本山よろず屋本舗さんのサイトより
http://motoyama.world.coocan.jp/
<転載開始>
歴史は勝者によって作られるといいます。
historyは、his「彼の」とstory「物語」を結びつけた言葉で、彼(勝者)が作った物語というのは、よく聞く話です。
しかし、現代のように歴史的な出来事が大量の文書や映像で残されるようになると、好き勝手に歴史を書き替えるのはさすがに無理となります。
そこで勝者は、歴史の解釈を自分に都合のよいように持っていくことになります。
太平洋戦争において、勝者はアメリカでした。
すると歴史の解釈においては、以下のようでなければなりません。
勝者:アメリカ...正義
敗者:日本 ...悪
日本の戦後統治でアメリカは、日本は東南アジア諸国を「侵略」した「悪」だとして、極東軍事裁判を開き戦争犯罪人として陸軍の指導者7名を絞首刑にしました。
これは、日本は罪を犯したという認識を、日本人に持たせる為に必要な処置でした。
ここが大事なポイントで、アメリカは、「日本は東南アジア諸国に多大な迷惑をかけたので、償わなければならない」という罪の意識を植え付ける必要があったのです。
物事には多面的な側面がありますが、自分達にとって都合のよい側面だけを取り上げ、都合の悪い側面はできるだけ知らせないようにします。
方法としては、学校教育やマスコミによる反復洗脳などです。
そうした試みは大成功し、日本人の意識の中に、深く深く根ざすことになりました。
大東亜戦争において、史上最悪の作戦と言われたのがインパール作戦です。
私はNHKが作成したインパール作戦の番組を観たことがありますが、それは悲惨というだけでなく、愚かというほかないほど無残なものでした。
10万人規模の作戦で、3万人超の死亡、4万人の傷病者を出したといいます。
死者の6割が餓死や病死だったというのですから、歴史に名を残す愚かな作戦だったと言われても仕方ないと思います。
『第二次世界大戦の真実』(笹原俊著、ヒカルランド)から抜粋して紹介させていただきます。
http://motoyama.world.coocan.jp/
<転載開始>
歴史は勝者によって作られるといいます。
historyは、his「彼の」とstory「物語」を結びつけた言葉で、彼(勝者)が作った物語というのは、よく聞く話です。
しかし、現代のように歴史的な出来事が大量の文書や映像で残されるようになると、好き勝手に歴史を書き替えるのはさすがに無理となります。
そこで勝者は、歴史の解釈を自分に都合のよいように持っていくことになります。
太平洋戦争において、勝者はアメリカでした。
すると歴史の解釈においては、以下のようでなければなりません。
勝者:アメリカ...正義
敗者:日本 ...悪
日本の戦後統治でアメリカは、日本は東南アジア諸国を「侵略」した「悪」だとして、極東軍事裁判を開き戦争犯罪人として陸軍の指導者7名を絞首刑にしました。
これは、日本は罪を犯したという認識を、日本人に持たせる為に必要な処置でした。
ここが大事なポイントで、アメリカは、「日本は東南アジア諸国に多大な迷惑をかけたので、償わなければならない」という罪の意識を植え付ける必要があったのです。
物事には多面的な側面がありますが、自分達にとって都合のよい側面だけを取り上げ、都合の悪い側面はできるだけ知らせないようにします。
方法としては、学校教育やマスコミによる反復洗脳などです。
そうした試みは大成功し、日本人の意識の中に、深く深く根ざすことになりました。
大東亜戦争において、史上最悪の作戦と言われたのがインパール作戦です。
私はNHKが作成したインパール作戦の番組を観たことがありますが、それは悲惨というだけでなく、愚かというほかないほど無残なものでした。
10万人規模の作戦で、3万人超の死亡、4万人の傷病者を出したといいます。
死者の6割が餓死や病死だったというのですから、歴史に名を残す愚かな作戦だったと言われても仕方ないと思います。
『第二次世界大戦の真実』(笹原俊著、ヒカルランド)から抜粋して紹介させていただきます。
・・・<『第二次世界大戦の真実』、p148~p150から抜粋開始>・・・
■インパール作戦は破れかぶれの特攻?
