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徽宗皇帝のブログ 徽宗皇帝のブログ

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メモ日記「生活」9

#161 物の価値と人間の価値

価値ほど主観的なものは無い。特に美術品の価値など、見る人によって天と地ほどに違うものである。それを利用して、美術品は様々な「錬金術」に使われる。たとえば、織田信長が茶道に凝ったのは、実は茶道具の「価値」が主観的なものであることを利用して、手柄を立てた部下への褒美とするためだったという。つまり、土地には限りがあるから、部下への褒美として領土を与えていたらいつかは追いつかなくなる。そこで、茶道具を領土以上に価値があるものだと思わせて、部下を操る道具にしたわけである。白人が土人にガラス玉をくれて貴重な物産を手に入れたようなものだ。
現代でも、美術品の価値があいまいであることを利用して、政治家への賄賂にすることが行われるという。税務署に対してはあまり価値が無いように見せながら、大金が必要な時は、いつでも金に替えられるわけである。
物質として見た場合の人間の原価は1ドル程度だと言われている。それを利用したショートストーリーがあって、神様が貧しい若者に、1ドル分の願いを叶えようと言う。若者はがっかりするが、翌朝目覚めると、その枕もとに、若者が憧れていた女性が座っていたという話だ。というわけで、人間の価値は金には換算できないのであり、それを金に替えようとするから、「お前たちの値段は1銭5厘(赤紙の郵送代)だ」などという人間蔑視の思想が出てくるのである。

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メモ日記「生活」8

#141 可哀想な生徒たち

私が不審でならないのは、大学レベルでの科学の研究内容は結構面白そうであるのに、中学や高校での理科はなぜあんなにもつまらないのか、ということである。いっそのこと、大学の授業に中高生を連れていけば、案外と科学に興味を持つのではないだろうか。中高生の理科離れを嘆く前に、理科離れをして当然の教育内容を再検討するべきではないか。これはもちろん、社会科も同じである。中高生にとって、理科社会科は嫌悪の対象以外の何物でもない。ただ、丸暗記の得意な生徒の中には、理科や社会科を得意科目としている生徒もいて、そうした生徒は自分ができるから、だいたいはその科目が「好き」でもある。しかし、客観的に見るなら、現在の中学高校における理科や社会科が子供にとって面白いはずはない。だが、理科や社会科は、ある意味では主要3教科以上に大事な科目なのである。理科は、我々の住むこの世界についての知識を与え、社会科はもちろん、この社会の知識を与える。どちらも、大事な知識である。一生、一言も喋らない可能性のある英語や、現実人生ではまず使うはずのない数学の勉強よりも大事なくらいである。しかし、問題は、それが子供にとってはまったく「面白くない」ことである。ならば、理科や社会科の内容をがらりと変えて、子供が興味を持ちそうなトピックだけを教えればいいではないか。理科や社会科の目的は、将来、理科や社会科の教師や大学教授になる人間を作ることではない。しかし、現在の学校教科書は、まるでその前提で作っているかのようである。

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メモ日記「生活」7

#131 不幸の循環

私は理科が苦手な人間で、中学の理科でさえも理解できない。中学1年生の娘の学校の宿題で、「被子植物と裸子植物の違いを説明しなさい」と言われても、さっぱりわからず、父親としての権威も面目も失う有様だ。だが、言い訳に聞こえるかもしれないが、自分が中学1年生の時に感じたのは、なぜそんなことを自分が覚えなければならないのか、という疑問であった。将来、生物学者、植物学者になるならともかく、被子植物と裸子植物の違いを知ることが自分にとってどんな意味があるのか、さっぱりわからなかったのである。もちろん、高校に受かるためにそれが必要だとは知っていたが、まったく興味の無い植物の分類やら形態やらを覚えることには多大な苦痛を覚えたものである。だから、試験が終わると同時にそんな知識はさっさと頭から追い出してしまった。それが、実はほとんどの中学生の実態ではないだろうか。まあ、成長して理科の教師になるような人間は、そうした理科の内容に興味を持てたのかもしれないが、いったいどこをどうすれば被子植物と裸子植物の相違に興味が持てるのか知りたいものだ。で、理科の教科書や参考書は、「理科が苦痛でなかった人間」が書いたものばかりだから、どの参考書も子供にとっては面白くもなんともない、読むのが苦痛になるだけの本ばかりなのである。これは理科だけの問題ではない。社会科にしても、子供がけっして興味を持つはずのない内容を、読み、覚えることを子供に強要するだけだ。これは子供の最大の不幸である。

