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徽宗皇帝のブログ

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天皇制を論じる基礎知識
「混沌堂主人雑記」所載の「蚊居肢」記事の一部で、「天皇制」の「見えにくい部分」を見やすく書いているので転載する。ただし、書かれたすべてのコメントに賛同しているわけではないが、どれも「頭のいい人たち」の議論なので、問題のポイントは押さえていると思う。特に最初の「宗教としての天皇制」は天皇制と言うより、「宗教」の厄介な部分の最大のポイントではないかと思う。つまり、「勝手に祈られる」ことで、有象無象が(敵も味方も含めて)その恩恵を受けていることにされるという問題だ。ただし多くの宗教の場合は、さほど頭のいい人はいないので、「私が祈ることでこの国の万民が恩恵を受けているのだ」と豪語する人はあまりいない。単に、その宗教の信者が信じて教団にお布施を献納するだけであるwww
まあ、明治から太平洋戦争敗戦までの「神格化天皇」は、そういう「宗教としての天皇制」が日本の近代化の原動力になり、それが帝国主義かぶれの軍部の独断専行もあって敗戦の悲劇になり、「神格化天皇」は終わったわけだ。そしてそれ(人間天皇・権力と無縁の天皇)が中世以降の本来の天皇の姿でもあったということも私だけの意見ではないだろう。

(以下引用)


◼️宗教としての天皇制
じっさいに〈天皇(制) 〉が農耕社会の政治的な支配権をもたない時期にも〈自分ハソノ主長ダカラ農耕民ノタメ、ソノ繁栄ヲ祈禱スル〉というしきたりを各時代を通じて世襲しえたとすれば、この世襲には〈幻想の根拠〉または〈無根拠の根拠〉が、あるひとつの 〈威力〉となって付随することは了解できないことはない。いま、 〈大多数〉の感性が〈ワレワレハオマエヲワレワレノ主長トシテ認メナイ〉というように否認したときにも、 〈天皇(制) 〉が〈ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈禱スル〉と応えそれを世襲したとすれば、この〈天皇(制) 〉の存在の仕方には無気味な〈威力〉が具備されることはうたがいない。わた しの考察では、これが各時代を通じて底流してきた〈天皇(制) 〉の究極的な〈権威〉の本質である。(吉本隆明 「天皇および天皇制について」 『詩的乾坤』国文社 1974.9.10)
 
 
 
天皇を政治的な立場から外せば天皇制という仕組みがなくなると単純に思っているひとがいるが、僕はそうは思っていない。僕らが縁日で金魚すくいをやっている限りは、神道の名残は残ると思っています。それと同じように天皇の名残も残り続けるのです。縁日に行って神社に露店が無くなったときに初めて、日本の神道がなくなるように原始からの何層もの積み重ねが現代の日本を形作っているのです。(吉本隆明『真贋』2007年)
 
そもそも日本の原始的な宗教性は神道にあり精神的な活動をされる方の多くは神道にもとづいています。…天皇の地位や存在についても起源からたどっていけばこのように考えることができるのです。…文学でいえば柳田国男や折口信夫が僕らを満足させる考え方にひとりで到達しており感心します。(吉本隆明「真贋」) 2007年)
 
 

天皇の責務は第一に神道の祭祀であり、その次が和歌などの文化の伝承だった。国家の統治ではない。だからこそ、権力闘争の場から微妙な距離をおいて、百代を超える皇統が維持できたのだろう。後鳥羽院はまず超一級の詩人で、次いで二級の君主だった(それでも天皇にしては政争過剰)。こんな王が他の国にいたか。


千年を超える祭祀と文化の保持の後に維新が起こり、ヨーロッパ近代が生んだ君主制が接ぎ木される。島国は島のままではいられなくなった。グローバルな戦争の果てに、昭和天皇は史上初めて敗者として異民族の元帥の前に立たされた。この人について大岡昇平が「おいたわしい」と言ったのはそういうことではなかったか。一人の人間としての昭和天皇の生涯を見れば、大岡の言葉はうなずける。(池澤夏樹『終わりと始まり』2014年)
 
 
 
 
 
 
 
◼️象徴天皇制
 
不変項として、天皇制の宗教的な貌があるとすると、可変的な貌としては、権威/権力の分掌体制すなわち二重王権としての天皇制がある。この二重王権としての天皇制の歴史は、おそらく中世なかばに大きな断層があって、ふたつに分かたれる。天皇みずから権力を握る可能性へと開かれていて、朝廷というマツリゴトの庭がたしかなものとして存在した後醍醐の以前/以後では、同じように二重王権であっても、その帯びる意味は大きく異なっているということだ。戦後の象徴天皇制は、いわば中世なかば以降の、権力への途を断たれた天皇制の最後の段階と位置づけられるだろうか。 (赤坂憲雄『象徴天皇という物語』1990年)
 
 
 