大東亜戦争も終盤に差し掛かった、1944年3月、ビルマに駐屯していた日本陸軍は、隣接するイギリス領インド東部の都市、インパールに向けて進攻を開始しました。これがインパール作戦です。
作戦の目的は、インドを経由した、蒋介石率いる中国国民党への補給路(援蒋ルート)を遮断することでした。
この作戦は、日本軍将兵にとっては地獄の行軍となりました。
日本軍は3個師団でビルマから、インドに突入したのですが、まずはビルマ国境を流れる、橋のないチンドウィン川を渡河し、3000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越えなければなりません。
この時点で多くの死者が出て、補給物資を失い、とりあえずコヒマの町は落としたのですが、インパールに向かう道のりで戦線は膠着(こうちゃく)します。
制空権を持っているイギリスからの爆撃が降り注ぐ中、補給が途絶え、大量の餓死者が発生し、玉砕する部隊が続出します。
7月1日に作戦は中止され、生き残った兵士たちは元来た道を食料なしで引き返し、またもやアラカン山脈越えで大量の死者が出ます。
このあたりの事情は「ビルマの竪琴」に詳しく述べられています。
結局9万人以上の死者を出し、作戟は失敗しました。これに対するイギリス軍の戦死者は49人。この作戟の失敗により、その後の連合軍のビルマ侵攻を許し、ビルマ陥落の原因となってしまいました。
このような事情から、日本軍内でインパール作戦は「史上最悪の作戦」と呼ばれることになりました。
・・・<抜粋終了>・・・
これが日本人がよく知るインパール作戦です。
日本人に教えられた、「側面」と言えるでしょう。
これをインド国民の目からの「側面」で見ると、違った風景が広がります。
・・・<『第二次世界大戦の真実』、p151~p162から抜粋開始>・・・
インド国民から見たインパール作戦
しかし日本史上最悪の作戦と呼ばれるインパール作戦も、当のインド人民から見ると、全く様相が変わってきます。
これを説明するためには、当時のインドの状況を理解しておく必要があります。
■イギリス植民地としてのインド
1800年代前半から、インドはイギリスの植民地となっていました。イギリスから流入した安い綿織物は、インドの綿産業を壊滅させ、1840年のアへン戦争以降は、イギリスによる中国向けの、アへンの強制栽培が行われていました。
インドの富はすべてイギリスに収奪され、19世紀末には、大規模な飢饉が立て続けに発生し、何千万人の餓死者が出ました。
インド国民は何度もイギリスに対して反乱を起こしましたが、その度に鎮圧され、インドの人々の間には、戦っても無駄だ、アジア人は白人には勝てない、というあきらめのムードが蔓延していました。
■インド独立への道
このあきらめムードに一石を投じたのが、1904~05年に行われた日露戦争です。
アジアの黄色人種の国である日本が、白人国家のロシアに勝った、という事実は、インドの人々を奮い立たせ、インド国内に本格的な独立運動が生じてきました。
1885年に設立されていたインド国民会議が独立運動を活発化させ、これによってイギリスが1905年に発したベンガル分割令が廃止されました。
1916年にはジンナーらによる全インド自治連盟が結成され、1919年からは、マハトマ・ガンジーによる非暴力不服従運動が始まりました。
ガンジーの運動は、一定の成果を上げましたが、やはりイギリスからの独立を果たすための決め手を欠いていました。チャンドラ・ボースはこの運動に身を投じていましたが、1921年に、
「ガンジーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」
と述べて、この運動から離れています。日本ではインド独立におけるガンジーの役割が強調されていますが、実際にはガンジーが精神的支柱となり、チャンドラ・ボースが軍を率いて戦い、この両輪によって、独立が達成されたということができます。
■大東亜戦争の発生
そして1941年12月、大東亜戟争が発生し、日本軍はマレー半島に攻め込みました。マレー沖海戦で日本は、アジアの人々が見ている前で、不沈艦と言われていたイギリスのプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈しイギリス艦隊を壊滅させます。
インドの第2代大統領を務めた、ラダ・クリシュナンはこれについて以下のように述べています。
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた」
その後、日本はインド方面への進攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させました。
