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徽宗皇帝のブログ

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宗教による政治支配という悪夢
日蓮宗、あるいはその後継の宗派は、なぜか政治との関わりを重視し、「カルト的政治運動」の原動力となる印象が私には強く、それが昭和前期に軍部(血盟団シンパが多かったと推定できる)によるアジア侵略策動へつながった大きな要因のひとつだと私には思われる。大きく言えば、日蓮宗があの戦争の直接の原因になったということだ。
下の記事は九州大学教授(だと思われる人物)の学術論文の冒頭だが、私のその疑問を裏付ける内容に思えるので、転載する。
単純に言えば、日蓮の理想はカトリック的な「祭政一致」国家だったかと思う。その宗教信者以外の国民には迷惑極まりない話で、それは現在のS価学界の存在も同じではないか。

(以下引用)文中の字の一部が外部の手によって意図的に改竄(誤字化)されている可能性が高い。私が読んだ時には無かった誤字が多い。元記事参照のこと。


日蓮における政治的行動と法知識人的性格
                     笠井正弘


日蓮宗系諸教団を観察すると、その特徴として現世利益的呪術的密教文化の色彩を強く示す反面、程度 の差はあれ、又歴史的状況によっても強く影響を受けるが、高度の政治的関心が存在する乙とが指鏑きれ (1) る。たとえば創価学会は周知の如くその政治的関心のもとに公明党という政治組織を結果している。我々 は創価学会の組織を独立変数として、その政治的行動を捉え易いが、確かに公明党という組織は創価学会 の組織の存在抜きには展開し得ないものの、政治的関心自体は、伺等組織の存在に第一義的に関わっては いない。別の例として臼本山妙法寺を挙げてみよう。 ζの宗教運動は、明治 30年代より顕著になってき た日連主義運動と軌をーにする。近代化の急激は傾向下での、日蓮宗系教団内の改革運動の一つである。 日湾主義運動も政治的関心の強い逮動であり、 5・15や 2・26事件と密接に関わっていた乙とが知られ ているが、それは宗教逐動に迄は展開せず、教団内の教義解釈闘争の閣をほとんど出なかった。それに対 して、日本山は、前述の創価学会と同僚、自ら新たな改心者を産み出し、強い信仰で結ばれた宗教運動へ と展開した。然るに日本山は、創価学会が宮僚制的権造持した組織体であるのとは対照的に(?)その唱導 者藤畑違師の偶人的カリスマ峨定的峨存する、 face- to - face な織造を持つ組織体である?)そ の宗教的行為としては、日本のみならず世界をも視野に入れた仏舎利繕建立をスローガンに、各地iζ仏舎 利犠を出現させてきた。その反面、核兵器廃絶の平和行進や、水俣闘争、成田空港闘争に積極的に関わり、 過激な政治運動をも展開している。創価学会の宗教性を安易に批判する者が、 宗教と政治を混同している !4) 点を挙げているか、 その批判は日本山に対しでも当てはまると言えよう。創価学会と日本山は、全く異質 な組織体であるにもかかわらず、ともに高度な政治的関心が観察されると言う ζ とは、少くとも創価学会 の政治運動を、その組織を独立変数としてのみ促える ζ との危険性を示すに充分と言える。日蓮宗系諸教 団における政治志向性の強さは、それ自体が独立した宗教的文化因子であり、政治的運動自体が、緩めて 宗教的行為であるという点を見逃してはならない。日本山の仏舎利塔は、その宗教的意味としては、創価 学会の大石寺の板曇陀緩と問機、重量も重要な象徴であるが、平和稽とも意味付けられていて、政治的意味 付けは、板愛陀緩以上に強い。則ち、仏舎利塔の建立運動自体も亦政治的意味を持っているのである。従 って日本山の宗教性令分析する際に重要な視座は、一見日常的文脈内にあると考えられている世俗内的政 治行為に、彼等はいかにして非日常的宗教的意味を付与しているか、を解明するととにある。しかし ζ の (3) 論文では、臼本山の研究を直緩対象としていないので、その詳細は他の論文に議る ζ とにしたい。 ζζ で はそのような日蓮宗系教団i乙特徴的な政治志向性を示す宗教性の唱導者、日蓮自身に焦点を当て、彼の宗 教性に占める政治行動の意味と、その様な宗教性を構築させるに至った彼の性格巻、特に後者を中心に考 察しようと思っている。 日蓮における政治的行動と関わった宗教的シンボルとしては、諌晩、あるいは国主諌暁という概念が中 - 1ー 核的位霞を占めており、後の教団展開κ際して、重要な宗教的行為のーっとして把持されてきた。