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徽宗皇帝のブログ

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過去を水に流し続けた国民の末路
2005年の「阿修羅」記事のようだ。「東海アマ」経由で知った記事だが、フクシマ後の日本、自民党一党独裁体制確立後の日本という現在の段階で読むと、「日本人は変わっていない」という絶望的な気持ちになる。しかし、ネットの普及によって一般庶民が「歴史の真実」に触れることが容易になった今、歩みは遅いが、日本人が変わる可能性はゼロではない、という思いもある。
その僅かな光が、参議院選で日本共産党に投票した人々である。彼らは古い世代のようには従来の偏見に目を眩まされていない。お仕着せの思想で動くのではなく、自分の頭で判断できる人々だ。
何度も言うが、真の社会主義とは、一部の集団の利益ではなく、国民全体の利益を第一義とする思想のことだ。今の日本がその対極であり、一部の利益、僅かな富裕者や特権階級の利益のための政治しかやっていないことは明らかだろう。そして、社会主義を是とする政党は、今のところ社民党と共産党くらいである。
我々はあまりに社会主義というものに恐怖心を持ち過ぎた。(その原因の一つは、ほとんどの人間に社会主義と共産主義の区別がついていないことだ。学校の教師ですら、この点ではあやふやだろう。)それが日本の社会をここまで歪めてしまったのである。ついでながら、かつての学生運動はマルキシズムという「奇形社会主義(共産主義)」に毒されたアナーキズム的運動であり、「革命後のプログラム」などゼロであった。おそらくいざとなればソ連に頼ればなんとかなる、くらいの気持ちでしかなかっただろう。あの凶悪なスターリニズムに毒された、かつてのソ連にである。
今のロシアは、ソ連当時の残酷なスターリニズムとソ連解体後の「強者総取り」の悪辣な新自由主義(貧困階級の女性の多くは売春するしか生きる手段は無かったという)の両方を経験してきた。その後で大統領になったプーチン自身が苦々しい思いでかつてのその過程を見、その教訓を心に刻み込んでいるはずだ。だからこそ、彼の政治は常に「国民第一主義」なのである。だからこそ、彼は国民の敵であるユダ金をロシアから追い出すという離れ業ができたのである。
さて、日本の政治がその段階に行くまで、あとどれくらいの歳月が必要だろうか。日本にプーチンレベルの政治家が現れるまで、あとどれくらいかかるだろうか。
TPPによって「新自由主義最終形態」をこれから日本は経験するのだが、おそらくそれは「真綿で首を絞められる」ような社会になる、と私は予測している。国民の多くは窮乏するのだが、それがなぜそうなったのか、ほとんどの国民は理解できず、ただ苦しむのである。

ニーメラーの箴言をもじれば「農民が苦しんだが、私は農民ではないからそれを見過ごした。生活保護受給者が苦しんだが、私は生活保護受給者ではないからそれを見過ごした。老人医療費が値上げされたが私は老人ではないからそれを見過ごした。電力料金やガス料金が次々に値上げされたが、私の財政からは些細な金額だったから私はそれを見過ごした。福島で多くの人が苦しんだが、私は福島県民ではないからそれを見過ごした。そして、或る日私の番になった」というわけだ。


(以下引用)


清沢洌 『暗黒日記』 (東京新聞)
http://www.asyura2.com/0502/war69/msg/264.html
投稿者 彗星 日時 2005 年 4 月 11 日 18:09:05: HZN1pv7x5vK0M