その後チャンドラ・ボースは日本に亡命し、昭南島(シンガポール)で自由インド仮政府を結成し、アンダマン島とニコパル島を軍事占領しています。
ボースは43年11月に行われた大東亜会議にも出席し、インド独立に向けた熱い思いを述べていましたね。
■インパール作戦実行
そしてインパール作戦です。
インド解放を掲げ、アラカン山脈を越え、突入してきた日本軍を見て、インドの国民は驚愕しました。
まさか、外国人が、命を懸けて、自分たちの解放のために戦ってくれるとは夢にも思っていなかったからです。
日本軍はイギリス軍と正々堂々、真正面から戦い、そして散っていきました。
インドの民衆は考えました。なんで日本が自分たちのために、命を懸けて戦っているのに、自分たちは何もしないのか、インド独立のために命を懸けて戦わなければならないのは、自分たち自身ではないのか、と。
そしてついにインドの民衆は、武器を持って立ち上がったのです。
それまでは、インド国内外の独立勢力がイギリスと戦い、一般の民衆は指をくわえてこれを見ているだけでした。
しかし、インパール作戦で命を懸けて戦う日本軍を目の当たりにして、ついに一般民衆自身が、鍬や鎌や竹やりを持って、立ち上がり、イギリス相手に戦うようになったのです。
のちにチャンドラ・ボースは、独立運動に際して、実際にインド国民が立ち上がり、イギリスと戦い始めたのは、日本のインパール作戦で、日本軍が多大な犠牲を払ってインドを救おうとしたのを見たからだ、と語っています。
■インド独立戦争開始
インパール作戦は失敗し、日本軍は撤退、それを追ってイギリス軍はビルマに突入しました。
このビルマに突入したイギリス軍と、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の戦闘が始まります。
ところが、その後日本は無条件降伏し、イギリス軍がインドに帰ってきました。
そして1945年11月、インド国民軍の将校3人が、「国王に対する反逆罪」で、イギリスによって処刑されることになりました。
これを聞いたインド民衆は、各地で蜂起し、イギリスに反旗を翻し、大暴動が勃発します。
1946年、ジンナーの指揮の下、インド民衆によって、カルカッタのイギリス人が殲滅(せんめつ)されます。
これを受けて、イギリスはインドの独立を容認、翌1947年8月15日、イギリス領インド帝国は解体され、インドおよびパキスタンが独立を達成しました。
■インド独立に際しての日本の役割
1946年、大暴動の最中に、インド弁護士会会長のグラバイ・デサイは次のように述べています。
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない、インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している」
白人には絶対勝てないと思っていたインド民衆は、日露戦争とマレー沖海戦で、自分たちでも勝てると思いなおし、インパール作戦を見て、武器を持って立ち上がることを決意しました。
インド解放のためにインパールに攻め込み、散っていった日本軍将兵たちの思いはインド民衆にしっかりと伝わり、インドの独立を導いたのです。
これはもちろんインドだけではありません。元インド国民軍大佐のハビブル・ラーマンは次のように述べています。
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない」
日本は無条件降伏をしてしまいましたが、大東亜共栄圏の理想と、自由への炎は、アジアの人々の中にしっかり息づき、アジア各国の植民地からの独立を導いたのです。
・・・<抜粋終了>・・・
これが、インド国民の目から見たインパール作戦です。
日本人が教えられた「側面」では見えない、別の「側面」があることがわかります。
私は、大東亜戦争における日本の立場を正当化したいわけではありません。
ただ、物事は多数の「側面」があり、日本人には統治者にとって都合のよい「側面」のみ教えられてきたという点を強調したいだけです。
日本が悪いということにしたいアメリカにとって、この「側面」は都合が悪いので、できるだけ日本人に知られないようにしかったでしょう。
次に紹介するのは、インドネシア独立に関してです。
この話を私が知ったのは、たかしさんの動画だったと記憶しています。
終戦が発表された1945年8月15日、インドネシアの日本軍にも帰国命令が出たといいます。
玉砕が当たり前だった地獄の戦場を生き延び、生きて日本に帰れる道がやっと開けたのです。
たかしさんは、日本の若者は家族の写真を握りしめて、「これで日本に帰れる! 家族に会える!」と思ったに違いないと説明されていました。