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メモ日記「生活」6

#114 英語的国民性

 記念写真を撮る時、昔なら「はい、チーズ」と言って撮ったもので、フーテンの寅さんが、間違えて「バター」などと言うギャグがあったりしたが、今は「1+1は?」と聞いて「ニー(2)」と答えさせたりする。これはもちろん、「チーズ」も「ニー」も「イ」の音を出す口の形が、笑う時の口の形であるからだが、では、英語国民はこのような場合、何と言うのだろうか。
 昔、「笑っていいとも」に、あるアメリカの女優(ジェイミー・リー・カーチスという女優だ)が出演したことがあったが、その女優はインスタントカメラを持参していて、舞台を写真に撮ろうとする観客を逆に記念撮影した。その行為自体のユーモアにも感心したが、その時、彼女が言った言葉が忘れられない。彼女は、観客席にカメラを向けて何と言ったのか? それは「スマイル!」という命令だったのである。なるほど、相手の笑った顔を写すのだから、「笑え!」と命令するのは理にかなっているが、何と言う端的な発言だろう。日本人の持って回ったようなやり方にくらべて、大雑把というか、ストレートというか、……。しかし、これが英語国民の国民性ではないかと思うのである。目的を達するための最短距離は何かと考え、それを実行する。その際に、相手がどう思うかなどは考慮する必要はない。なぜなら、相手は自分ではないのだから、いくらこちらがどう配慮しようが、その反応は予測と一致するとは限らない。相手が不快感を表明したら、その時点で交渉し、調整すればいい、というのが、英語的国民性だと私は思っている。こうした国民は、ビジネスの世界では確かに成功しやすいと思われるが、友人にはあまりなりたくないものだ。

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メモ日記「生活」5

 #85  納戸の骸骨

 英語のことわざの中には面白いものがいくつかあるが、私の好きなのは、「どの家庭の納戸にも必ず骸骨が一つはある」という奴だ。納戸ではなく、押入れとでも訳すべきかもしれないが。要するに、どの家庭にも、家庭内暴力とか、娘の売春とか、幼児虐待とかいった、世間には言えない秘密が一つ二つはあるということだ。最近では、本物の骸骨を隠した家庭も日本では多いようだが。
 家庭というものは、社会の最小単位である。ということは、そこはすでに社会なのだ。そこで対人関係の軋轢があるのは当然で、犯罪のかなりの割合は、家族に対する犯罪なのである。しかも、その犯罪は外部の目には触れにくいだけに、いっそう不気味なものになる。フロイトは、「不気味なもの」という論文の中で、ドイツ語のハイムリッヒ(慣れ親しんだ)が、しばしばその対義語のアンハイムリッヒ(不気味な、なじめない)と同じ意味に用いられることに着目しているが、家庭というものは、その中に居る人間にとっては確かに慣れ親しんだ場所である。だが、その家庭の外部にいる人間からは、しばしば不気味な、なじめないものになるものだ。誰しも、新しい知人の家に初めて行った時の居心地の悪さは経験があるだろう。そこは、自分の知らないルールや習慣で物事が動いている異世界なのである。だから、そんな場所でうっかり納戸や物置の戸を開けてはならない。そこには骸骨があったりするのである。


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メモ日記「生活」4

  #79  宝石・ガラス玉・水の雫

 私は、晴れた日も好きだが、雨の日も曇りの日も好きだ。大雨や台風は少々困るが、そんな日でも室内にいる限りは何も問題無い。「故郷の山に向かいて言うことなし」と啄木は歌ったが、「自然に向かって言うことなし」で、自然はすべて素晴らしい。空を見上げるだけで、誰にでも天然の名画が鑑賞できるのだから、何も大画家の絵を高い金を出して買うまでもない。いや、草の上に載っている一滴の露に、日光がきらめいて虹を作るのを見れば、その一滴の露は数億円のダイヤモンドにも勝ると思うのである。ダイヤよりもガラス玉のほうが美しいこともあり、一滴の水が美しいこともあるのである。
 おそらく、私は、独房に閉じ込められても、独房の窓から眺められる小さな世界や風景、夜空や朝焼けを眺めて満足できると思う。このように金のかからない人間だから、私に金が無いのも当然と言えば当然だろう。ディッケンズがうまいことを言っていたが、その正確な表現は忘れたので、意味だけを散文的に書くと、「給料の範囲内で生活ができれば、それが幸福であり、生活できなければ、それが不幸なのである」。
 さらに、蛇足的に言うなら、現代の人間の不幸の大半は、将来の不幸を先取りして悩む、妄想的不幸である。つまり、仕事を首になったらどうしよう、病気になったらどうしよう、年を取って体が利かなくなったらどうしよう、とあれこれ悩むのだが、そんな悩みは、不幸が起こってから悩めば十分であり、そのために現在まで台無しにするのは愚かだろう。

