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徽宗皇帝のブログ

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怒号と罵声の時代から優しい願いの時代へ
「世に倦む日々」から転載。
「世に倦む日々」管理人氏が言うとおり、これは行政の問題であり、行政の不備、失態であることを天皇陛下(私は基本的に「陛下」という言葉は使わないが、今上天皇に限っては、もはや「聖人」である、と思っているので「陛下」という尊称付きで書く。皇后陛下も同様だ。)がやんわりと述べたのだと思う。これが、或る意味では私が前から言う「権威による、権力への拒否権発動」である。つまり、憲法を改正して新しい政治システムを作るまでもなく、天皇という存在はその類いまれな人格によって、「金と力」に支配された政治に対し、「人民を守る」抑止力にすでになっている、ということである。
陛下のこの言葉は、一見何の影響力も持たないように見えるかもしれない。それはこれが怒号や罵声でなく、優しい「願い」として言われたからだ。「金と力」の信奉者は、「金と力」をバックにしない発言を無力なものとしてまったく顧みない。だが、「権威」による言葉は、穏やかな言葉でもやがてじわじわと多くの人の心を動かし、やがて社会全体に浸み込んでいくだろう。ここから日本の新しいフェイズ(相、局面)が始まっていきそうな予感すら私は感じる。
「谷間の百合」さんが「なぜ学生たちに学校を休ませて(老人家庭の)雪下ろしをさせないのか」と言っていたが、同感である。「他人を守る」ということは学校のくだらない勉強より、はるかに大事なことであり、青少年たちにはいい経験だろう。私が子供ならむしろ他人の家の雪下ろしを「遊び」として喜び、楽しむはずだ。
こうした豪雪地帯の老人の苦労を他人事と思う心に、すでに政治の腐敗する原因(政治の外部委託)がある。政治は身近なところから始まるのである。


(以下引用)

天皇誕生日の会見 - 豪雪地帯の高齢者の雪下ろしへの陛下の言及

新聞に大きく取り上げられるような災害ではありませんが、常々心に掛かっていることとして多雪地帯での雪害による事故死があります。日本全体で昨冬の間に雪で亡くなった人の数が95人に達しています。この数値は広島市の大雨による災害や御嶽山の噴火による災害の死者数を上回っています。私自身高齢になって転びやすくなっていることを感じているものですから、高齢者の屋根の雪下ろしはいつも心配しています。高齢者の屋根の上での作業などに配慮が行き届き、高齢者が雪の多い地域でも安全に住めるような道が開けることを願ってやみません」。天皇誕生日の会見の中にこの一節があり、各局の夜のニュース番組で取り上げられた。報ステの古館伊知郎は、天皇陛下の慈悲深さに感激したコメントを発していたが、NHKは何もコメントを加えなかった。この問題は、テレビを見ながら気になっていた問題だったので、よくぞ一石を投じてくれたと天皇陛下に感謝を言いたい。この発言は、単に天皇個人の心のやさしさとか慈悲深さを表しているという問題ではなく、行政の怠慢や社会の無神経が指摘されている問題なのだ。天皇陛下は、リーダーとして社会と行政に問題提起をしているのである。これでいいのかと。つまり、豪雪地帯に住む高齢者に対する社会の酷薄と行政の無責任を批判しているのだ。このまま放置してはいけないと言い、対策を講じよと言っているのだ。

雪下ろしの事故死の報道を見ながら、誰も何も言わないことを異常だと思っていた。誰かが何か言わなくてはいけないはずで、対策に即刻動くべきだと言わなくてはいけなかったはずだ。NHKは、この報道を続けながら、キャスターがコメントする場面はなく、単に「気象庁では厳重に注意するよう呼びかけています」だけを言っていた。古館伊知郎は、被害に遭っている豪雪地帯の高齢者に同情する素振りを示しつつ、「皆さん、十分お気をつけ下さい」で次のニュースに移っていた。この問題を、行政が動くべき問題として捉えているマスコミはない。そういう世論も起こらない。天皇陛下と皇后陛下は、きっと皇居でテレビを見ながら、それはおかしいと感じていたはずなのだ。社会が、政府が、救済を果たすべき問題として捉え、問題解決に動くのが当然ではないかと。そして、リーダーとして代弁したのだ。私は、今回の天皇陛下の発言には、かなり皇后陛下の働きかけがあったものと推測する。皇后陛下は、常々、この国の高齢者のことについて発言していた。その証拠となる情報の断片があるはずだと思って、ネットを掻き回してみたが、検索ですぐに探し出すことができない。皇后陛下がよく言っていたのは、この国の戦後復興に尽くし、今の繁栄の基礎を築いた高齢者たちが、人生の終盤を幸福に暮らすことのできるような福祉社会であるべきだというメッセージで、今の日本はそうなってないという苦言だった。