しかし、それでも2千名を超える若者が現地に残り、オランダ軍と戦う道を選んだのです。
そうした日本兵の心情をたかしさんの説明を聞いて、心にグッと来るものがありました。
・・・<『第二次世界大戦の真実』、p122~p128から抜粋開始>・・・
■インドネシア独立戦争
しかし、8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行ってしまったため、この会議は中止となりました。
この後、オランダが宗主国として再びインドネシアを統治することになりましたが、スカルノはこれにかまわず、8月17日、インドネシア独立宣言を発します。
この時の独立宣言の日付は、「5年8月17日」となっています。「5年」というのは、皇紀2605年のことです。
皇紀は初代神武天皇即位から数えた年号で、当時の日本で広く使われていたものです。
この直後から、戻ってきたオランダ軍との間に、インドネシア独立戟争が勃発します。
この独立戦争には、大東亜戦争終戦後、現地に残された旧日本兵3000人がインドネシア側でともに参戦しました。
彼らはインドネシア軍に武器・弾薬を提供し自らも最前線に立って、オランダと戦い抜き、実に1000人がこの戦いで戦死しています。
スカルノやハッタを中心とするインドネシア独立軍は、粘り強く戦い抜き、イギリス・オーストラリア・アメリカに外交使節団を送り、国際連合にも働きかけ、ついに1949年12月、ハーグ円卓会議にて、オランダから無条件独立を勝ち取りました。
スカルノは初代大統領に就任し、翌1950年インドネシア憲法が制定され、議会制民主主義の国家として国家運営をしていくことになりました。
■インドネシア独立に際しての日本の役割
さて、このインドネシア独立に際して、日本が果たした役割について、当のインドネシア国民はどのように考えているのでしょうか。
プン・トモ、インドネシア情報相が1957年に来日した時の言葉は以下のようなものでした。
「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった戦いであった」
モハメッド・ナチール元首相は次のように述べています。
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです」
日本は私利私欲のためではなく、アジアの植民地の人々の幸せを願って、命を懸けて、植民地解放のための戦いを遂行しました。
その思いが、いまでもインドネシアの人々の心の中に伝わっているのがわかると思います。
特にインドネシア独立戦争に際して、自ら従軍し、1000人もの戦死者を出しながら最後まで戦い抜いた、残留日本兵の方々には、本当に頭が下がります。
もしも日本がインドネシアを支配して収奪するために戦争を始めたのだとしたら、本国の降伏とともにこれらの兵士はさっさと逃げ帰ってしまっていたでしょう。
日本が本当にインドネシアのためを思い、現地の人々を幸せにしようと考えていたからこそ、彼らは現地に踏みとどまり、命を懸けて戦ったのです。
これについて、サンバス、元復員軍人省長官は次のように述べています。
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績をたたえて殊勲章を贈っているが、それだけで済むものではない」
現在でもインドネシアでは、毎年8月17日の独立記念日に、盛大な独立記念祭が行われています。
そこでは日本語の歌や、日本をたたえる歌が歌われ、旧日本軍の扮装をした男性がインドネシア国旗を掲げます。インドネシアの人々は、今でも自分たちを独立に導いた日本に対する、感謝の念を抱き続けています。
植民地解放のために命をささげた、日本の思いは、今でもインドネシアの人々の心の中に、息づいているのです。
・・・<抜粋終了>・・・
そもそも大東亜戦争で日本が戦ったのは、中国を除けば、アメリカ、イギリス、オランダなどの連合国でした。
東南アジア諸国の軍隊ではなかったのです。
それまで東南アジア諸国を植民地にしていたのは連合国であって、現地の人々は過酷な搾取を受けていました。
日本がそうした連合国の植民地支配を払いのける働きをしたのですが、そうした側面は、連合国にとって誠に都合が悪い事実です。
それゆえ徹底的な戦後の歴史教育によって、日本は東南アジアを侵略した悪の帝国だとされました。この洗脳は、いまだ日本人の歴史認識として主流となっているようです。
繰り返しますが、私は大東亜戦争で日本に罪はなかったと言いたいわけではありません。
歴史には色々な側面があり、日本人はこれまで一つの側面しか教えられてこなったと指摘したいだけです。
(2023年6月17日)
■インパール作戦は破れかぶれの特攻?
