による「脱原発」宣言が管によってなされたのは事実だ。
ところが、この画期的な宣言は、マスゴミの無視、枝野の「総理の個人的希望」との解説、岡田の「党の方針ではない」との説明、財界そろっての「混乱を招く愚行」との非難、今やみんな「脱原発」なのだから首相が宣言する意味がないとの評論家の侮蔑、等々の工作により、国民に対するその効果と意義を大きく損なわれた上、今日は、閣議で追及を受けて管が「(震災発生の)3月11日以降、国会や国際会議で述べた事柄について、総合的な整理をして自分の考え方を述べた」として「内閣の方針ではない」ことを認めるに至った。
これをもって、個人的な意見を述べるとは首相としての資質にかけるとか、やはり管の「脱原発」宣言は偽ものだとか評す向きもあるようだが、それは、まったく逆だろう。
これだけの周りの抵抗があり、孤立無援で閣議決定さえできない状況にもかかわらず、それを宣言したことは、少なくとも民主党実権派、自民党、財界、官僚、マスゴミの誰よりも「反原発」である証拠だ。
むしろ、反原発勢力(それが日本政治の中枢に存在するとすれば)はせっかくの「首相の反乱」である「脱原発」宣言を支持することなくみすみすこれを見殺しにした事となる。
これはネット世論も同罪だ。
以上、見ただけで少なくとも、管はねずみを捕る猫であることは、否定できない事実だ。
2.管だけが「脱原発」ではないと主張する [管だけがねずみを捕る猫ではない] これは不思議な議論だ。
もちろん、「脱原発」を主張する政治家は少なくない。
だが、問題は彼らがどのような権力を持っていて、実際にそれを多少なりとも進めることができるかと言うことだ。
浜岡の停止、玄海の再稼動の阻止を、首相の地位にいない政治家が、経済産業省等の原子力村、民主党実権派、自民党、マスゴミ、等々の抵抗勢力の妨害を排して実現することができるのか。
ストレステストを強いることができるのか。
そもそも「脱原発」宣言は首相がやることに意義がある。
一代議士がそんなことをしたって誰も問題にすらしない。
現に管だって、その抵抗にあって首相の地位にあってさえも「自分の考え」で「内閣の方針ではない」ということを認めさせられてしまったではないか。
その意味で、「ねずみを捕ることを主張する猫」は他にいても実際にねずみを捕っているわけではないことは明らかだし、「ねずみと取ってくる猫」は現在管以外にいないのは事実だ。
3.管はペテン師で嘘つきで信頼できないから打倒すべきだ [この猫はねずみを捕るにしても動機に問題があるから殺せ] これも不思議な議論だ。
現在の状況は、官僚利権政府の手先で小沢のパージを許し、民主党のマニフェストを裏切った管が、官僚に使い捨てにされて惨めな政権末期を迎えることに気づき、やけくそで官僚利権政府を裏切って、「脱原発」を武器に選んで交戦しているということだ。
これは、反原発勢力にとっては千載一遇のチャンスだ。
結局管がやられてしまうにしても、それまでの間管を利用して、徹底的に「脱原発」をやらせて、原子力村ひいては官僚利権政府に打撃を与えて弱体化させることができる。
だから、管がペテン師だとか、嘘つきだとか、馬鹿だとか、信頼できないとか、そんな管の人格とか動機とかは問題じゃない。
結婚するわけではない。
管の政権延命と保身の[脱原発]をそれを承知の上で利用するだけだ。
利用する駒に人格とか動機は問題にならない。
だから、「猫」の話だと言っている。
支持するには、その相手の人格とか動機とかが信頼したり好きになったりできなければならないと言う人は、血で血を洗う日本の現実政治をAKB48の総選挙と取り違えているのではないか。
4.管の「脱原発」は、不徹底だから、具体性がないから、信頼できないから、これを倒して次の優秀な首相にやらせるべきだ [管猫ねずみ捕りは下手なので、これを殺して他の猫にやらせるべきだ] これは非常に無責任な議論だ。
管の「脱原発」が、具体性がないとか、不徹底だとか、遂行能力がないから管にはできないとかいうことは(それは俺も事実だと認めるが)、その代替選択肢が存在して初めて意味がある。
「こっち」はこんなに問題があるのだから、「あっち」の方がいいという議論は意味がある。
だが、問題は「あっち」があるのかということだ。
現在、首相ないしはそれに準じる日本国の権力ある地位とか立場にあって「脱原発」を唱えているのは管しかいない。
「あっち」がないということだ。
いやいや、管を倒した後の次の首相が「あっち」だというのだろう。
でも、その「次の首相」って誰だ。
現在の状況では、民主党実権派の枝野家、前原か、岡田か、仙石か(野田は馬鹿すぎて無視だ)、はたまた、自民党の谷垣か、石破かだろう。
