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徽宗皇帝のブログ

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資本主義と奴隷制社会
「晴耕雨読」から転載。
おそらく、「阿修羅」過去記事だと思うが、今読んでもけっして古くなっていない記事だ。この頃のあっしら氏は素晴らしかった。今では、麒麟も老いては駑馬にも劣る、か。あるいは安倍陣営に毒まんじゅうでも喰わされたか、安倍政権擁護などの世迷言を投稿したりする始末だ。
だが、下に書いてある内容は、世間で言うところの「陰謀論」が実は世界の実相であることを明晰に論じていて、素晴らしい。

特に、可視的な奴隷制(近代以前の奴隷制)から、「賃金労働者という奴隷」を使った、資本主義という不可視の奴隷制に変えたのは、奴隷所有者(あっしら氏の用語では「国際寄生者」だが、私は単純にユダ金と言っている。)自身であり、それはかつての奴隷制は「不経済」だったからだ、と喝破している人は珍しい。私もまったく同意見なのだが、あるいはそれは昔あっしら氏の文章でも読んだのかもしれない。
自力で生きる手段を持たなければ奴隷である、という明快な措定も素晴らしい。この「定義」によって物事の全体が明瞭になってくる。1%対99%とは、実は奴隷所有者と奴隷のことなのである。芸能人もプロ野球選手も学者も、カネに支配されており、実は自分で生きる手段を持っていない。それが資本主義社会であり、必然的にそれは奴隷制社会になる。カネの主人だけが、この社会では真の自由を持っている。だから、奴隷たちもみな拝金主義者になる。だが、いくらあがいても、奴隷から奴隷所有者になれるのはほんのわずかな例外だけだ。いや、そういう連中も奴隷所有者ではなく、ただの奴隷頭でしかない。官僚や政治家がそれだ。奴隷頭を任命するのは誰かを考えれば、奴隷頭が奴隷の福祉を向上させるはずはない。奴隷から搾取するのが御主人への第一義的な奉仕なのである。
となると、社会体制を根幹から変える以外に、人類が奴隷制から脱却する方法は無い、という結論になるのではないだろうか。もちろん、そのために必要なのは、現状の正しい認識が多くの人に広まることである。


(以下引用)赤字部分は徽宗による強調。


「抜け出す第一歩は「隷属の認識」  「近代」から一歩先を見据えて

国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや隷属していることを感じたり認識しないようにしてきた。

「自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していないこと」を、土地に縛られない自由の獲得だと説明している。

民主制を基礎とした国家にすることで、自分が命を失うことになったり、相手を殺すことになる侵略戦争を担うことを義務と考えたり愛国心の発露と信じるよう仕向けている。

女性は男性に隷属させられており、女性が“社会”に進出して経済的に自立することが解放だとされている。

そして、失業者が大量に発生しながら財が余るという過剰な生産力(高い生産性)が実現されていながら、市場原理や経済理論を持ち出して、それは仕方がないことであり、年金などが切り詰められるのもやむをえないことだと説明している。

今書いた四つのことを一つでもその通りだと考えている人は、国際寄生者にすっかり隷属していると断言する。




「感じにくい隷属」から抜け出す第一歩は「隷属の認識」投稿者 あっしら 日時 2003 年 3 月 12 日

■ 寄生者は「奴隷制」の復活を志向してはいない

時々コールマン博士や太田龍氏のことを“あっち(寄生者)側”の人と揶揄するのは、寄生者が、寄生方法として「奴隷制」を志向していないし選択することもないと考えているからである。

起こらないことを起こると扇動しそれに対して戦えと叫べば、その傾向が消えた途端に戦いも消え去るだろう。

コールマン博士は、ひとの土地を大規模に収奪し奴隷制もある条件下で生まれた合衆国憲法を福音書のように賛美し、南アフリカの土地を収奪した歴史的経緯を軽く見て、アフリカーナと英国支配層の対立に焦点を当ててアフリカーナの側に立ち、先住者の多数派を基盤とするANCを共産主義者として非難している。

(反アパルトヘイト運動やANCが国際寄生者に操られていたり(いる)と思っているが、それは別問題である。ジンバブエのムガベ大統領も操られている)


時代性から、奴隷というとアフリカから南北アメリカに運ばれ、拘束状況で酷使された黒人を思い浮かべる場合が多いだろう。

(アフリカから奴隷輸送船に積み込まれた黒人は6千万人以上で30%前後が輸送途中に死亡したと言われている)