大東亜戦争も終盤に差し掛かった、1944年3月、ビルマに駐屯していた日本陸軍は、隣接するイギリス領インド東部の都市、インパールに向けて進攻を開始しました。これがインパール作戦です。
作戦の目的は、インドを経由した、蒋介石率いる中国国民党への補給路(援蒋ルート)を遮断することでした。
この作戦は、日本軍将兵にとっては地獄の行軍となりました。
日本軍は3個師団でビルマから、インドに突入したのですが、まずはビルマ国境を流れる、橋のないチンドウィン川を渡河し、3000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越えなければなりません。
この時点で多くの死者が出て、補給物資を失い、とりあえずコヒマの町は落としたのですが、インパールに向かう道のりで戦線は膠着(こうちゃく)します。
制空権を持っているイギリスからの爆撃が降り注ぐ中、補給が途絶え、大量の餓死者が発生し、玉砕する部隊が続出します。
7月1日に作戦は中止され、生き残った兵士たちは元来た道を食料なしで引き返し、またもやアラカン山脈越えで大量の死者が出ます。
このあたりの事情は「ビルマの竪琴」に詳しく述べられています。
結局9万人以上の死者を出し、作戟は失敗しました。これに対するイギリス軍の戦死者は49人。この作戟の失敗により、その後の連合軍のビルマ侵攻を許し、ビルマ陥落の原因となってしまいました。
このような事情から、日本軍内でインパール作戦は「史上最悪の作戦」と呼ばれることになりました。
・・・<抜粋終了>・・・
これが日本人がよく知るインパール作戦です。
日本人に教えられた、「側面」と言えるでしょう。
これをインド国民の目からの「側面」で見ると、違った風景が広がります。
・・・<『第二次世界大戦の真実』、p151~p162から抜粋開始>・・・
インド国民から見たインパール作戦
しかし日本史上最悪の作戦と呼ばれるインパール作戦も、当のインド人民から見ると、全く様相が変わってきます。
これを説明するためには、当時のインドの状況を理解しておく必要があります。
■イギリス植民地としてのインド
1800年代前半から、インドはイギリスの植民地となっていました。イギリスから流入した安い綿織物は、インドの綿産業を壊滅させ、1840年のアへン戦争以降は、イギリスによる中国向けの、アへンの強制栽培が行われていました。
インドの富はすべてイギリスに収奪され、19世紀末には、大規模な飢饉が立て続けに発生し、何千万人の餓死者が出ました。
インド国民は何度もイギリスに対して反乱を起こしましたが、その度に鎮圧され、インドの人々の間には、戦っても無駄だ、アジア人は白人には勝てない、というあきらめのムードが蔓延していました。
■インド独立への道
このあきらめムードに一石を投じたのが、1904~05年に行われた日露戦争です。
アジアの黄色人種の国である日本が、白人国家のロシアに勝った、という事実は、インドの人々を奮い立たせ、インド国内に本格的な独立運動が生じてきました。
1885年に設立されていたインド国民会議が独立運動を活発化させ、これによってイギリスが1905年に発したベンガル分割令が廃止されました。
1916年にはジンナーらによる全インド自治連盟が結成され、1919年からは、マハトマ・ガンジーによる非暴力不服従運動が始まりました。
ガンジーの運動は、一定の成果を上げましたが、やはりイギリスからの独立を果たすための決め手を欠いていました。チャンドラ・ボースはこの運動に身を投じていましたが、1921年に、
「ガンジーの武力によらぬ反英不服従運動は、世界各国が非武装の政策を心底から受け入れない限り、高遠な哲学ではあるが、現実の国際政治の舞台では通用しない。イギリスが武力で支配している以上、インド独立は武力によってのみ達成される」
と述べて、この運動から離れています。日本ではインド独立におけるガンジーの役割が強調されていますが、実際にはガンジーが精神的支柱となり、チャンドラ・ボースが軍を率いて戦い、この両輪によって、独立が達成されたということができます。
■大東亜戦争の発生
そして1941年12月、大東亜戟争が発生し、日本軍はマレー半島に攻め込みました。マレー沖海戦で日本は、アジアの人々が見ている前で、不沈艦と言われていたイギリスのプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈しイギリス艦隊を壊滅させます。
インドの第2代大統領を務めた、ラダ・クリシュナンはこれについて以下のように述べています。
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた」
その後、日本はインド方面への進攻を本格化させ、1942年4月にはセイロン沖海戦で連合国海軍を破り、インド洋のイギリス海軍を大きく後退させました。