少なくとも原子力村はそのつもりで全力投球だ。
残念ながら、小沢本人ないしはその同志の誰かが原子力村に対抗して首相の座を得る可能性はない。
だったら、民主党の実権派の誰かか、自民党の誰かが次の首相だ。
こいつらは断じて「脱原発」をたとえペテンとしても主張することはありえない。
原子力村の嫡子だ。
管のように馬鹿じゃないから原子力村を裏切る必要が出るような状況にいたることもない。
これは、「脱原発」じゃないんだから管の「こっち」の「脱原発」と比較されるべき「あっち」になりはしない。
だったら、いくら不徹底で、具体性がなく、実行力がなくて不安でも「こっち」で行くしかない。
残念ながらこれが唯一の「脱原発」だ。
管猫を殺してしまったら、次の猫はねずみを絶対に捕らない。
ねずみを捕らないどころかねずみと一緒にこちらを殺しに来る。
以上のように、管を打倒すべきだと言う議論はまったく意味がない。
意味があるとすれば、「脱原発」をなんとか打倒したいと言う一点だ。
敵は、官僚利権政府とその一部である原子力村のはずだろう。
何故、管が打倒されなければならなかったかと言えば、官僚利権政府の走狗に成り下がって、小沢のパージを許し、小沢民主党のマニフェストを裏切ったからだろう。
その走狗が官僚利権政府と原子力村を裏切ってドンパチ始めたんだったら、敵を打倒するためにもその裏切り者を支援して、敵に打撃を与えるべきだろう。
しかもその裏切り者は「脱原発」を武器にしている。
「脱原発」やそれの強行による敵への打撃よりも、その走狗に過ぎない管の打倒の方が大事だという人間が存在するとは信じがたい。
存在するとすれば、よっぽどの大馬鹿か原子力村の手下だ。
現に、管の「脱原発」は風前のともし火だ。
せっかくの宣言も「内閣の方針ではなく」、管の「自分の考え」にされてしまっている。
俺は、仕事として交渉ごとに従事してきた人間だが、相手方が、しかも大将が、失言でもしてこっちの都合のいいことを言ったら、徹底的にそれを使って、それを履行させる。
「今、そう言っただろう、言ったことはちゃんとやれよ」だ。
相手方が、「いや失言でした」と言ったって、簡単に許すほどアマちゃんじゃない。
「大将が一度言ったことはなしにはできないぞ」だ。
相手方が、「それじゃ大将を替えたい」と言ってきたって、「馬鹿にするのか、ここまで来て大将は替えられない」だ。
そうやって、相手方がやりたくないことでもやらそうとするのが交渉ごとだし、政治だろう。
それが、敵の大将(一応首相だから)が「脱原発」と言っているのに、敵と一緒になって、それが信用できないとか、具体性がないとか、不徹底だとか、そんないい加減なやつは変えたほうがいいとか、まったく敵の思う壺じゃないか。
これじゃ、せっかくの「脱原発」のチャンスが台無しになってしまう。
敵が涙を流してありがたがっているぞ。
最後にもう一度政治的現実主義の基本原則を確認したい。
「白い猫であろうが、黒い猫であろうが、ねずみを捕る猫はいい猫だ」。
「菅総理下ろし」については、あっしら氏と私は同じく反対をしている。菅総理の人格、人間性はどうでもいい。彼が「脱原発」を明言した、そのことだけが重要なのである。詳しくは下記記事で明確に論評されているから、私が言うまでもない。(もっとも、下記記事では「菅総理」が「管総理」になっているが、「棺(桶)」だの「(空き)缶」だの書かれてきた総理だから、気にすることでもないだろう。)
このあっしら氏のコメントについて、ネット右翼によるものかと思われる批判コメントが早速届いているのを見たが、その汚らしい罵倒の言葉を見ると、私のような気の弱い人間は、他人ごとだのにひどく落ち込んだ気分になる。言論の場が討論の場ではなく、罵詈雑言の場になるのは耐えがたい。
私のこのブログにコメント欄がついていないことに不満のある人もいるかと思うが、これは私の精神衛生のためであるので、悪しからずご承知願いたい。
私自身、他人の批判はやるが、罵倒する場合は、相手が小泉や前原などの、保証書付きの悪党・売国奴に限られているのである。一般の人に対して、たとえここが匿名ブログであっても罵倒することはほとんどない。
下記記事について少しだけ言おう。
菅総理の「脱原発」発言は、民主党と自民党内の「原発利権政治家」を炙り出す働きをした。枝野などもこれまでは調子の良い、よく回る口で有能さをアピールしてきたが、正体は原発推進派であることが明らかになっている。岡田その他の民主党執行部もそうだし、自民党に至っては河野太郎というわずかな例外を除いては丸ごと原発利権議員の集団である。