特報
2005.04.11
清沢洌 『暗黒日記』
特攻作戦を経験した2人と読む 
 敗戦直前の一九四五年五月までの二年半の間、戦時中の政治と世相を記した日記がある。自由主義者の知識人、故清沢洌が記した「暗黒日記」(評論社と筑摩書房から出版)だ。鋭い視線は「国民は被害者」といった感傷とも一線を画す。今年は戦後六十年。この日記を「特攻」に加わった斉藤一好、信太正道両氏と読んだ。六十年間で日本社会は変わったのか、変わらなかったのか。 (田原拓治)
 「昨日、アッツ島の日本軍が玉砕した旨の放送があった。(略)何故に本部は進んでこれに援兵を送らなかったか。(略)もっとも一般民衆にそんな事は疑問にならないかも知れぬ。ああ、暗愚なる大衆!」(四三年五月三十一日)
 「(本土決戦の宣伝に)海において撃退し得ないのを、(米軍)上陸の際、どうして破ることができるのか」(四五年三月十四日)
 日記上で、清沢は非科学的な軍部の発表に押し流される政治家と民衆にしばしば憤りをぶちまける。
■正論で殴られる怖さが先に立ち
 信太氏はこう振り返る。「海軍では『大変な苦戦』は伝わっていた。でも、戦局不利なんて口に出せない。兵隊は正論を語り、それで殴られる方の怖さが先に立った。本土決戦になれば、米兵は足腰が弱く、われわれは柔道や相撲で鍛えられているから勝てると平然と語られた。危機感よりも安心感すら漂っていた。一般の国民に客観的な視点はない。誰もが戦局不利とは思いたくなかった」
 四三年夏、南洋ラバウルの前線で従軍記者(海軍報道班員)から取材された斉藤氏も「現実の苦戦にもかかわらず、なぜ内地では勝った勝ったと騒いでいるのか、不満だった」と語る。
 「体制に国民が流されるのは現在も変わらない。しょうがないと日本人はすぐ思ってしまう。自衛隊のイラク派遣しかりだ。散発的な反抗のみで続かない」
 そのイラク派遣で、政府は批判的な専門家の意見は聞く耳持たずだった。戦時中はどうだったのか。
 「物を知らぬものが、物を知っている者を嘲笑(ちょうしょう)、軽視するところに必ず誤算が起こる。大東亜戦争前にその辺の専門家は相談されなかったのみではなく、いっさい口を閉じしめられた」(四三年七月十四日)
 斉藤氏は「日米開戦の年に戦艦長門に配属になった私たち少尉候補生を指導した海軍少佐は、日本は米国に勝つ見込みはなく、日米開戦はあり得ないと断言していた。だから、年の暮れに開戦と聞いて半信半疑だった。後はしょうがないの論理だ」と回想する。
 「不思議なのは『空気』であり、『勢い』である。(米国にもそれはあるが)日本のものは特に統一的である。その勢いが危険である」(同六月二十七日)
 「空気は怖い。客観性を覆い隠してしまう」と信太氏は話す。「特攻隊の自分でも最後は助かる、これは悪夢に違いないと思っていた。この楽天性は日本人の遺伝子なのかとも思う。裏を返せば、見ざる、聞かざる、言わざる、の“三猿主義”の結果なのだが」
 斉藤氏は「国家によるマインドコントロール」と空気の正体を看破する。「江田島(海軍兵学校)の同級生でもいまだ、敗戦を認めない人がいる。ただ、(二〇〇〇年の)森喜朗首相の『神の国』発言をみても、それは過去の話ではない」
 清沢はさらに統一的な空気が「あれはアカ(社会主義者)だ」「米英的思想だ」といったレッテル張りの排撃で成り立ち、知識層を委縮させた点に注目する。
 この点を信太氏は「日本人は決めつけが大好き。相手から学ばず、でかい声を出した方が勝ちになる。この点は右翼でも左翼でも変わらない」と冷静にみる。
 決めつけと同時に告げ口も横行した。「鮎沢巌君世界経済調査会を辞む。(略、彼は)愛国的動機から外国人と交際していた。それが疑いを買ったのである。鮎沢君は密告されたのだという。この密告好きの国民!」(四三年十月二日)
 当時、社会では隣組制度があった。信太氏は「配給制度で広がり、表面的には仲良くやっていた。でも、実態は告げ口のため、隣組を大事にしつつも、一方では恐れていた」と話す。
 排撃されたのは知識人だけではなかった。言うまでもなく、中国人や朝鮮人に対しては攻撃的だった。
 「お前(七歳の長男)は『お父さん、あれは支那(中国)人じゃないの?』と壁にかけてある写真を指して聞いた。『ウン、支那人ですよ』と答えると、『じゃ、あの人と戦争するんですね』というのだ。(略)お父さんは憂鬱(ゆううつ)になったんだ」(三三年三月十四日、『暗黒日記』序文として転載)
 海軍兵学校の教育では、「脱亜入欧」が貫かれていたと斉藤氏は振り返る。「戦争をしながらも、米英には敬意を抱いた。裏返しにアジア人には、潜在的な蔑視(べっし)の意識が強かった」
 信太氏は子供時代の銭湯を思い出す。「帰還兵の人がいて『チャンコロ(中国人の蔑称)の首を切るとどんな音がするか、分かるか』と言い、手ぬぐいをパンとはたいた。その音を聞き、このおじさんは英雄だと疑いもなく思った」
 戦火が激しくなるにつれ、民心も荒れていく。
 「ある男が(無断で)垣根の枝を折っている。(略)日本人のモラール(道徳)の低下したことは驚くの外はない。(略)戦争の際は、(略)物資が不足する事、気が荒くなる事、道徳面の統制力が弱化する事」(四三年十一月一日)、「どこでも喧嘩(けんか)である。(略)今後数十年間、日本はこの不親切が常道になるのだろう」(四四年三月八日)
 戦争が先か、民心の荒れが先かは微妙だ、と斉藤氏は話す。「戦前も現在と同様に大不況の後、一気に軍国化していった。生活の不安定さは特定の政治方向に引っ張られる条件になる。おぼれる者はわらをもつかむ、という心境なのだ」
 「東条(英機)首相の演説に対する感想を満州国、タイ(略)から集めて(略)大々的に取り扱っている。こうした子供らしい自己満足が世界をして日本を侮辱させることになるのだ」(四三年六月十七日)
 斉藤氏は現在、敗戦によっても、こうした心性はぬぐえなかったと考える。
■海軍の中ですら戦争批判あった
 「理解し難いのは、戦前の誤りに対する指摘が『自虐史観』になるという考えだ。海軍の中ですら、日中戦争批判はあった。反省すべきことを反省してこそ、自分の祖国を誇れる。愛国心教育にしても、愛国心は自然にわき上がるもので押しつけるものではない」
 「時が経(た)つにつれ、物事を美化したがる」のは「お上の情報を信じたがる」ことと併せ、日本人の悪い癖だと信太氏は指摘する。
 「水に流すという言葉に日本人はイチコロだ。一億総ざんげでおしまい。この六十年間で日本人は何も学べなかったのではないか」
 清沢も激しいいら立ちを込め、こう記している。
 「日本人の美徳はあきらめにあり。しかし、積極的建設は到底不可能である。(略)日本人も必ず今後同じことを繰り返さん」(四三年七月二十五日)
 