その後チャンドラ・ボースは日本に亡命し、昭南島(シンガポール)で自由インド仮政府を結成し、アンダマン島とニコパル島を軍事占領しています。
ボースは43年11月に行われた大東亜会議にも出席し、インド独立に向けた熱い思いを述べていましたね。
■インパール作戦実行
そしてインパール作戦です。
インド解放を掲げ、アラカン山脈を越え、突入してきた日本軍を見て、インドの国民は驚愕しました。
まさか、外国人が、命を懸けて、自分たちの解放のために戦ってくれるとは夢にも思っていなかったからです。
日本軍はイギリス軍と正々堂々、真正面から戦い、そして散っていきました。
インドの民衆は考えました。なんで日本が自分たちのために、命を懸けて戦っているのに、自分たちは何もしないのか、インド独立のために命を懸けて戦わなければならないのは、自分たち自身ではないのか、と。
そしてついにインドの民衆は、武器を持って立ち上がったのです。
それまでは、インド国内外の独立勢力がイギリスと戦い、一般の民衆は指をくわえてこれを見ているだけでした。
しかし、インパール作戦で命を懸けて戦う日本軍を目の当たりにして、ついに一般民衆自身が、鍬や鎌や竹やりを持って、立ち上がり、イギリス相手に戦うようになったのです。
のちにチャンドラ・ボースは、独立運動に際して、実際にインド国民が立ち上がり、イギリスと戦い始めたのは、日本のインパール作戦で、日本軍が多大な犠牲を払ってインドを救おうとしたのを見たからだ、と語っています。
■インド独立戦争開始
インパール作戦は失敗し、日本軍は撤退、それを追ってイギリス軍はビルマに突入しました。
このビルマに突入したイギリス軍と、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の戦闘が始まります。
ところが、その後日本は無条件降伏し、イギリス軍がインドに帰ってきました。
そして1945年11月、インド国民軍の将校3人が、「国王に対する反逆罪」で、イギリスによって処刑されることになりました。
これを聞いたインド民衆は、各地で蜂起し、イギリスに反旗を翻し、大暴動が勃発します。
1946年、ジンナーの指揮の下、インド民衆によって、カルカッタのイギリス人が殲滅(せんめつ)されます。
これを受けて、イギリスはインドの独立を容認、翌1947年8月15日、イギリス領インド帝国は解体され、インドおよびパキスタンが独立を達成しました。
■インド独立に際しての日本の役割
1946年、大暴動の最中に、インド弁護士会会長のグラバイ・デサイは次のように述べています。
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない、インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している」
白人には絶対勝てないと思っていたインド民衆は、日露戦争とマレー沖海戦で、自分たちでも勝てると思いなおし、インパール作戦を見て、武器を持って立ち上がることを決意しました。
インド解放のためにインパールに攻め込み、散っていった日本軍将兵たちの思いはインド民衆にしっかりと伝わり、インドの独立を導いたのです。
これはもちろんインドだけではありません。元インド国民軍大佐のハビブル・ラーマンは次のように述べています。
「ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない」
日本は無条件降伏をしてしまいましたが、大東亜共栄圏の理想と、自由への炎は、アジアの人々の中にしっかり息づき、アジア各国の植民地からの独立を導いたのです。
・・・<抜粋終了>・・・
これが、インド国民の目から見たインパール作戦です。
日本人が教えられた「側面」では見えない、別の「側面」があることがわかります。
私は、大東亜戦争における日本の立場を正当化したいわけではありません。
ただ、物事は多数の「側面」があり、日本人には統治者にとって都合のよい「側面」のみ教えられてきたという点を強調したいだけです。
日本が悪いということにしたいアメリカにとって、この「側面」は都合が悪いので、できるだけ日本人に知られないようにしかったでしょう。
次に紹介するのは、インドネシア独立に関してです。
この話を私が知ったのは、たかしさんの動画だったと記憶しています。
終戦が発表された1945年8月15日、インドネシアの日本軍にも帰国命令が出たといいます。
玉砕が当たり前だった地獄の戦場を生き延び、生きて日本に帰れる道がやっと開けたのです。
たかしさんは、日本の若者は家族の写真を握りしめて、「これで日本に帰れる! 家族に会える!」と思ったに違いないと説明されていました。
しかし、それでも2千名を超える若者が現地に残り、オランダ軍と戦う道を選んだのです。