国民はそれをちゃんとわかっているから、民主党支持率がどんなに下がっても、自民党支持は増えないのである。
(以下引用)
70. 2011年7月16日 22:50:19: esmsVHFkrM
いやはや、次から次から、「脱原発」はどうでもいい、とにかく管を下ろせというコメが良く湧いてくるものだ。
ここで、その特徴をまとめて、論評してみたい。
1.管が原発を止めているという事実を認めない [管猫はねずみを捕っていない] 不思議だが、この事実が見えないか、よっぽど認めたくないらしい。
事実は管が浜岡を止めた。
しかし、「いや、あれはすでに経済産業省と海江田がこれはしょうがないと認めていたもので、管は発表だけやっただけだ」と言う反論が、マスゴミ報道(これが信頼に値するか否か大いに問題だが)を根拠にして可能かもしれない。
では、玄海原発はどうか。
これは、経済産業省の言いなりの海江田が奔走して、玄海町長、佐賀県知事まで国の安全保障を信頼して同意するとの茶番が用意されたが、土壇場で、管が佐賀県知事と会うことを拒否し、突如ストレステストを持ち出すことで阻止された。
おかげで、これに続くはずの他の停止中原発の再稼動もめどが立たなくなっている。
ストレステストは唐突で管の思い付きだから、中央ならびに地方政治に混乱をもたらしたと散々マスゴミや関係政治家が非難したんだから、少なくともこれが管の個人的功績に帰すことに疑問はないだろう。
さらに、史上初の日本国首相による「脱原発」宣言が管によってなされたのは事実だ。
ところが、この画期的な宣言は、マスゴミの無視、枝野の「総理の個人的希望」との解説、岡田の「党の方針ではない」との説明、財界そろっての「混乱を招く愚行」との非難、今やみんな「脱原発」なのだから首相が宣言する意味がないとの評論家の侮蔑、等々の工作により、国民に対するその効果と意義を大きく損なわれた上、今日は、閣議で追及を受けて管が「(震災発生の)3月11日以降、国会や国際会議で述べた事柄について、総合的な整理をして自分の考え方を述べた」として「内閣の方針ではない」ことを認めるに至った。
これをもって、個人的な意見を述べるとは首相としての資質にかけるとか、やはり管の「脱原発」宣言は偽ものだとか評す向きもあるようだが、それは、まったく逆だろう。
これだけの周りの抵抗があり、孤立無援で閣議決定さえできない状況にもかかわらず、それを宣言したことは、少なくとも民主党実権派、自民党、財界、官僚、マスゴミの誰よりも「反原発」である証拠だ。
むしろ、反原発勢力(それが日本政治の中枢に存在するとすれば)はせっかくの「首相の反乱」である「脱原発」宣言を支持することなくみすみすこれを見殺しにした事となる。
これはネット世論も同罪だ。
以上、見ただけで少なくとも、管はねずみを捕る猫であることは、否定できない事実だ。
2.管だけが「脱原発」ではないと主張する [管だけがねずみを捕る猫ではない] これは不思議な議論だ。
もちろん、「脱原発」を主張する政治家は少なくない。
だが、問題は彼らがどのような権力を持っていて、実際にそれを多少なりとも進めることができるかと言うことだ。
浜岡の停止、玄海の再稼動の阻止を、首相の地位にいない政治家が、経済産業省等の原子力村、民主党実権派、自民党、マスゴミ、等々の抵抗勢力の妨害を排して実現することができるのか。
ストレステストを強いることができるのか。
そもそも「脱原発」宣言は首相がやることに意義がある。
一代議士がそんなことをしたって誰も問題にすらしない。
現に管だって、その抵抗にあって首相の地位にあってさえも「自分の考え」で「内閣の方針ではない」ということを認めさせられてしまったではないか。
その意味で、「ねずみを捕ることを主張する猫」は他にいても実際にねずみを捕っているわけではないことは明らかだし、「ねずみと取ってくる猫」は現在管以外にいないのは事実だ。
3.管はペテン師で嘘つきで信頼できないから打倒すべきだ [この猫はねずみを捕るにしても動機に問題があるから殺せ] これも不思議な議論だ。
現在の状況は、官僚利権政府の手先で小沢のパージを許し、民主党のマニフェストを裏切った管が、官僚に使い捨てにされて惨めな政権末期を迎えることに気づき、やけくそで官僚利権政府を裏切って、「脱原発」を武器に選んで交戦しているということだ。
これは、反原発勢力にとっては千載一遇のチャンスだ。
結局管がやられてしまうにしても、それまでの間管を利用して、徹底的に「脱原発」をやらせて、原子力村ひいては官僚利権政府に打撃を与えて弱体化させることができる。
だから、管がペテン師だとか、嘘つきだとか、馬鹿だとか、信頼できないとか、そんな管の人格とか動機とかは問題じゃない。