しかし、厳しい批判ときちんとした反省的総括が必要だと考えているが、そのような奴隷制は歴史的に見れば特異なものである。

大規模な土地を収奪し、その土地を活用することで生み出す財がもっと売れるのにそれを満たすだけの労働力が不足していたことから生じた特異性である。


古来より、奴隷は、自分及び家族の生存手段を保有していない(失った)ためにひとに使われることで生存を維持せざるを得ない層、特定能力を持った戦争捕虜、政治的支配層の執事や娯楽提供者として召抱えられた者たちである。

くびきをかけられているかどうかは、奴隷であるかなしかとは本質的に無関係である。

債務不履行で生存手段を失った人(家族)は、生きるために債権者の手足となって働くしかない。

(債権者が債権を譲渡すれば別の人のもとで)

戦争に負けて土地を奪われた人は、労働力が不足状態であれば奴隷になり、そうでなければどこかに新天地を求めることになった。

戦争捕虜になった人たちのなかで特殊技能(学問や芸能を含む)を持っている人は、戦勝側に余裕や不足があればお抱えになった。

政治的支配者は、より快適な生活をおくりより心地よい日々をおくるために、被支配者に奴隷の提供を求めた。

女性は、とりわけ戦争を通じて、性的快楽や生殖機能として奴隷化されることも多くあった。

奴隷の自由は「死の選択」だけである。

拘束がなくとも、逃げて生存できる条件がなければ逃げない。
決起するのも、勝算があるときだけである。

租税として差し出された奴隷は、家族や地域共同体の安寧を考え逃げないはずである。

別に奴隷所有者を擁護する気はないが、奴隷を所有し続けるのも負担(コスト)なのである。

機械は手入れをすれば済むし、家畜は餌を与え逃げないようにしていれば済むが、人である奴隷は、自分の目的に叶うように働く方法を理解させたり、病気や事故で用を果たさなくならないよう気を使い、身の回りにはべらせておくのなら身繕いもきれいにしておかなければ自分がいやな気分になるという存在である。

南北アメリカの「近代奴隷」も、奴隷商人が高収益源として群がったように高価なものである。

高額のお金を支払っているのに、死ぬ気になってしまったり、病気になったり反抗心を煽ってロクに働かないのでは割が合わないのである。

タダ同然で奴隷が手に入るのではない限り、奴隷も、それなりの水準で取り扱われることになる。

(奴隷商人は、奴隷をタダ同然で手に入れ、べらぼうな価格で売ることができたので、輸送で生じるロスをそれほど気にせず「家畜以下」の過酷な条件で船に積んだのである)

このような説明をしたのは、国際寄生者が奴隷制を志向していないことを少しでもわかっていただくためである。

国際寄生者は、“奴隷”の処遇に関して、奴隷制よりも賃金労働者のほうが合理的だと考えているのである。

長期間にわたって生存の面倒を見なければならない奴隷よりも、必要なときだけ雇って、不要になったら捨て去るほうが都合がいい(合理的な)のである。

そして、ほとんどの人が生存手段を保有しなくなった「近代」では、タダ同然で賃金労働者を手に入れることができる。

賃金労働者をタダ同然で手に入れても巧くいかないことがわかった結果が、賃金水準を上昇させることで生まれた「大衆消費社会」や「福祉国家」である。

(米国の奴隷解放令は、このような国際寄生者の損得勘定に基づき成立したものである)

奴隷とは、自分と家族が生存するための自然的条件を保有していない人のことである。

自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していない限り、奴隷なのか、賃金労働者なのか、はたまた“知的執事”なのかは別として、他者に自己の活動力を提供することを通じて生存を維持するしかないのである。

■ 「感じにくい隷属」

国際寄生者は、巧妙に「知的謀略」を駆使して、宿主構成員(我々)が奴隷であることや隷属していることを感じたり認識しないようにしてきた。

「自分と家族が共同体のなかで自立して生存できる条件を保有していないこと」を、土地に縛られない自由の獲得だと説明している。

民主制を基礎とした国家にすることで、自分が命を失うことになったり、相手を殺すことになる侵略戦争を担うことを義務と考えたり愛国心の発露と信じるよう仕向けている。

女性は男性に隷属させられており、女性が“社会”に進出して経済的に自立することが解放だとされている。

そして、失業者が大量に発生しながら財が余るという過剰な生産力(高い生産性)が実現されていながら、市場原理や経済理論を持ち出して、それは仕方がないことであり、年金などが切り詰められるのもやむをえないことだと説明している。

今書いた四つのことを一つでもその通りだと考えている人は、国際寄生者にすっかり隷属していると断言する。

人は、生きていくために、他者と共に外的自然と巧く付き合いながらそれを自分のために改変しなければならない。

人(人的自然)は、否応なく、土地(外的自然=自然的自然)に縛られている存在なのである。

縛られていないと考えがちなのは、お金でお金を稼ぐ人・知的活動でお金を稼ぐ人・政治的支配者といった、圧倒的多数の他者を自分の生存から快楽の手段と位置付けている階層である。