象徴天皇制というのは私の持論でありますが、戦後復活したものでございまして、急にGHQ その他から押し付けられたようなものではない。本来の在り方に戻ったもので、実は幕末以前に長い歴史がある。それこそ 1,000 年以上の歴史を持っている。つまり、君臨すれども統治せずというような君主の在り方を象徴天皇制。象徴天皇制を広い意味に取りまして、そういうふうに名づけてみたいです。18~19 世紀からイギリスで君臨すれど統治せずということが言われているんですが、そういうのは実は日本が先輩で、はるかに以前から、そういうことでは日本の方が制度化されていたんだということが、私が一番言いたいことでございます。 (今谷明ーー第1回「皇室制度に関する有識者ヒアリング」2012年、PDF)
 
 
 
――近著では、戦後憲法の先行形態は明治憲法ではなく「徳川の国制」と指摘していますね。


柄谷行人:徳川時代には、成文法ではないけれども、憲法(国制)がありました。その一つは、軍事力の放棄です。それによって、後醍醐天皇が『王政復古』をとなえた14世紀以後つづいた戦乱の時代を終わらせた。それが『徳川の平和(パクストクガワーナ)』と呼ばれるものです。それは、ある意味で9条の先行形態です。〔・・・〕


もう一つ、徳川は天皇を丁重にまつりあげて、政治から分離してしまった。これは憲法1条、象徴天皇制の先行形態です。徳川体制を否定した明治維新以後、70年あまり、日本人は経済的・軍事的に猛進してきたのですが、戦後、徳川の『国制』が回帰した。9条が日本に根深く定着した理由もそこにあります。その意味では、日本の伝統的な『文化』ですね。
「9条の根源 哲学者・柄谷行人さん」(朝日新聞 2016年6月14日)



 
天皇制ボロメオの環として示せばこうなる。
天皇制廃止を言うなら、最低限このどれをも視界に入れて語らないとな。で、土台は宗教だ。しばしば語られてきたアニミズムと言ってもよいがね。
いま見たら、同志社大学教授の原誠氏も2011年にこう言ってるようだがね、《(天皇制は)日本の文化や習俗や宗教、農業、農村、共同体、法または憲法や民族、軍事、規範、倫理など全体を包括するいわばシンドロームのようなものではないか。〔・・・〕天皇制の根底にはアニミズムを背景とした日本の文化や共同体があり、その上に天皇制が成立し、それが未整理のまま今日に至っている。》
さすがに浅田彰は、実際に、天皇制イデオロギーだけではなく、象徴天皇制も、さらには、宗教としての天皇制も視界に入れつつーー《天皇家が、ある種の宗教的・文化的伝統の保持者として存続する(それこそいわゆる「人間国宝」として)というシナリオも、考えられなくはない。》ーー、天皇制廃止論を語っている。

……私はもちろん天皇制も元号も廃止すべきだと考えている。理由はきわめて単純で、近代民主主義国家はすべての国民が生まれつき平等であるという原則に基づいているのだから、ある一族のメンバーが世襲で元首に――あるいは元首でないにせよ「象徴」になるというのはおかしい。むろん、世界には民主主義国家でありながら立憲君主制を残している国も多いが、君主の名の下に行った戦争の結果として国が危うくなるほどの敗北を喫した場合は、第一次世界大戦後のドイツのように君主が退位し君主制から共和制に替わるのが当たり前だろう。そのときのドイツ以上の壊滅的敗北を喫した第二次世界大戦後の日本でも、天皇制廃止を求める声は左翼を中心にかなりの広がりを見せたし、右翼の側でも天皇制の存続(「国体の護持」)のためにこそ昭和天皇は戦争の責任をとって退位すべきだという議論があった。それが実現しなかった原因はいろいろあるが、最大の要因はアメリカを中心とする占領軍の意向だろう。日本に負けるおそれはまったく感じていなかったものの、日本軍の自殺攻撃に最後まで悩まされたアメリカは、敗戦後の日本の徹底的な武装解除のため戦争放棄・戦力不保持を定めた「平和憲法」を押し付ける(そして、ジョン・ダワーの表現を借りるなら、「敗北を抱きしめた」日本国民は押し付けられた「平和憲法」をも「抱きしめる」ことになる)と同時に、日本国民を宥めるため、また来るべき冷戦において日本が社会主義圏に接近するのを防ぐために、連合国のいくつかの反対にもかかわらず、昭和天皇と天皇制を温存することにした(この深慮遠謀に比べ、イラク戦争のとき独裁者サダム・フセイン大統領を倒せばイラク国民から解放者として歓迎されるだろうと思い込み、結果、占領後も自爆テロに悩まされることになった現在のアメリカの知的劣化は、目を覆うべきものだ)。つまり、「平和憲法」がアメリカに押し付けられたものだと言うのなら、「昭和天皇退位なしの天皇制存続」もまたアメリカに押し付けられたものだと言うべきなのだ。とはいえ、自由民主党が、戦争放棄・戦力不保持を定めた憲法9条の「改正」を狙っている中で、天皇制廃止のための改憲(1章の削除と書き換え)を提起するのは藪蛇であり、政治的に愚かであろう。したがって、原理的・長期的には日本も天皇制を廃止して共和国(アメリカやフランスより、さしずめドイツやイタリアのような大統領制にすれば、良かれ悪しかれ現状とそう変わらないのではないか)になるべきだけれど、実際的・短期的には9条改憲を阻止するため護憲の立場を取った方がいいというのが、私が高校時代にたどり着いた「大人の妥協」だった。しかし、明らかに9条に違反する自衛隊が国外でもさまざまな活動を展開するところまで来た現在、こうした妥協的護憲主義は限界に来ていると言うべきだろう。だとすれば、1章改憲と天皇制廃止をあらためて議題とする必要があるというのが、現在の私の意見である。