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メモ日記「生活」3

  #76  金銭の価値

 世の中で、金の欲しくない人間はほとんどいないと思うが、なぜ金が必要なのかというと、それは金があなたに自由を与えるからである。何よりも精神の自由を。金の欠如は、精神の自由さえ奪うものなのである。我々は自分の財布の範囲でしか物を考えられないものだ。財布の中身が1万円の人間の思考は、半径500メートル程度、その辺のコンビニエンスで売っている物のレベルで終わる。財布の中身が1億円なら、日本全体が視野に納まるだろう。1兆円なら、地球全体が。官僚や政治家がまがりなりにも広い視野が持てるとしたら、それは彼らが国民の金を自由に使えるからだ。(使っていい、というわけではない。)
 金が無くても想像を働かせて、広い視野を持つことは可能だ。マイク・ロイコか誰かのジョークだが、「私は亭主関白である。子供の進学とか、自動車や冷蔵庫や家の購入といった些事はすべて家内が決める。私は次の大統領を誰にすべきか、とかいうことを考える」といった感じで。(私もその一人で、家内は、私が稼ぐ金の使途について勝手に自分で決めている。私の裁量権は、私の頭脳の中の事だけだ。)しかし、金銭的限界という常識があなたの思考にストップをかけ、物を見えなくする。
 だから、金は必要だ。それは、金に縛られないために必要なのである。しかし、残念なことに、そういう人間のところに金が来る気遣いは、決してない。

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メモ日記「生活」2

#51  役に立つ知識とは (注 真面目な意見です)

 私の父親は、私が生まれたころはもうかなりな年齢で、子供への興味を無くしていたらしく、父親と話した記憶は少ないが、父親から学んだ知識で、今でも役に立っている知識がある。(学校で学んだ知識のほとんどはまったく役に立っていないのだが。)それは何かというと、麺類を噛んで食べる必要はない、ということである。それまでの私は麺類を食べるのが苦手で、数本の麺を口の中で噛んでいるうちに麺が口一杯になり、それ以上食う気も無くなるのが常だった。ある時、父親と外食したら、私がソバを食べにくそうにしているのを見て、麺類は噛まずに飲み込んでいいのだ、と教えてくれたのである。
 これは、コペルニクス的転回であった。私は、飲物以外で、丸呑みしていい食べ物があるということを初めて知ったのであった。で、おそるおそる麺を噛まずに飲み込んでみた。ソバで窒息するということはなく、私は無事に食事を終えた。それも、いつもの半分以下の時間で、ソバにうんざりすることもなく、である。
 それが中学生のころか、もしかしたら高校生のころだから、それまで私はいつもソバなどを食うのにいつも口の中でくちゃくちゃやっていたわけである。なぜなら、誰もソバの食い方を教えてくれなかったから。
 人生で、二次方程式を使う機会は、おそらくほとんどない。しかし、ソバを食う機会は無数にある。ところが、それを教えてくれる人はほとんどいないのだ。そこで、今でも日本のあちこちでソバをくちゃくちゃやっている子供が無数にいるのである。


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メモ日記より「生活」1

#41  生活の技術

我々が学校で教わることの9割は、試験に受かって就職する役には立つが、生きる上では無駄な知識である。医学や法学のように、学んだ知識自体がそのまま仕事に役立つ場合もあるにはあるが、しかし、それはむしろ例外に属する。
私がもしもう一度学び直すなら、自分をコントロールする技術を学びたい。たとえば、私は、夫婦喧嘩をした時、仲直りする能力や技術が無い。自分が間違っていれば、謝るのは簡単だが、相手が間違っているのに謝るというのは、私には死んでもできないことだ。いや、相手が包丁片手に脅したら、案外簡単に謝るかもしれないが、意識としては「死んでもいやだ」である。相手もこちらも謝らないのだから、家庭内冷戦が続く。
理性的には、いつまでも冷たい戦争をしているよりは、理を曲げてでもこちらから謝るほうがいい、とは分かっている。しかし、感情がそれを許さない。
つまり、我々は(あるいは、私だけか?)、自分の感情に逆らう行為は不可能なのである。身体的行為であれ何であれ、我々は自分が思う通りには行動できない。学ぶことでそれが可能になるのなら、ぜひもう一度学校をやり直したいものであるが、残念ながら、学校ではそれを教えてくれない。
私が学校を作るなら、そのカリキュラムには絶対に「嘘をつく技術」と「演技」を入れたいものである。それこそが、あらゆる人に必要な「生活の技術」だから。

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