女性が家族の面倒を見るのは、役割分担でしかなく、別に男性への隷属ではない。(男女が逆でもいいのだが、出産と育児という役割を女性が担うほうが都合がいいだけのことである。)

女性を家族から切り離すのは、個人主義的自由主義と同じで、人々のバラバラ化を通じて隷属構造をよりスムーズに維持するのが目的である。

共同体を崩壊させて国家的統合に変えたように、家族を崩壊させることで人々の絆をなくし、寄生者に直接的に隷属させようとしている。

国際寄生者は、人々の絆を恐れている。それは、自分たちへの対抗力につながるものだからである。無力な個として、持っている活動力を自分たちの“養分”吸い上げのために発揮してもらえばいいと考えている。

もう一つの目的は、経済合理性である。家族を養うために一人が働くだけであれば、家族分の生存費を給与として支払わなければならない。

しかし、家族から複数の人が働きに出れば、一人に支払う給与は抑えることができる。

(米国の50年代から現在に至る“中流家庭”の変遷を顧みればこのことがわかる。かつては、お父さんが働くだけで、家と自動車を持ち、子供たちを大学に送ることができたのである)

長期にわたる学校教育と日々発信される膨大なメディア情報を素直に受け入れることで、隷属性が高まる仕組みができ上がっている。

現在の多数派の人々(寄生されている人々)は、奴隷以下家畜以下の存在になっていながら、自由だと錯誤する倒錯的隷属者になっているのである。

国際寄生者が、ここまで巧妙につくり上げた「隷属システム」を捨て去り、寝た子を覚ますような奴隷化政策をとることはないのである。
(近代奴隷制を廃止させたのは、国際寄生者であることをお忘れなく)

国際寄生者は、米英の国家支配層を先兵として「対イスラム戦争」を展開しているが、それとてただの“戦争狂”であるが故に行っているわけではない。

彼らとて、目的を早期に完遂させて“平和な世界”を築きたいと考えている。

早期に完遂させて“平和な世界”を築けば、先進諸国の多くの人が素晴らしい現実が戻ってきたと感じ、さらに隷属性が高い新たな「世界」を素直に受け入れると夢想しているであろう。

国際寄生者は、「近代以後」(ポストモダン)を構想しながら、それに向け現在を動かそうとしている。

「対イスラム戦争」は、行き詰まった「近代」を根底から変えるためのものである。

それを完了させれば、ブッシュ的圧制も終わり、国民国家の在り様も変わり、経済的政治的国際システムも変わることになる。


現在でもいいし、バブルに浮かれていた時期でもいいし、目に見える勢いで生活が良くなった高度成長期でもいいが、どの時点でも隷属性を感じなかったという人は、今後の世界でも隷属性を感じることはないのである。

感じ取りにくくなった隷属構造から抜け出すためには、隷属性を論理的に認識するしかない。そして、隷属性を認識すれば、隷属性を感じることになる。

ハイテク物語とおどろおどろしい表現で予言される「未来の奴隷化」を危惧するのも大事だが、それ以上に重要なのは、現在の隷属性をきちんと認識し、そこから抜け出す術を見つけ出すことである。


現在の隷属性を認識していても、落胆することもあきらめることもない。

隷属性を認識しながらも、自分や家族のために働き、片隅で束の間の心地よさを味わい、“その時”がやってくるのを待てばいいのである。
(刹那的な快楽や物欲も忌避する必要はない)

隷属性を認識していれば、心地よさを感じる対象も変わり、刹那的な快楽や物欲の充足行動も変わる。

“その時”はそう遠くないうちに(もうまもなく)やってくる。

しかし、“その時”に、神が審判を下したり、救世主と悪の大魔王が壮絶な戦いを繰り広げた結果として、隷属のくびきから逃れられるわけではない。

“その時”までに現在の隷属性を認識する人が増え、“その時”までに見出した隷属克服法が合理的なものであり、“その時”までにそれを実現しようと思う人が多数派を形成しているかどうかで決まることになる。

それができていなければ、“その時”がやってきても、巧妙な「隷属システム」は継続し続ける。

(“その時”は既にやってきているのかもしれない)


自覚していないとしても、隷属を強いられている人々が主体的に動くことがなければ、“その時”がそのままずっと続くだけである。

主体に取り組むことなく、神や救世主の力もしくは世界史的理性や自然の摂理によって、“その時”が解決されることはない。
2006/10/18
 



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