結婚するわけではない。
管の政権延命と保身の[脱原発]をそれを承知の上で利用するだけだ。
利用する駒に人格とか動機は問題にならない。
だから、「猫」の話だと言っている。
支持するには、その相手の人格とか動機とかが信頼したり好きになったりできなければならないと言う人は、血で血を洗う日本の現実政治をAKB48の総選挙と取り違えているのではないか。
4.管の「脱原発」は、不徹底だから、具体性がないから、信頼できないから、これを倒して次の優秀な首相にやらせるべきだ [管猫ねずみ捕りは下手なので、これを殺して他の猫にやらせるべきだ] これは非常に無責任な議論だ。
管の「脱原発」が、具体性がないとか、不徹底だとか、遂行能力がないから管にはできないとかいうことは(それは俺も事実だと認めるが)、その代替選択肢が存在して初めて意味がある。
「こっち」はこんなに問題があるのだから、「あっち」の方がいいという議論は意味がある。
だが、問題は「あっち」があるのかということだ。
現在、首相ないしはそれに準じる日本国の権力ある地位とか立場にあって「脱原発」を唱えているのは管しかいない。
「あっち」がないということだ。
いやいや、管を倒した後の次の首相が「あっち」だというのだろう。
でも、その「次の首相」って誰だ。
現在の状況では、民主党実権派の枝野家、前原か、岡田か、仙石か(野田は馬鹿すぎて無視だ)、はたまた、自民党の谷垣か、石破かだろう。
少なくとも原子力村はそのつもりで全力投球だ。
残念ながら、小沢本人ないしはその同志の誰かが原子力村に対抗して首相の座を得る可能性はない。
だったら、民主党の実権派の誰かか、自民党の誰かが次の首相だ。
こいつらは断じて「脱原発」をたとえペテンとしても主張することはありえない。
原子力村の嫡子だ。
管のように馬鹿じゃないから原子力村を裏切る必要が出るような状況にいたることもない。
これは、「脱原発」じゃないんだから管の「こっち」の「脱原発」と比較されるべき「あっち」になりはしない。
だったら、いくら不徹底で、具体性がなく、実行力がなくて不安でも「こっち」で行くしかない。
残念ながらこれが唯一の「脱原発」だ。
管猫を殺してしまったら、次の猫はねずみを絶対に捕らない。
ねずみを捕らないどころかねずみと一緒にこちらを殺しに来る。
以上のように、管を打倒すべきだと言う議論はまったく意味がない。
意味があるとすれば、「脱原発」をなんとか打倒したいと言う一点だ。
敵は、官僚利権政府とその一部である原子力村のはずだろう。
何故、管が打倒されなければならなかったかと言えば、官僚利権政府の走狗に成り下がって、小沢のパージを許し、小沢民主党のマニフェストを裏切ったからだろう。
その走狗が官僚利権政府と原子力村を裏切ってドンパチ始めたんだったら、敵を打倒するためにもその裏切り者を支援して、敵に打撃を与えるべきだろう。
しかもその裏切り者は「脱原発」を武器にしている。
「脱原発」やそれの強行による敵への打撃よりも、その走狗に過ぎない管の打倒の方が大事だという人間が存在するとは信じがたい。
存在するとすれば、よっぽどの大馬鹿か原子力村の手下だ。
現に、管の「脱原発」は風前のともし火だ。
せっかくの宣言も「内閣の方針ではなく」、管の「自分の考え」にされてしまっている。
俺は、仕事として交渉ごとに従事してきた人間だが、相手方が、しかも大将が、失言でもしてこっちの都合のいいことを言ったら、徹底的にそれを使って、それを履行させる。
「今、そう言っただろう、言ったことはちゃんとやれよ」だ。
相手方が、「いや失言でした」と言ったって、簡単に許すほどアマちゃんじゃない。
「大将が一度言ったことはなしにはできないぞ」だ。
相手方が、「それじゃ大将を替えたい」と言ってきたって、「馬鹿にするのか、ここまで来て大将は替えられない」だ。
そうやって、相手方がやりたくないことでもやらそうとするのが交渉ごとだし、政治だろう。
それが、敵の大将(一応首相だから)が「脱原発」と言っているのに、敵と一緒になって、それが信用できないとか、具体性がないとか、不徹底だとか、そんないい加減なやつは変えたほうがいいとか、まったく敵の思う壺じゃないか。
これじゃ、せっかくの「脱原発」のチャンスが台無しになってしまう。
敵が涙を流してありがたがっているぞ。
最後にもう一度政治的現実主義の基本原則を確認したい。
「白い猫であろうが、黒い猫であろうが、ねずみを捕る猫はいい猫だ」。
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