それは 為政者}ζ法撃経信仰、それも久遠実成釈尊という最高神格への人格的信仰を、国教として採用する ζ とを 勧め、更にその中心的象徴として国立戒尊重ぞ建立し、 全民衆の帰依の中心、秩序の中心を現世l乙出現 させ ようとするための政治行動である。そしてそれは伺よりも 白蓮自身の宗教的行為自身にその原型が見出さ {5) れる。 日蓬の宗教活動は、少くともその禍の予言者的特徴を持つに至った局面に関しては、 文応元年 ( 1260年) 39才の時、 『立正安国論』を幕府へ上皇し、念仏宗の停止を公的に訴えた時に始まる。B蓮 自身ζの行動を最初の諌暁と呼んでおり、乙の後文永五年 (1268年)の再度の『安国論』の上呈、更に 文永十ベ年 (1274年)の侍所所司平頼綱との会見と言う三度の政治的行為ぞ、諌暁という概念は実体的に (6) ー 現わしている。この概念は、冗来、中国読書人官僚の精神的支柱をなしている儒教的儀礼を、 皇帝が伝統 i乙従って行なっているかを見猿る役目を荷った御史太夫の皇帝への抗議権を示すものである。しかし臼蓮 宗系諸教団の場合は、国主へ、法議経を国教化する乙とを要求する行動を指している。日蓮の場合、その 国主として、鎌倉幕府を、それも執権北条氏(時頼及び時宗)とその得宗被官平頼綱等を具体的には指し ている点が重要である。朝延や当時の朝延系の非源氏的将軍には、日蓮は無関心というよりは敵対的です (7) らある。乙の織な態度は、関東武家系の領主ー名主層に共通のものではなかったかと思われる。日蓮は明 らかに執緒北条氏を頂点とする関東武家支配を正当的支配とみなし、それに強い愛着を感じているものの 一人である。それ故それは、憎悪の混床でもある。さてこ ζ で日蓮に特徴的であるのは、その幕府との関 わりの接点が、公場対決という、法延闘争を通してであり、諌暁という概念も、彼にあっては、上述、の如 く『安国論』を土呈し、 実は法による公場対決を要求する行為を示 しているのである。とれは日蓮の宗教 性を考察する場合に重要な観点となろう。彼は蒙古来襲による幕府の滅亡を予言し、それ散禍の予言者の 類型に入れられると思うが、 「あはれ平左衛門殿さがみ殿日蓮をだに用いられて候しかば、すぎにし草案 (司) 吉国の朝使のくびはよも切せまいらせ候はし1という言葉や、雪宮古を隣国聖人と呼ぶ態度比は、武断的行 為を避ける傾向が強く見られる。しかもその平和主義的色彩は、法治主義的秩序維持への強い傾向に綬ざ (9) していると思われ、秩序維持への侵犯に対しては、激しい怒りを示しているのと対照的である。幕府』乙対 する亡国の呪誌、言い換えれば禍の予言は、乙の怒りの局面の現われだとも言えよう。幕府への呪誼の正 当性は、明らかに幕府が法秩序を侵犯したという視点に立脚している。 「御式自を見るに、五十一箇条を立 てて、終』E起請文を香毅たり。第一第二は神事仏事乃至五十」等云々。神事仏事の肝要たる法華経を手にに ぎれる者を富良人等』乙召合せられずして彼等が申すままに頭に及ぶ。然れば他の中にも比起議文に相途する 。。 政道は有らめども、此は第一の大事なり。日蓮がにくさに国をかへ、身を失わんとせらるる歎。 Jと言 う 表現等は、それを良く反映している。すなわち、 国の亡ぶ原因は、幕府が式自民規定された政道に相違し た行政を行なっているからだと言 う文脈が織成されている。猶日蓮は、法華経より f久遠実成釈尊』とい う人格的神性を要請して、強自の宗教性を確立したのであるが、その神性は、秩序違犯者を厳しく筒する 怒りの人格を特徴としている。彼の世界観については、詳細は「宗教研究 53巻Jを参照されたい。 そζ で伺よりも重要な点は、その世界観が、 日蓮の法秩序維持への高度に固着化した理念と、その違犯に対す る激しい怒りとであり、人格的神性の要請は、怒りという日選の人格的行為の要請に依る投影だという点 -2- にある。回選自身やその支持者逮は、その人格的神性の世界の出現を予告し、又その出現を確かなものと する使者に位置付けられ、その行為によって生ずる迫害の存在を正当化しようとしている。そしてその行 為乙そが、現世における緩も宗教的行為と位置付けられ、かくて謙暁という政治的行為は、日運宗におい て、長も宗教的な行為の一つの座ぞ獲得する に至った。以上述べて来た論点より、臼重IPζも政治的行為が 色濃く観察され、しかもそれが彼の宗教性の中核を占めている点、及びその政治蔚苛性に世俗的法秩序維持 への強い価値付けが関わっている点が示されたであろう。そ


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