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久し振りに宗教論議

飯山老人の今日の記事に言及されていた「武山祐三の日記」というのを少し覗いてみると、なかなか面白いので、「お気に入り」に登録した。
その武山氏の宗教についての考えが私とよく似ているので、少し引用する。
そのエッセンスは、現在の宗教は、その宗教の始祖の思想とは大きくかけはなれているというものだ。
仏教やキリスト教の正統を受け継いでいると称する何々宗の仏教やバチカンだけでなく、新興宗教のほとんどは過去の宗教を捻じ曲げ、利用したものである。バチカンについては、私は「ユダヤ教に乗っ取られ、利用されているキリスト教」と見做している。
まあ、とりあえず、武山氏の言葉を引用しておこう。



(以下引用)


 その一つの分野が宗教なのです。いま現存している世界の大宗教はすべて真実が改竄され、宗教の開祖と言われる人たちが当初唱えていた教えとは全くかけ離れたものになっているのです。その代表がキリスト教です。私が言いたいのは、そもそものキリスト教は、教会組織を持たない、また経典である旧約・新約聖書も、当初とはかなり変更された布教と伝道に都合のよいように改竄されたものです。これは、キリスト教に止まりません。仏教もそうです。特にキリスト教はこの前に取り上げた、教会主義正統派キリスト教徒と、グノーシス派とが、凄惨な勢力争いを演じてきた歴史が厳然として存在するのです。特に、グノーシス派は徹底的に弾圧され、抹殺されつくし、護持する教えの基本である殆どのテキスト、文書類が焚書や破壊によって歴史上姿を消したのです。その結果、宗派の真髄が失われ、研究さえまともに行われてきませんでした。やっと近年、各地の遺跡や埋設物の中から奇跡的に発掘され日の目を見るようになったのです。その典型が、ナグ・ハマディ・コーデックス(写本)なのです。このナグ・ハマディ写本と似たようなケースが1970年代に発見された「ユダの福音書」というものでもあります。

 この様なキリスト教の歴史を調べて行くと、そこに思いがけない真実が見えてきます。それが従来のバチカンを中心とした教会主義のキリスト教の姿との大きな違いなのです。その典型的な相違が、神という存在を教会と言う組織の中に見出すのか、あるいは自身の中に発見するのかという根本的な思想の違いに現れているから、問題なのです。この事を述べ始めるととても少数の紙数では無理ですから、いつか機会があれば皆さん自身で研究してほしいのですが、つまりは、これまでのキリスト教は世俗支配のために堕落してしまった教義に堕ち込んでおり、聖典、教会組織、自身を罪人と認める告白とによって、宗教自体を維持してきたのです。

 この考え方には異論もあるでしょう。特にキリスト教を信仰してきた人には違和感が否めない筈です。しかし、この事は多くの歴史学者や、神学者が認めていることなのです。だがしかし、信仰と言う規範から物事を見るとき、歴史的事実とは相容れない面があります。ここが一つの矛盾点です。日本の仏教でも同じことが言えます。要するに、理屈ではないのです。前にご紹介したエレーヌ・ペイゲルスという人物も、別の本で告白しています。「禁じられた福音書―ナグ・ハマディ文書の解明」という本の中で、氏はこう述べています。

 …この選択という行為――異端 heresy という語のもともとの意味――は、私たちをあの問題に立ち返らせる。それを解決するために正統教義というものが作り出された、あの問題だ――如何にして真理と虚偽とを見分けることができるか。何が本物であり、私たちをリアリティに結びつけてくれるものであり、そして何が浅薄で利己的で邪悪なものなのか。神の真理の名において行われてきた愚行、感傷、欺瞞、殺人を見てきた人は、古代人が霊の識別と呼んだ問題に容易な答えなどないことを理解しているだろう。正統教義は、このような識別を行う私たちの能力を疑う傾向があり、私たちの代わりにそれを行ってやると主張する。だが人間には自己欺瞞という能力が与えられている事を鑑みれば、ある程度までは、教会に感謝することもできよう。私たちの多くは、困難な修行など忌避して、ただ伝統の教えるところのものを喜んで受け入れたがるものだ。

 だが、簡単な答えなど得られないという事実は、その問題を避けてもよいということを意味するわけではない。私たちは、宗教的権威を疑問なく受け入れることによって引き起こされた危険を――あるいは恐るべき害悪をさんざん見せつけられてきた。私たちのほとんどは、遅かれ早かれ、人生の重大な局面において、誰もいないところに自ら道を切り開かねばならないということに気がつく。私が、私たちの宗教伝統の豊かさと多様性の内に――そしてそれを支える共同体の内に――愛するようになったものとは、そこに数え切れない人々の霊的覚醒の証言があるということだ。だからそれは、イエスの言葉を借りれば、「求め、見出さん」と努力する人々を力づけるのである。

 長い引用になりましたが、何と含蓄の深い言葉ではないでしょうか。

 最後にまとめをしておきます。このように、伝統的教義とはバチカンを典型としています。そのバチカンは、ある点からみれば、邪悪な教会組織です。しかし、エレーヌ・ペイゲルスの言葉にあるように、自己欺瞞によって正当化されてきた面も見逃せません。しかし、このままでは新しい時代は迎えられないのです。それこそがパラダイムの大転換であり、真実の発見なのです。多分、私たちは時代の転換点の一番大切な所に立ち会っています。我々の役割は重要なのです。やはり、水がめ座の象徴である「時代の転換」には、その前に、破壊が避けられないのです。バチカンは破壊されます。聖マラキの預言にもそのようなものがありました。(終)

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