きよさわ・きよし 自由主義の評論家でジャーナリスト。1890年、長野県の裕福な農家の三男として出生。キリスト者、内村鑑三の弟子が主宰する私塾に学び、16歳で渡米。邦字紙で活躍した後、28歳で帰国。「中外商業新報」(現日本経済新聞)や「朝日新聞」を経て独立。外交方針批判で1941年に政府の「意見発表禁止者」リストに。暗黒日記の原題は「戦争日記」で後に現代史を書こうと社会状況を克明に記したが、45年5月に55歳で病没。暗黒日記は98年、米国でも出版された。
 さいとう・かずよし 1920年、山梨県生まれ。38年、海軍兵学校(69期)入校。連合艦隊旗艦「長門」に乗艦し、41年12月の日米開戦に加わる。その後、駆逐艦「雪風」、潜水艦「イ400」に乗り、45年7月、ウルシー環礁への特攻作戦に出撃したが、攻撃直前に敗戦。戦後、弁護士となり、54年、青年法律家協会結成に参加。スモン薬害訴訟や水俣病弁護団に加わり、日弁連理事も務めた。
 しだ・まさみち 1926年、札幌生まれ。42年、海軍兵学校(74期)入校。45年7月、神風特攻隊員に指名され、前線基地に移動中、敗戦。戦後、大学卒業後、海上保安庁で朝鮮戦争時の機雷掃海に従事。海上警備隊を経て航空自衛隊へ。58年、日本航空に入社し国際線機長。86年に退職後、居住地の神奈川県逗子市で池子米軍住宅建設反対運動に参加。現在は「厭戦(えんせん)庶民の会」代表。
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050411/mng_____tokuho__000.shtml





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