その皇后陛下のメッセージがいつのものだったか、正確に思い出すことができない。小泉改革の「聖域なき構造改革」の弊害が言われていた頃だったか、それとももっと後の民主党政権時代の、社会保障と税に絡めたところの、現役世代重視の論議が起きたときだったか、よく覚えていない。皇后陛下は時代の変化を敏感にキャッチし、弱者となった高齢者が蔑ろにされようとしている政策思想と、それを正当化するプロパガンダを撒き散らすマスコミの論調と、それに影響されている世論状況に気づき、機会を見つけては抵抗する姿勢を示していた。高齢者福祉の理念が失われている。今の日本経済を作ってくれた高齢者に対して、感謝して福祉制度の充実で応えるという態度がなくなっている。そのことを、かなり明確な批判の言葉で皇后陛下は語っていた。嘗ては、1990年代までは、お年寄りを大切にという意識があり、身体が徐々に不自由になる高齢者に内在する視線があり、それが政策にも産業にもよく反映され、少しずつ福祉国家が充実して完成してゆく日本だったのに、それが崩れてゆき、弱者である高齢者を「お荷物なコスト」として突き放して考えるようになった時代の空気の変化に、皇后陛下は静かに不服を申し立てていた。雪下ろしの件は、本来、テレビ報道のキャスターが問題提起しなくてはいけないことで、新聞が社説で書かなくてはいけないことだ。官民が具体的な知恵を出せと。政府と産業界は何かできないのかと。

天皇陛下は、会見の中で昨冬の雪害の犠牲者の数を述べ、多くの人が雪下ろしの作業中に転落事故死している事実を指摘した。これは、当然、天皇陛下が宮内庁を通じて調べさせ、政府(警察庁)から数字を取ったものだ。豪雪地帯の集落に住む高齢者は、命がけで雪下ろしの作業をしている。不注意で屋根から滑り落ちているというのがマスコミ報道の説明の仕方だけれど、本人からすれば、ほとんど一か八かの窮地で、落ちなくてよかった、今日は命を落とさずに済んだという感覚なのに違いない。戦時中のB29の空襲と同じだ。転落死のリスクを賭けてやらざるを得ないのは、それをしないと雪で屋根が潰されて死ぬからである。そうした切実な状況が、テレビ報道からは伝わって来ない。自己責任になっている。屋根から落ちたのは本人の不注意、都会の子どもが雪下ろしを手伝ってやれ、地域で助け合え、ボランティアで何とかしろ、という含意と前提で報道をしていて、視聴者もそれで済ませている。他人事として雪国の高齢者の不幸を眺めていて、次の話題に画面が切り替わった瞬間に忘れている。本当は、行政(政府)の不作為と社会の無責任による犠牲者なのだ。孤立させられているのであり、見捨てられているのだ。それは、単に高齢者だけでなく、北陸や東北や北海道の過疎地が、その全体が見捨てられていることに他ならない。この季節、新潟や長野が大雪であればあるだけ、東京は晴れて空気が乾燥している。風もなく快晴で、家へ帰ってテレビをつけると、他人が大雪で苦しんでいる。

天皇陛下の言い方を真似すれば、新聞ではあまり大きな記事にならないが、高齢者介護で限界になった弱者の世帯で、殺人や心中が頻発している。天皇陛下ではないので、役所に数字を調べさせることができない。テレビでときどき、天気予報の前にベタ扱いで纏めて並べられるニュースの中に、この種の事件が入っているときがある。キャスターのコメントは入らない。詳しい事情は取材されない。今年、子どもを捨てて餓死させた父親の件はよく報道され、政府が子どもについては監視する素振りを示しているが、老人については全く注意が向けられていない。これらの介護がらみの悲惨な事件について、できれば記者が追跡取材して、裁判の結果を教えてもらいたいものだと思う。どんな判決が出ているのだろう。というのは、殺人で有罪にすることは難しいと思うからだ。本来なら、病院に入って、そこで臨終を迎える患者が、無理やり家に住まわされ、医師や看護師の代わりに家族が面倒を見させられている。殺害して生を終わらせ、介護を終わらせるという形にする他に、果たしてどういう選択があったのかという問題だ。これから、多くの高齢者が家族に殺される最期を迎えるのであり、介護をする家族は殺人犯になって刑務所に入る決断をしないといけない。システムとして、制度がそれを個々に要請しているのであり、一番弱くて貧しくて助けをもらえないところから、そうした悲劇に各自が身を置かなくてはいけない。介護がらみの殺人は、それが殺人であるとすれば、国家による処刑であり、家族に死刑執行をさせているのと同じだ。

「楢山節考」よりも救いのない、残酷な現代版「楢山節考」だ。おそらく、今後、司法が加害者の家族を無罪にするケースが多発するだろう。殺していいよと、無罪だよと、悪いことじゃないよと、仕方ないじゃないかと。安倍晋三は、来年度予算の編成で、社会保障について「聖域を設けない削減」を指示し、社会保障の効率化と集中をすると宣言した。「聖域なき」は小泉改革に戻るという意味であり、「集中」というのは子育て世代や現役世代のための社会保障に切り換えるという意味だ。弱者である高齢者はその対象から除外される。総選挙では争点にもならなかった。




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