誤解を避けるために付け加えれば、天皇制への批判と天皇への批判は別だ。平成天皇(という呼称の方が明仁よりわかりやすいのでここではこの呼称を採用する。徳仁についても同様。ただこれはあくまで便宜上の判断で、「平成天皇・令和天皇というのは死後につけられる諡号だから生前に使うべきではない」という形式主義にまでは付き合わない)が、自然災害のたび被災者を慰問するとともに、父・昭和天皇の名で戦われた戦争の犠牲者(外国人も含む)のため、沖縄のひめゆりの塔(皇太子時代に昭和天皇の名代として初めて訪れ、過激派から火炎瓶を投げつけられたが動じなかった)からサイパンのバンザイ・クリフにいたる激戦地をめぐって「慰霊の旅」を続けてきたことは、国内外の多くの人々が高く評価するところであり、その点では私も例外ではない。実際、平成天皇の平和主義はかなり徹底したものだ。〔・・・〕


もうひとつの誤解を避けるためにさらに付け加えれば、天皇制廃止といっても、フランス革命のようなことを考えているわけではもちろんない(たとえば1918年にドイツ皇帝の座を降りたヴィルヘルム2世は1941年に死ぬまでオランダで暮らした――ドイツ国内の帝政復古派を支援し続けた往生際の悪さは褒められたものではないけれど)。天皇家が、ある種の宗教的・文化的伝統の保持者として存続する(それこそいわゆる「人間国宝」として)というシナリオも、考えられなくはない。(ちなみに、ナショナリストとして「美しい国」を目指すと言いながら天皇家の伝統を蔑ろにする安倍政権に対し、アイロニカルに天皇主義者を演じてみせる磯崎新によれば、平成天皇の即位式と大嘗祭をはじめて東京で行ったことがすでに伝統の破壊なのだが、譲位のあと上皇が赤坂の元・東宮御所に戻るというのも順序が逆なので、さしずめ幕府の専横に抗議して退位した後水尾上皇の例に倣って京都の仙洞御所を改築し、さらには修学院離宮に代えて沖縄北部の美しい岬にある奥間レスト・センターをアメリカ軍から返還させ海洋生物研究施設を併設した沖縄離宮をつくる手もある、という[「連載・デミウルゴス 第2~3回 見取り図(2~3)」、『現代思想』2019年5~6月号]。なお、敗戦で昭和天皇の退位が検討されたときは、京都の仁和寺が隠居所として想定されていた――ということは出家して法皇になるシナリオだったのだろうか。)


別の角度から言うと、天皇制廃止は、むしろ、皇族解放(奴隷解放や被差別部落解放にならって言えば)――皇族に一般人並みの人権を与えることに他ならない。端的な例を挙げるなら、キャリア外交官として活躍していた小和田雅子が皇太子(後の令和天皇)と結婚して皇室に入って以来、長らく「適応障害」に苦しんできたことはよく知られている――というか、病名を含むプライヴァシーまで全国民の眼に晒されるということ自体、重要な地位にある公人でなければ普通は考えられないことだ。秋篠宮(新たに皇嗣となった)の長女の結婚問題にしても同様である。いや、時代が時代だけに比較にならないほどの覚悟をもって皇室に嫁いだ正田美智子さえ、感嘆すべき忍耐をもって、皇太子、そして天皇となった夫を総じて見事に支えてきたものの、「平民」からの入内に拒否感をもつ守旧派から長年バッシングを受けたと言われ、1963年に流産のあと3か月ほど一人で静養することを余儀無くされるとか、1993年から翌年にかけて精神的苦痛から声が出せなくなるとか、幾度かの深刻な危機を乗り越えてきたことを忘れてはならない。彼女らを含む皇族にも、一般人と同じ自由とプライヴァシーが与えられるべきなのだ。(新たな皇后に関しては、ストレスが増しても精神状態が悪化しないよう祈るばかりだが、それにしても「皇室外交」の最初の国賓がドナルド・トランプというのだから、運が悪いと言うほかはない。)
(浅田彰「昭和の終わり、平成の終わり」2019年05月01日)

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