そうした日本兵の心情をたかしさんの説明を聞いて、心にグッと来るものがありました。
・・・<『第二次世界大戦の真実』、p122~p128から抜粋開始>・・・
■インドネシア独立戦争
しかし、8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行ってしまったため、この会議は中止となりました。
この後、オランダが宗主国として再びインドネシアを統治することになりましたが、スカルノはこれにかまわず、8月17日、インドネシア独立宣言を発します。
この時の独立宣言の日付は、「5年8月17日」となっています。「5年」というのは、皇紀2605年のことです。
皇紀は初代神武天皇即位から数えた年号で、当時の日本で広く使われていたものです。
この直後から、戻ってきたオランダ軍との間に、インドネシア独立戟争が勃発します。
この独立戦争には、大東亜戦争終戦後、現地に残された旧日本兵3000人がインドネシア側でともに参戦しました。
彼らはインドネシア軍に武器・弾薬を提供し自らも最前線に立って、オランダと戦い抜き、実に1000人がこの戦いで戦死しています。
スカルノやハッタを中心とするインドネシア独立軍は、粘り強く戦い抜き、イギリス・オーストラリア・アメリカに外交使節団を送り、国際連合にも働きかけ、ついに1949年12月、ハーグ円卓会議にて、オランダから無条件独立を勝ち取りました。
スカルノは初代大統領に就任し、翌1950年インドネシア憲法が制定され、議会制民主主義の国家として国家運営をしていくことになりました。
■インドネシア独立に際しての日本の役割
さて、このインドネシア独立に際して、日本が果たした役割について、当のインドネシア国民はどのように考えているのでしょうか。
プン・トモ、インドネシア情報相が1957年に来日した時の言葉は以下のようなものでした。
「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。インドネシアの場合は、350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった戦いであった」
モハメッド・ナチール元首相は次のように述べています。
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです」
日本は私利私欲のためではなく、アジアの植民地の人々の幸せを願って、命を懸けて、植民地解放のための戦いを遂行しました。
その思いが、いまでもインドネシアの人々の心の中に伝わっているのがわかると思います。
特にインドネシア独立戦争に際して、自ら従軍し、1000人もの戦死者を出しながら最後まで戦い抜いた、残留日本兵の方々には、本当に頭が下がります。
もしも日本がインドネシアを支配して収奪するために戦争を始めたのだとしたら、本国の降伏とともにこれらの兵士はさっさと逃げ帰ってしまっていたでしょう。
日本が本当にインドネシアのためを思い、現地の人々を幸せにしようと考えていたからこそ、彼らは現地に踏みとどまり、命を懸けて戦ったのです。
これについて、サンバス、元復員軍人省長官は次のように述べています。
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績をたたえて殊勲章を贈っているが、それだけで済むものではない」
現在でもインドネシアでは、毎年8月17日の独立記念日に、盛大な独立記念祭が行われています。
そこでは日本語の歌や、日本をたたえる歌が歌われ、旧日本軍の扮装をした男性がインドネシア国旗を掲げます。インドネシアの人々は、今でも自分たちを独立に導いた日本に対する、感謝の念を抱き続けています。
植民地解放のために命をささげた、日本の思いは、今でもインドネシアの人々の心の中に、息づいているのです。
・・・<抜粋終了>・・・
そもそも大東亜戦争で日本が戦ったのは、中国を除けば、アメリカ、イギリス、オランダなどの連合国でした。
東南アジア諸国の軍隊ではなかったのです。
それまで東南アジア諸国を植民地にしていたのは連合国であって、現地の人々は過酷な搾取を受けていました。
日本がそうした連合国の植民地支配を払いのける働きをしたのですが、そうした側面は、連合国にとって誠に都合が悪い事実です。
それゆえ徹底的な戦後の歴史教育によって、日本は東南アジアを侵略した悪の帝国だとされました。この洗脳は、いまだ日本人の歴史認識として主流となっているようです。
繰り返しますが、私は大東亜戦争で日本に罪はなかったと言いたいわけではありません。
歴史には色々な側面があり、日本人はこれまで一つの側面しか教えられてこなったと指摘したいだけです。
(2023年6月17日)
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